【 純粋深淵 】

純粋深淵

1. コンセプト

純粋深淵とは、作者の思想や物語を伝える詩ではなく、
言語空間上のパラメーターによって、読み手自身の中にある
「深淵」や「神秘」を感じるクオリアを励起させる詩である。


2. 制作原則

原則1:作者の思想を伝えない

作者の信条、教義、人生訓、スピリチュアルな主張、政治的立場、倫理的説教を入れない。

これは「作者の正しさ」を伝える詩ではない。


原則2:意味ではなく、意味の発生条件を作る

詩の目的は、明確なメッセージを伝えることではない。

目的は、読み手の中で
「何か深いものがあるように感じる」
「何か神秘的なものに触れた気がする」
という感覚が立ち上がる条件を作ることである。


原則3:意味の空洞を保つ

読み手が完全に理解できる文章にしすぎない。
しかし、完全なランダム文字列にもしてはいけない。

重要なのは、
読める。けれど、つかめない。
意味がありそう。けれど、確定しない。


3. 基本パラメーター

各項目を 1〜10 で設定する。

1. 言葉と言葉の距離

隣り合う語の意味的距離。

1:近い
例:雨、雲、空、風

10:遠い
例:雨、位相、胎内、星図、沈黙

高くすると、意味は崩れやすくなるが、深淵感は増す。


2. 抽象度

具体物と抽象語の比率。

1:具体的
例:猫、窓、机、海

10:抽象的
例:存在、無限、構造、記憶、永遠

高くすると、哲学的・神秘的な印象が強くなる。


3. 意味の欠落度

文として読めるが、明確な意味に到達できない度合い。

1:意味が分かる
10:意味がほぼ空洞

純粋深淵では、6〜8 が基本値。

10に近づけすぎると、詩ではなくノイズになる。


4. 神秘語彙の密度

深淵、神秘、永遠、星、沈黙、虚空、光、影、祈り、箱、距離、輪郭などの語彙密度。

低すぎると日常詩になる。
高すぎると自己啓発風・宗教風になる。

基本値は 4〜6。


5. 構文の揺らぎ

文法の自然さと崩れの度合い。

1:普通の文章
10:かなり崩壊した文章

純粋深淵では 5〜7 が使いやすい。

例:

意味は雨の輪郭を持たない、まだ
無限から沈黙がこぼれるの


6. 主体の不在度

「私」「あなた」「彼」などの主体をどれだけ消すか。

1:主体がはっきりある
10:主体がほぼ消える

主体を消すほど、作者の個人的感情が薄まり、言語空間そのものが話している印象になる。


7. 時間の歪み

過去・現在・未来の整合性をどれだけ揺らすか。

例:

永遠はまだ、昨日の箱を知らない
記憶はこれから沈黙する

高くすると、夢・神話・深淵感が増す。


8. 空間の歪み

距離、窓、箱、海、星、穴、構造、階層などを使い、空間感覚を不安定にする度合い。

例:

窓の内側に海があり
海の外側に沈黙がある

Senfuや線画との接続が強い項目。


9. 情動温度

冷たい/温かい/悲しい/静かな情動の濃度。

純粋深淵は、過剰に感情的にしない。
基本は 低温〜微温。

目安は 3〜5。


10. 余白・沈黙

改行、間、欠落、言い残しの量。

純粋深淵では非常に重要。

言葉で埋めるのではなく、
言葉の間に深淵を発生させる。


4. 制作手順

Step 1:パラメーターを設定する

例:
言葉の距離:8
抽象度:9
意味の欠落度:7
神秘語彙密度:5
構文の揺らぎ:6
主体の不在度:8
時間の歪み:7
空間の歪み:8
情動温度:4
余白:8

Step 2:文を生成する(AI)

Step 3:140字以内にまとめる(手作業)




深淵をのぞきこむとき、
深淵もまたこちらをのぞきこんでいるのだ。

— ニーチェ

シリーズ「近代の超克」:③ 六塵 「我思う、それもまた塵なり」

仏教には「六塵」という言葉がある。

色・声・香・味・触・法。

私たちはふつう「五感」と言う。
見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる。

けれど仏教では、そこにもうひとつ「法」が入る。

ここで言う法とは、思考、記憶、概念、意味、イメージ、不安、物語のようなものだと考えてよいと思う。

つまり仏教では、思考もまた、見えるものや聞こえるものと同じく、私たちに現れてくる対象として扱われている。

これが、私はとても気になった。



線譜『エーテルの歌姫』(2018)


