装飾は、本質がこの世に現れるための作法である

装飾とは
「飾る」ということですが、それは同時に「隠す」意味も含みますし、装飾は表出させることでもあります。

artscapeによると以下です。
飾ること。美しく装うこと、またその装いや飾り。ornamentはある造形物をより魅力的に見せるdecorationのための付加物であり、それ自体は機能をもたずとも視覚を通じて美的な快感情を引き起こす。古来、装飾は工芸的価値をもってきたが、モダニズムのデザインが機能主義やシンプルさを至上価値とすることで、装飾は否定的に扱われるようになる。例えばO・ワーグナーは機能主義の見地から「芸術は必要にのみ従う」と主張し、A・ロースは手工業的なウィーン分離派、ウィーン工房に反対する立場から論文「装飾と犯罪」(1908)の中で装飾の不純性、不道徳性を批判した。また、ル・コルビュジエは『今日の装飾芸術』(1925)において近代における装飾の欺瞞を指摘し、装飾を廃した工業製品の合理性を礼賛した。日本の近代建築においては佐野利器が反装飾を貫き、合理性、機能性を主張することで芸術的、思想的要素の排除に向かった。とはいえ装飾は地域により偏差をもちながら様式化する。反装飾をもっぱらとした近代の造形物もまた趣味判断を免れえず、そもそも造形物というものは物質と形態をもたざるをえないことから、近代建築もまた装飾に代わる趣味的な価値を必要とするだろう。

なので、「装飾って好き?」 って問われた場合、

「そうねえ、ボクが知りたいのは本質とか真実だから、装飾には興味ないかなあ」

と答えた方が、深そうではある。
デザインやアートに造詣が深ければなおさら。



さて、ここからが本題で、
でも、本当にそうだろうか。

本質や真実は、裸のままそこに置かれているものなのだろうか。

むしろ本質は、
何かに包まれ、隠され、守られながら、
ようやくこちらに姿を現すものなのではないか。

たとえば、花。
花びらは、植物にとって装飾のように見える。
けれど花びらは、ただの飾りではない。
虫を呼び、命をつなぎ、植物の存在の目的そのものに関わっている。

たとえば、衣服。
衣服は身体を飾るものだけれど、
同時に身体を隠し、守り、
その人がどう世界と関わりたいのかを表している。

たとえば、言葉。
言葉もまた、心そのものではない。
心にまとわせる衣のようなものだ。
けれど私たちは、その衣を通してしか、
相手の心に触れることができない。

そう考えると、装飾は本質の外側にある余計なものではない。

装飾は、本質がこの世に現れるための形式である。

飾る。
隠す。
表出する。

この三つは、別々のことではなく、
ひとつの働きなのだと思う。

たぶん、本質は無形なので、そのままではこの世に現れにくいのだろう。
それは、プラトンのいう「イデア」に近いものなのかもしれない。

また、
本当に大切なものは、
むき出しにされると壊れてしまうことがある。
だから隠される。
けれど、完全に隠れてしまえば誰にも届かない。
だから飾られる。
そして、その飾りを通して、
奥にあるものがかすかに表出する。

装飾とは、
本質を誤魔化すものではなく、
本質が傷つかずに世界へ出てくるための作法なのかもしれない。

アートも、たぶんそうだ。

絵具、線、色、かたち、物語、額装、展示空間。
それらはすべて装飾のように見える。
けれど、それらがなければ、
作品の奥にある感情や祈りや気配は、
この世に現れることができない。

