美しさだけが残る

2026年7月4日(土)、彩の国さいたま芸術劇場へ、バッハ・コレギウム・ジャパン音楽監督・鈴木雅明先生による、J. S. バッハ《ミサ曲 ロ短調》のレクチャーを聴きに行った。[註1]

7月20日(月・祝)には、同じ彩の国さいたま芸術劇場 音楽ホールで、鈴木雅明先生指揮、バッハ・コレギウム・ジャパンによる《ミサ曲 ロ短調》BWV 232の演奏を聴く予定がある。[註2]

この《ミサ曲 ロ短調》の『サンクトゥス』は、ガブリエル・ガブリエラの物語〖13月世の白雪姫〗の音楽帳の一曲で、
実際に『新世界の創造 ― 永遠なる子どもたちの国 ―』のショート動画では『サンクトゥス』のパブリックドメイン楽譜を元にLogicProで編集し、sunoに入力して生成させた曲を使っている。



実際の演奏を聴く前に、こうして作品の背景や構造、歴史的な文脈を知ることができたのは、本当によかった。



背景を知ることで、感性の解像度が上がる

音楽にしても、絵画にしても、ただ「感じる」、というのは大切だとは思うが、
その作品がどのような時代に生まれ、どのような祈りや思想や葛藤を含んでいるのかを知ることで、
同じ作品がもう一段深く感じることはままある。

現代アートはよく、「コンセプトを読まないとわからない」と言われる。

説明を読まなければ楽しめないのは、芸術として弱い、と言われることもある。

能や狂言などの古典も、背景や解説を知ることで、やっと内容が分かる芸術のひとつだと思う。

バッハもまた然り、なのだ。

そう考えると、現代アートだけが特別に「説明を必要とする」わけではないのかもしれない。

むしろ芸術とは、感性だけで触れることもできるし、知識や教養を通してさらに深く触れることもできるし、
また、知った後でもう一度まっさらな気持ちで接してみることもできたりと、
何度でも味合うことができる代物なのである。



教会で聴くこと、ホールで聴くこと

レクチャーの質問時間に、とても興味深い質問があった。

教会で演奏することはありますか。
教会とコンサートホールで演奏することに、何か違いはありますか。

という質問だった。

私はその瞬間、先生はこう答えるのではないかと思った。


バッハの時代、このような宗教音楽は教会や信仰と深く結びついていた。
バッハ自身も信仰の中から曲を書いたのだろうし、教会という空間で演奏されることを前提とした細かい配慮のもと作曲しただろう。
それらのことを考えると、やはり教会で聴くバッハこそが最もふさわしいのではないか。


私は一瞬、そんな答えを想像した。

でも、先生のお話は少し違っていた。

私の理解では、
先生は、バッハの時代と現代とでは、権威や信仰のあり方が大きく違う、ということを話されていた。

当時は君主制時代でもあり、神と王、宗教と権威が、今よりもずっと強く結びついていた。

バッハ自身は敬虔なルター派で、ローマ・カトリックに対する強い神学的批判もあった、という複雑さもある。

また、科学革命はすでに起きて、ニュートン『プリンキピア』は1687年刊行で、バッハの生年1685年のすぐ後だ。
とは言え、当時は「科学」の意味も違っていて、聖書の非科学性を証明するものではなく、神をより深く知るためのものだったりしたのだ。

その時代の信仰、宗派的な対立、社会の構造を、現代の私たちがそのまま再現することはできない。

また、バッハの音楽を現代の教会で、単純に「信仰の音楽」として置き換えて演奏することにも、さまざまなずれや難しさがある。

けれど、バッハの音楽の美しさは、時代を超え、信仰を超え、場所を超えて、世界中の人々に届く。

仏教徒でなくても、仏像を美しいと思うことができる。

イスラム教徒でなくても、モスクの建築や装飾を美しいと思うことができる。

それと同じように、キリスト教徒でなくても、バッハの音楽に深く感動することができる。

だから現代においては、コンサートホールで、芸術として、バッハを聴くことが相応しい、と。



本来の場所に戻すことだけが正しいのではない

私はそれに、とても驚いた。

「本来の場所に戻すこと」が正しいのではなく、時代が変わった以上、作品の受け取り方も変わる。

けれど、それによって作品の価値が失われるわけではない。

むしろ、特定の信仰や制度を超えて、芸術として開かれる。

その考え方に、深く感動した。




帰り道、ヤヨちゃんと二人で「すごくよかったね」と話しながら歩いた。

そのとき僕は、こんなことを言った。

「当時のバッハが、キリスト教への信仰から曲を作ったということは、おそらく確かなのだと思う。
でも、現代の僕たちは、その信仰そのものを共有しているわけではない。
僕たちは、信仰の中身ではなく、形として残った音楽を聴いて感動している。
それって、最も本質的なものだけが抜け落ちた抜け殻に感動しているということなのだろうか?」と。