五感と思考を分けてしまった近代

私たちは、五感と思考を分けて考えがちだ。

五感は外の世界を受け取るもの。
思考はそれを判断する内側のもの。

そういう感覚が、かなり深く染みついている。

けれど、よく考えてみると、思考もまた私に「現れている」。

不安が浮かぶ。
記憶がよみがえる。
言葉が生まれる。
意味が立ち上がる。
「私はこういう人間だ」という考えが出てくる。


クオリアという言葉で言えば、見えの質感、音の質感、匂いの質感、味の質感、身体感覚の質感だけでなく、思考や意味や記憶の質感もある。

だから、経験の全体を見ようとするなら、「五」では足りない。

六塵になる。



六根、六境、六識、六塵

仏教では、六根・六境・六識という見方がある。

  • 六根とは、眼・耳・鼻・舌・身・意。認識の入口である。
  • 六境とは、色・声・香・味・触・法。六根が捉える対象である。
  • 六識とは、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識。そこに生じる認識である。

六塵は、この六境を、心を曇らせる対象として見た呼び方だと考えるとわかりやすい。


かなり単純に言えば、

六根が、六境/六塵に触れて、六識が生じる。

ということになる。


たとえば、見ることなら、眼根があり、色境があり、眼識が生じる。

聞くことなら、耳根があり、声境があり、耳識が生じる。

そして、考えることなら、意根があり、法境/法塵があり、意識が生じる。

ここが重要だ。

仏教では、思考は「私そのもの」ではない。

思考は、意に現れる法塵である。



「我思う故に我あり」の盲点

デカルトの「我思う、故に我あり」は、近代哲学の出発点のように語られることが多い。

世界は疑える。
身体も疑える。
感覚も疑える。

けれど、いま疑っている、考えているということだけは疑えない。

だから、考えている私は存在する。

これが大まかな流れだと思う。

もちろん、これはとても強い考え方だ。

「思考が起きている」という事実は、たしかに否定しにくい。

けれど、仏教の六塵や六識の側から見ると、そこにひとつ盲点があるように思う。

それは、

思考があることと、思考している実体的な私があることは、同じではない。

ということだ。



思考は王座ではなく、塵である

近代は、思考を特別扱いしたのかもしれない。

五感は不確かである。
見間違いもある。
錯覚もある。
夢かもしれない。

けれど、思考している私は確かである。

そうして「思考する私」が、世界を眺め、判断し、所有し、意味づける中心になっていった。


しかし仏教は、その思考すらも、対象の側に置く。

思考は、私の王座ではない。

思考もまた、私に現れてくるもののひとつである。

それは、色や音や匂いや味や触覚と同じように、現れては消える。

そして、それに執着すれば、心に塵が積もる。


この見方は、かなり救いでもあると思う。

なぜなら、考えが苦しい時、その考えが「私そのもの」ではない可能性が開かれるからだ。

不安がある。
でも、不安そのものが私ではない。

考えがある。
でも、考えそのものが私ではない。

「私」という考えがある。
でも、その「私」という考えすら、ひとつの法塵なのかもしれない。



制作の中で起きていること

これは、制作の感覚にも近い。

絵を描いている時、私はたしかに「私が描いている」と思っている。

けれど、もっと深く見ると、そこでは別のことが起きている。

線が生じる。
音の記憶が動く。
身体が反応する。
言葉になる前の感覚が現れる。
まだ意味になる前のものが、形になろうとする。

それをあとから「私の作品」と呼んでいる。



線譜『無題(仮)』


身体の律動が、思考になる前に線として現れる。

言葉では処理しきれない感情や記憶が、物語として現れてくる。

意識に現れた法塵が、世界として立ち上がる。

そう考えると、制作とは「私が世界を表現」しているのではなく、

私に現れてくるものを、私が少しだけ手伝って、形にしているだけなのかもしれない。



ネズミに恋したネコのタムちゃんシリーズ


「我思う」のあとに

デカルトは、思考の確実性を見つけた。

世界も、身体も、感覚も疑える。
けれど、疑っているということだけは疑えない。

そこから「私」の確実性を取り出した。

それが「近代」の大きな発見だったのだと思う。

けれど、仏教の六塵・六識の側から見るなら、その思考もまた、意に現れた法塵である。

「我思う」の奥に、「我」はいない。

そこにあるのは、意に触れた法塵と、それに応じて生じる意識なのかもしれない。

もしそこから、固定した「私」を出発点にして演繹を始めてしまったら、
いつかどこかで、ボタンの掛け違いのような破綻が現れる。

それは、まるで「現代」そのものではないだろうか?