装飾は、表面でありながら、表面だけではないのだ。

装飾は、深いものが表面に到達するための通路である。


装飾とは、
見えない本質が、
この世に姿を現すための作法なのだと思う。


2020年3月16日に書きかけのブログを更新しました。

「近代の超克」のヒントは「意識のハードプロブレム」にある

「我思う、ゆえに我あり」を近代の幕開けとしたならば、
「近代の超克」という課題のヒントは
「意識のハードプロブレム」にある。


デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は、
疑いようのない「私」を発見した言葉である。

世界を疑うことはできる。
感覚を疑うこともできる。
目の前のものが本当に存在しているのかを疑うこともできる。

けれど、疑っている私がいることだけは疑えない。

この「疑いようのない私」から、
近代は始まったといわれている。

けれど、ここでひとつ大きな問いが残る。

では、その「私がある」という感覚そのものは、
一体何なのだろうか。

私が私である感じ。
世界が私に現れている感じ。
赤を見る感じ。
痛みを痛みとして感じること。
美しいものに触れたとき、胸の奥で何かが震えること。

これらは、たしかにある。

しかし、それがなぜ生じるのかは、
現在の科学でもまだ十分には説明できていない。

脳の働きを調べることはできる。
神経の信号を測ることもできる。
情報処理の流れをモデル化することもできる。

けれど、そこからなぜ「主観的な経験」が生まれるのか。

ここに、意識のハードプロブレムがある。

考えてみると、これはとても不思議なことである。

私は、「近代の超克」という課題のヒントは、
「意識のハードプロブレム」にあるのではないかと思う。

近代を超えるとは、
一人称の経験そのものへ向き合うことなのではないか。

「私が世界を見ている」ということ。
「私に世界が現れている」ということ。
「私が感じている」ということ。

アートは、クオリアを扱う行為である。
線や色が何かの気配を帯びて立ち上がる。

人は作品の前に立ったとき、
何かを感じている。

その「感じ」は、完全には説明できない。
けれど、たしかに起きている。

同じ作品を見ても、
ある人には懐かしさとして現れ、
ある人には不安として現れ、
ある人には美しさとして現れ、
ある人には祈りのようなものとして現れる。

作品は他者の意識の中で、
別の現れ方を始める。

これもアートの面白さである。

「我思う、ゆえに我あり」から始まった近代は、
考える私を発見した。

アートは、
「感じる私の不思議さ」を扱っている。

その意味で、アートは、
「意識のハードプロブレム」の実践でもある。

なぜ感じるのかは分からない。
けれど、感じている。

この「分からないが、たしかに起きている」という場所に、
創作の根がある。

近代が「考える私」を発見したのだとすれば、
その「考える私」を感じているもの、
つまり「クオリア」の不可思議さの中にこそ、
「意識のハードプロブレム」と、
「アート」と、
「近代の超克」が交差する地点があるのかもしれない。



2022年8月22日に書きかけだったブログ記事を更新

・我思う、ゆえに我あり/ルネ・デカルト(1596~1650)
・神は死んだ/フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(1844~1900)
・現象学/エドムント・フッサール(1859~1938)
・受動意識仮説/前野隆司(1962~)
・意識のハードプロブレム/デイヴィッド・チャーマーズ(1966~)
・計算機自然/落合陽一(1987~)