そう言ったら、ヤヨちゃんは、

「逆だよ。」

と言った。

「最も本質的で大切なものだけが残って、他のものは時代とともに消えていくんだよ」と。

それを聞いて、僕はとても感動した。

ヤヨちゃんは本当に芸術を信じているのだと思った。

そして改めて、ヤヨちゃんのことを深く尊敬した(ちょっと照れくさいけど)

さいたま芸術劇場にて

ガブリエル・ガブリエラの物語について

ガブリエル・ガブリエラの物語には、動物の魂を癒したいという動物保護への思いがある。

人類は地球にとって「がん細胞」のような存在なので滅ぶのが正解ではないだろうか? という痛みを伴う問いもある。

そうした思いや問いは、作品を生み出す火種である。

もしそこに「美」が宿っていたならば、その作品は残るのかもしれない。
がしかしイデオロギーは消失するのだろう。


芸術は、背景を失った抜け殻ではなく、

時代的なものが剥がれ落ちたあとに残る、最も大切な核なのだ。

芸術とは、思想が消えたあとにも残る祈りなのかもしれない。

そしてその祈りは、美しさという形をとって、時代を超えていく。


〖 13月世の白雪姫 〗シリーズ
新世界の創造 ― 永遠なる子どもたちの国 ―


参考



マンチェスターの変な踊りと、祈る身体



映画『アン・リー / はじまりの物語』を観ていて、物語そのものより先に、身体の動きが気になった。

歌う。
祈る。
震える。
踊る。

信仰というと、静かに祈るというイメージだけど、
シェイカー教の信仰はまず身体に現れ、映画ではミュージカルとして表現されていた。

アン・リーは1736年、マンチェスターに生まれたとされる。

マンチェスターという街の名前を聞くと、私はどうしても音楽のことを思い出してしまう。

Joy Division、The Smiths、The Stone Roses、Happy Mondays、Oasis etc。。。

マンチェスターからは、良いバンドがたくさん出ている。




「おマンチェ」もまた変な踊りが印象的だった。なんか土地の記憶のようなものが残っているのだろうか。



シェイカー教は、身体が祈っていた

シェイカー教は、正式には「キリスト再臨信者協会」と呼ばれる宗教共同体で、歌や踊り、身体の震えを伴う礼拝によって知られている。

「Shaker」という呼び名も、礼拝中に身体を震わせるような動きがあったことに由来するとされる。

身体が震える。
身体が動く。
身体が歌う。

信じるということが、頭の中の思想ではなく、身体の状態として現れる。

傍から見ると少しキモくもあり、同時にとても自然なことのようにも思える。



シェイカー教の教義に結婚してはいけない、というのがあるが、
なんとなくだけど、この宗教、今、生まれていたら案外うまく行きそうな感じもしなくもない。



マンチェスターという土地

18世紀から19世紀にかけて、マンチェスターは産業革命の中心地のひとつになっていった。

綿工業、工場、人口流入、貧困、労働者の街。


土地には身体動作のミームのようなものが残るのではないか、とは思う。

祈りで震える身体。
工場で反復する身体。
貧しさの中で耐える身体。
音楽で解放される身体。

それらが、はっきりとした歴史の線ではなく、もっと曖昧な身体の記憶として、土地に染み込んでいるのかもしれない。



あの変な踊り

マンチェスターの音楽には、うまいダンスというより、身体が勝手に持っていかれてしまうような動きがある気がする。

Joy Divisionのイアン・カーティスの動きもそうだし、




Happy Mondaysもそうだ。



イアン・カーティスの動きには、内側から何かに引き裂かれているような切実さがある。
ハッピーマンデーズは意味から解放されてしまった祝祭のような可笑しさがある。

どちらにも「きれいに踊ろう」としていない感じがある。


祈り、労働、音楽

祈りも、労働も、音楽も、身体の反復を持っている。

祈りは、言葉を何度も唱える。
労働は、同じ動作を何度も繰り返す。
音楽は、リズムを何度も反復する。

反復は人を別の場所へ連れていくこともありそう。

同じリズムを繰り返しているうちに、いつの間にか意識の位置が少し変わっている。

瞑想も、祈りも、労働も、ダンスも、ひょっとしたらそこでは近いものなのかもしれない。

身体が同じ動きを繰り返すことで、頭で考えている「私」の輪郭が少しゆるむ。

