そこで、「親切」と「ここにいること」は意識のない状態を指してるのではないだろうか。とふと思ったのである。
「親切」について考えてみると、誰かに親切にするって瞬間だ。道をゆずるとか、席をゆずるとか、って理屈で考えてそうしてる訳ではない。
「パッと見てサッ」みたいな。
で、まあそれでよくて、相手に微笑まれたらとても嬉しくなっちゃう、みたいな感じだと思うんです。
この一連の動作は意識的というより直感的だ。
人に親切にできなくて悔やむ時は決まって意識が過剰になって行動が起こせなくなってしまう場合だ。
それから、「ここにいること」とは今に集中してるってことで、この時も意識はない。集中してる様を無我夢中と言ったりするが要するに意識的ではない状態である。
すると、意識というのはとてもとても幸福の妨げになっている存在ではないだろうか? と疑問に思ってしまう。
では意識とは一体なんなのか? というと僕は今のところ受動意識仮説を支持しています。
人の「意識」とは,心の中心にあってすべてをコントロールしているものではなくて,人の心の「無意識」の部分がやったことを,錯覚のように,あとで把握するための装置に過ぎない。自分で決断したと思っていた充実した意思決定も,自然の美しさや幸せを実感するかけがえのない「意識」の働きも,みんなあとで感じている錯覚に過ぎない。そしてその目的は,エピソードを記憶するためである。エピソード記憶のために脳が作った意識。ところがこの意識が前面に出ない状態の「親切」や「集中」といった行為を行なう方が「幸福」を感じるというのだ。
ヒトとロボットの心の研究
「意識がない状態」と「幸福感」はなんか関係がありそうだ。
そういえば、意識というのは最初から人間に備わってるものではない。
生まれたての赤ん坊の時はいわゆる「意識」はない。エピソード記憶をしようにもまだエピソードの初期値がないのだからそう言われてみればそうだ。
意識というのは概念思考ができるようになる年齢とともに育っていくらしい。3歳から10歳くらい。
「意識-概念思考-エピソード記憶-自我」というラインがあるだろう。
で、きっと赤ん坊の時は意識がないのだから幸福そのものなんだろうな。しかし、その幸福の絶頂の感触を覚えていない。「覚えない」メカニズムになっているのだ。
いやはや不思議だ。
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