現象学



魔法の世紀/落合陽一



受動意識仮説/前野隆司



私を2つに分ける──内臓系と体壁系

私の身体を大きく2つに分けるとすると、何と何でしょうか。

普通に考えると、
「頭」と「体」
と分けたくなります。

あるいは、
「心」と「身体」
と分けることもできます。

けれども、三木成夫『内臓とこころ』では、身体を
「内臓系」と「体壁系」
に分けて考えています。

「体壁系」は、皮膚、筋肉、骨格、手足、感覚器官のように、外の世界へ向かって働く身体。

見る。
聞く。
触れる。
歩く。
描く。

外界と関わり、行動し、表現する身体です。

一方で「内臓系」は、呼吸、消化、循環、生殖のように、生命そのものを支えている身体です。

自分の意思で動かしているというより、気づかないところで、絶えず働き続けている身体。

この分け方を知ると、意識についての見方が少し変わってきます。

私たちは、意識を「頭の中にあるもの」と考えがちです。

けれども本当は、意識は脳だけで完結しているのではなく、呼吸や心拍、内臓のリズム、皮膚感覚、姿勢、動きなど、身体全体の働きの中から立ち上がっているのではないか。

そんなふうに感じます。

絵を描いているときも、頭だけで描いているわけではありません。

線を引く手。
画面との距離。
息の深さ。
身体の緊張とゆるみ。
胸の奥や腹の底にある、まだ言葉になる前の感覚。

そういうものが、一本の線やひとつの形に現れてくる。

創作とは、頭で考えたイメージを手で再現することではなく、身体の奥にあるリズムが、外の世界へ姿を現すことなのかもしれません。

その意味で、絵は「内臓系」と「体壁系」のあいだに生まれるものだと思います。

内側でうごめいている、まだ名づけられない感覚。
外側へ向かって伸びていく、線や色や形。

その境目で、作品は少しずつ生まれてくる。

意識も、創作も、身体の中に閉じているわけではありません。

身体を通して外の世界と触れ、外の世界に触れられながら、「私」というものが立ち上がっている。

だから私にとって描くことは、単に絵を作ることではなく、私という小宇宙が、この世界と応答するための方法なのだと思います。

過去に書いた文章にも、この問題意識はつながっています。

【羽化の作法 113】現在編 わたしも「意識」について考えた
https://take-junichiro.blogspot.com/2020/09/113.html

脳から身体へ、そして小宇宙へ
https://take-junichiro.blogspot.com/2014/01/blog-post.html

(2023年7月4日に書きかけていたブログを更新)

アートは生まれる場所と売られる場所が違う

「アート」と他のサービスとの違い


多くの商品・サービスは「課題の解決」で成り立っている。

アートも結果として「課題の解決」に役立つものが売れたりはしている。

しかし、アートの源泉は内発的なものである。
外から与えられた課題に対して見事な解決を出力することとは根本的に違う。

だからこそアートとは誰かの「当たり前」の外側に現れることがある。
一方で課題解決とは「当たり前」の中で、より便利に、より効率的にしようとする動きである。

つまり、
アートとは内発的で、時に「当たり前」そのものを揺さぶるものである。


アートが売られる場所


これらがアートの源泉ではあるが、このアートを価値付ける時に必要なものが「権威」と「市場」なのである。

もし本当に「権威」と「市場性」を嫌った人がいたら、その人は自分の作った作品を「アート」の市場で売ろうとはせずに、こっそりしまっておくだろう。

ところが、そんな人を私は見たことがない。

見たことがない理由は二つある。
一つは、そんな人がいたとしても出会えないし気が付けない。
自分の作品を認めてもらいたい欲望が発生しないならば、その人は何もアピールしないので、発見するのは不可能である。


そして、もう一つはそんな人は存在しない。
自分の作品を社会に認めさせたい欲望に打ち勝ってこっそり隠しておく人なんてほぼ存在しない、ということだ。ヘンリー・ダーガーは本当に特異な一例だろう。


「アール・ブリュット」というのもあるが、描いている本人は、例えば先生とか家族とか誰かに認めてもらいたい一心で描いてたりする。
先生とか家族がマーケットに売り出して有名な先生や評論家やキュレータにプロデュースしてもらって「アール・ブリュット」となるので、実は決して100%純粋ってワケでもなく、そこには「権威」と「市場」のエキスがガッツリと染み込ませてあるものなのだ。


よって、内発的に作られ、「常識」から外れた内容であれば、即「アート」とならないのである。
きちんと「権威」を纏わせて、「市場性」をたっぷりと染み込ませて「アート」になるのだ。
この内発性(往々にして非権威的で非市場的な発生だったりする)と、権威と市場性のアンビバレントで奇妙な共犯関係は「アート」の重要な側面である。



これ、大分、昔に書きかけていたブログ記事なんだけど、アップしてみた。


Canon PIXUS PRO-10S で B200 エラーが出た時の対処法


大分前ですが、このエラーが出て修理に出した。

しかし!
PIXUS PRO-10S機種別 修理・メンテナンスのお申し込み

本製品は2025年09月末日をもちまして修理対応期間が終了しており修理・メンテナンスを承ることができません。

と、ある。。。
もう故障したら買い替えるしかないのか。。。