それを神と呼ぶ人もいるだろうし、音楽と呼ぶ人もいるだろうし。そんな何かが、土地の記憶となることもあるのかもしれない。



線もまた、身体の記憶なのかもしれない

私が描いている線譜も、頭の中で考えた図形というより、身体が反復した痕跡に近い。

一本の線を引く。
また線を引く。
少しずれて、また線を引く。

それを繰り返しているうちに、線はだんだん音楽のようになっていく。

描いているというより、身体の中にあるリズムが、紙の上に残っていく。

そう考えると、絵もまた、祈りや労働や音楽と遠く離れているものではないのかもしれない。

絵は、頭の中のイメージをただ写すものではなく、身体が世界に触れた痕跡に近い。



身体は、土地の記憶を持っているのか

マンチェスターのバンドの身体表現と、18世紀のシェイカー教。

一見何の繋がりもないが、身体は、土地の記憶を持っているのではないか。

映画『アン・リー / はじまりの物語』を観てから、気になっている。


祈りも、労働も、音楽も、絵を描く線も、頭で考えるより前に、身体から出てくる。

そして身体から出てきたものは、言葉よりも長く残ることがある。

あの変な踊りは、ただ変なのではなく、どこか遠い祈りや労働の残響なのかもしれない。

そんなことを考えながら、また線を引いている。






参考

『アン・リー / はじまりの物語』公式サイト
Shaker Heritage Society - History of the Shakers
The Guardian - Cotton Capital: how slavery made Manchester the world’s first industrial city

【 純粋深淵 】

純粋深淵

1. コンセプト

純粋深淵とは、作者の思想や物語を伝える詩ではなく、
言語空間上のパラメーターによって、読み手自身の中にある
「深淵」や「神秘」を感じるクオリアを励起させる詩である。


2. 制作原則

原則1:作者の思想を伝えない

作者の信条、教義、人生訓、スピリチュアルな主張、政治的立場、倫理的説教を入れない。

これは「作者の正しさ」を伝える詩ではない。


原則2:意味ではなく、意味の発生条件を作る

詩の目的は、明確なメッセージを伝えることではない。

目的は、読み手の中で
「何か深いものがあるように感じる」
「何か神秘的なものに触れた気がする」
という感覚が立ち上がる条件を作ることである。


原則3:意味の空洞を保つ

読み手が完全に理解できる文章にしすぎない。
しかし、完全なランダム文字列にもしてはいけない。

重要なのは、
読める。けれど、つかめない。
意味がありそう。けれど、確定しない。


3. 基本パラメーター

各項目を 1〜10 で設定する。

1. 言葉と言葉の距離

隣り合う語の意味的距離。

1:近い
例:雨、雲、空、風

10:遠い
例:雨、位相、胎内、星図、沈黙

高くすると、意味は崩れやすくなるが、深淵感は増す。


2. 抽象度

具体物と抽象語の比率。

1:具体的
例:猫、窓、机、海

10:抽象的
例:存在、無限、構造、記憶、永遠

高くすると、哲学的・神秘的な印象が強くなる。


3. 意味の欠落度

文として読めるが、明確な意味に到達できない度合い。

1:意味が分かる
10:意味がほぼ空洞

純粋深淵では、6〜8 が基本値。

10に近づけすぎると、詩ではなくノイズになる。


4. 神秘語彙の密度

深淵、神秘、永遠、星、沈黙、虚空、光、影、祈り、箱、距離、輪郭などの語彙密度。

低すぎると日常詩になる。
高すぎると自己啓発風・宗教風になる。

基本値は 4〜6。


5. 構文の揺らぎ

文法の自然さと崩れの度合い。

1:普通の文章
10:かなり崩壊した文章

純粋深淵では 5〜7 が使いやすい。

例:

意味は雨の輪郭を持たない、まだ
無限から沈黙がこぼれるの


6. 主体の不在度

「私」「あなた」「彼」などの主体をどれだけ消すか。

1:主体がはっきりある
10:主体がほぼ消える

主体を消すほど、作者の個人的感情が薄まり、言語空間そのものが話している印象になる。


7. 時間の歪み

過去・現在・未来の整合性をどれだけ揺らすか。

例:

永遠はまだ、昨日の箱を知らない
記憶はこれから沈黙する

高くすると、夢・神話・深淵感が増す。


8. 空間の歪み

距離、窓、箱、海、星、穴、構造、階層などを使い、空間感覚を不安定にする度合い。

例:

窓の内側に海があり
海の外側に沈黙がある

Senfuや線画との接続が強い項目。


9. 情動温度

冷たい/温かい/悲しい/静かな情動の濃度。

純粋深淵は、過剰に感情的にしない。
基本は 低温〜微温。

目安は 3〜5。


10. 余白・沈黙

改行、間、欠落、言い残しの量。

純粋深淵では非常に重要。

言葉で埋めるのではなく、
言葉の間に深淵を発生させる。


4. 制作手順

Step 1:パラメーターを設定する

例:
言葉の距離:8
抽象度:9
意味の欠落度:7
神秘語彙密度:5
構文の揺らぎ:6
主体の不在度:8
時間の歪み:7
空間の歪み:8
情動温度:4
余白:8

Step 2:文を生成する(AI)

Step 3:140字以内にまとめる(手作業)




深淵をのぞきこむとき、
深淵もまたこちらをのぞきこんでいるのだ。

— ニーチェ

シリーズ「近代の超克」:③ 六塵 「我思う、それもまた塵なり」

仏教には「六塵」という言葉がある。

色・声・香・味・触・法。

私たちはふつう「五感」と言う。
見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる。

けれど仏教では、そこにもうひとつ「法」が入る。

ここで言う法とは、思考、記憶、概念、意味、イメージ、不安、物語のようなものだと考えてよいと思う。

つまり仏教では、思考もまた、見えるものや聞こえるものと同じく、私たちに現れてくる対象として扱われている。

これが、私はとても気になった。



線譜『エーテルの歌姫』(2018)


五感と思考を分けてしまった近代

私たちは、五感と思考を分けて考えがちだ。

五感は外の世界を受け取るもの。
思考はそれを判断する内側のもの。

そういう感覚が、かなり深く染みついている。

けれど、よく考えてみると、思考もまた私に「現れている」。

不安が浮かぶ。
記憶がよみがえる。
言葉が生まれる。
意味が立ち上がる。
「私はこういう人間だ」という考えが出てくる。


クオリアという言葉で言えば、見えの質感、音の質感、匂いの質感、味の質感、身体感覚の質感だけでなく、思考や意味や記憶の質感もある。

だから、経験の全体を見ようとするなら、「五」では足りない。

六塵になる。



六根、六境、六識、六塵

仏教では、六根・六境・六識という見方がある。

  • 六根とは、眼・耳・鼻・舌・身・意。認識の入口である。
  • 六境とは、色・声・香・味・触・法。六根が捉える対象である。
  • 六識とは、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識。そこに生じる認識である。

六塵は、この六境を、心を曇らせる対象として見た呼び方だと考えるとわかりやすい。


かなり単純に言えば、

六根が、六境/六塵に触れて、六識が生じる。

ということになる。


たとえば、見ることなら、眼根があり、色境があり、眼識が生じる。

聞くことなら、耳根があり、声境があり、耳識が生じる。

そして、考えることなら、意根があり、法境/法塵があり、意識が生じる。

ここが重要だ。

仏教では、思考は「私そのもの」ではない。

思考は、意に現れる法塵である。



「我思う故に我あり」の盲点

デカルトの「我思う、故に我あり」は、近代哲学の出発点のように語られることが多い。

世界は疑える。
身体も疑える。
感覚も疑える。

けれど、いま疑っている、考えているということだけは疑えない。

だから、考えている私は存在する。

これが大まかな流れだと思う。

もちろん、これはとても強い考え方だ。

「思考が起きている」という事実は、たしかに否定しにくい。

けれど、仏教の六塵や六識の側から見ると、そこにひとつ盲点があるように思う。

それは、

思考があることと、思考している実体的な私があることは、同じではない。

ということだ。



思考は王座ではなく、塵である

近代は、思考を特別扱いしたのかもしれない。

五感は不確かである。
見間違いもある。
錯覚もある。
夢かもしれない。

けれど、思考している私は確かである。

そうして「思考する私」が、世界を眺め、判断し、所有し、意味づける中心になっていった。


しかし仏教は、その思考すらも、対象の側に置く。

思考は、私の王座ではない。

思考もまた、私に現れてくるもののひとつである。

それは、色や音や匂いや味や触覚と同じように、現れては消える。

そして、それに執着すれば、心に塵が積もる。


この見方は、かなり救いでもあると思う。

なぜなら、考えが苦しい時、その考えが「私そのもの」ではない可能性が開かれるからだ。

不安がある。
でも、不安そのものが私ではない。

考えがある。
でも、考えそのものが私ではない。

「私」という考えがある。
でも、その「私」という考えすら、ひとつの法塵なのかもしれない。



制作の中で起きていること

これは、制作の感覚にも近い。

絵を描いている時、私はたしかに「私が描いている」と思っている。

けれど、もっと深く見ると、そこでは別のことが起きている。

線が生じる。
音の記憶が動く。
身体が反応する。
言葉になる前の感覚が現れる。
まだ意味になる前のものが、形になろうとする。

それをあとから「私の作品」と呼んでいる。



線譜『無題(仮)』


身体の律動が、思考になる前に線として現れる。

言葉では処理しきれない感情や記憶が、物語として現れてくる。

意識に現れた法塵が、世界として立ち上がる。

そう考えると、制作とは「私が世界を表現」しているのではなく、

私に現れてくるものを、私が少しだけ手伝って、形にしているだけなのかもしれない。



ネズミに恋したネコのタムちゃんシリーズ


「我思う」のあとに

デカルトは、思考の確実性を見つけた。

世界も、身体も、感覚も疑える。
けれど、疑っているということだけは疑えない。

そこから「私」の確実性を取り出した。

それが「近代」の大きな発見だったのだと思う。

けれど、仏教の六塵・六識の側から見るなら、その思考もまた、意に現れた法塵である。

「我思う」の奥に、「我」はいない。

そこにあるのは、意に触れた法塵と、それに応じて生じる意識なのかもしれない。

もしそこから、固定した「私」を出発点にして演繹を始めてしまったら、
いつかどこかで、ボタンの掛け違いのような破綻が現れる。

それは、まるで「現代」そのものではないだろうか?

我思う。
それもまた塵なり。

我もまた、塵なり。

一切皆空。

そう考えると、少しだけ楽にならないか。

思考を眺める。

「私」が立ち上がってくる場そのものに気づく。

そしてそこから、絵も、物語も、世界も、もう一度立ち上がってくる。



参考

渋沢MIX「スタートアップ・スモールビジネス起業家交流会」に登壇します

なんと、ひょんなことから、「スタートアップ・スモールビジネス起業家交流会」の登壇者をやることになりました。

会場は、さいたま新都心の渋沢MIX。スタートアップ起業家の方、一人あるいは小規模事業所の経営者の方が、それぞれの課題やこれからのことを持ち寄って交流する会です。

イベントアイキャッチ:スタートアップ・スモールビジネス起業家交流会

イベント概要

日時:2026年6月24日(水) 18:00〜20:00
受付開始:17:45
場所:渋沢MIX
埼玉県さいたま市大宮区吉敷町4丁目262番18 ekismさいたま新都心 5階
参加費:無料
定員:100名
申込締切:2026年6月23日(火)

対象は、スタートアップ起業家の方、そして一人あるいは小規模事業所の経営者の方です。当日は参加者同士の名刺交換会もあるそうなので、名刺をお持ちください。

発表では、自社紹介だけでなく、1年後、あるいは数年後にどうなっていたいのか、そのために今どんな課題があるのかを話し、そこからディスカッションにつなげていく形になりそうです。

登壇者として参加します

登壇者写真:武 盾一郎

渋沢MIXの登壇者紹介では、私は「画家、ガブリエル・ガブリエラ代表、十三月世大使館 店主」として紹介されています。

新宿西口地下道での段ボールハウス絵画からアーティスト活動を始め、路上や被災地での表現活動、「線譜」シリーズ、「ネズミに恋したネコのタムちゃん」シリーズなどを経て、今はガブリエル・ガブリエラ代表、十三月世大使館店主として活動しています。

自分の活動は、いわゆるスタートアップの文脈とは少し違って見えるかもしれません。

今回、私は「13月世の精霊の世界という大人のごっこ遊びを一緒にやりましょう!」ということを呼びかけようかなと思っています。

スタートアップやスモールビジネスの方へ

この会は、起業して間もない方や、個人の専門性を活かして事業を展開しようとしている方が、今抱えている課題や、これから何をしていきたいのかを交流し合う場として企画されています。

私自身も、ガブリエル・ガブリエラや十三月世大使館を通して、アート、場所、物語、仕事、暮らしがどうつながっていくのかを考え続けています。

ご都合の合う方、興味のある方は、ぜひご参加ください。

詳細とお申し込みはこちらです。
スタートアップ・スモールビジネス起業家交流会 | 渋沢MIX