我思う。
それもまた塵なり。

我もまた、塵なり。

一切皆空。

そう考えると、少しだけ楽にならないか。

思考を眺める。

「私」が立ち上がってくる場そのものに気づく。

そしてそこから、絵も、物語も、世界も、もう一度立ち上がってくる。



参考

渋沢MIX「スタートアップ・スモールビジネス起業家交流会」に登壇します

なんと、ひょんなことから、「スタートアップ・スモールビジネス起業家交流会」の登壇者をやることになりました。

会場は、さいたま新都心の渋沢MIX。スタートアップ起業家の方、一人あるいは小規模事業所の経営者の方が、それぞれの課題やこれからのことを持ち寄って交流する会です。

イベントアイキャッチ:スタートアップ・スモールビジネス起業家交流会

イベント概要

日時:2026年6月24日(水) 18:00〜20:00
受付開始:17:45
場所:渋沢MIX
埼玉県さいたま市大宮区吉敷町4丁目262番18 ekismさいたま新都心 5階
参加費:無料
定員:100名
申込締切:2026年6月23日(火)

対象は、スタートアップ起業家の方、そして一人あるいは小規模事業所の経営者の方です。当日は参加者同士の名刺交換会もあるそうなので、名刺をお持ちください。

発表では、自社紹介だけでなく、1年後、あるいは数年後にどうなっていたいのか、そのために今どんな課題があるのかを話し、そこからディスカッションにつなげていく形になりそうです。

登壇者として参加します

登壇者写真:武 盾一郎

渋沢MIXの登壇者紹介では、私は「画家、ガブリエル・ガブリエラ代表、十三月世大使館 店主」として紹介されています。

新宿西口地下道での段ボールハウス絵画からアーティスト活動を始め、路上や被災地での表現活動、「線譜」シリーズ、「ネズミに恋したネコのタムちゃん」シリーズなどを経て、今はガブリエル・ガブリエラ代表、十三月世大使館店主として活動しています。

自分の活動は、いわゆるスタートアップの文脈とは少し違って見えるかもしれません。

今回、私は「13月世の精霊の世界という大人のごっこ遊びを一緒にやりましょう!」ということを呼びかけようかなと思っています。

スタートアップやスモールビジネスの方へ

この会は、起業して間もない方や、個人の専門性を活かして事業を展開しようとしている方が、今抱えている課題や、これから何をしていきたいのかを交流し合う場として企画されています。

私自身も、ガブリエル・ガブリエラや十三月世大使館を通して、アート、場所、物語、仕事、暮らしがどうつながっていくのかを考え続けています。

ご都合の合う方、興味のある方は、ぜひご参加ください。

詳細とお申し込みはこちらです。
スタートアップ・スモールビジネス起業家交流会 | 渋沢MIX

シリーズ「近代の超克」:②純粋意識

線譜『9台のチェロのためのエチュード』
ボールペン画 2015年


「我思う、ゆえに我あり」[1] から近代が始まったとして、私たちの課題は、その先に進むこと、つまり、「近代の超克」なのではないか。そんなことをずっとぼんやりと考え続けている。

デカルトは、すべてを疑ったあとに、それでも疑っている私、考えている私だけは疑えない、とした。

「思考している私」を、最も確かなものとして置いた。

そこに、「純粋意識」[2] という概念を使って、「近代の超克」を一歩進められるのでは? と考えてみる。

「思考」は「意識そのもの」ではなく、意識の中に現れるひとつの要素である。

五感があり、感情があり、身体感覚があり、クオリアがある。

その中のひとつとして、思考もある。

だとしたら、本当に基底にあるのは「思考する私」ではなく、思考や感覚や私という感覚が現れている「気づきの場」なのではないか。



「純粋意識」とは何か?

▷ 意識とは何か ― 現象を超えた「純粋意識」の正体(What Is Consciousness?),理論,583


「赤さは見られている対象です。
痛みは経験されている内容です。
音楽の響きも内面に立ち上がるものです。
つまりそれらは意識の中身ではあっても、意識そのものではありません。」

「変わっているのは内容です。
変わらずにあるのは、内容が現れては消えていく場としての気づきです。」

──「意識とは何か ― 現象を超えた『純粋意識』の正体」より



「純粋意識」とは、簡単に言えば、思考・感情・感覚・記憶・自我感覚などが現れている、その背景にある「気づきそのもの」のことだ。

と、読んでもちょっとピンと来ないかも知れない。


私の経験、これが正しいかどうか分からないが、ちょっと書いてみる。


具合が悪い時、めっちゃ気持ち悪くなったり、お腹が痛くなったりするじゃないですか。

で、その時思ったんだけど、本当に具合が悪かったら、「気持ち悪い」という感覚も一緒に不具合を起こすので「気持ちの悪さ」がビビッドにやって来ないのではないだろうか? と思ったことがある。

気持ちが悪くなった時の「気持ち悪さ」はそれもう凄まじいですよね?

て、ことはめっちゃ意識はっきりしてるんじゃね? 本当に具合悪かったら、「気持ち悪い」って感度すら下がって気持ち悪くならないんじゃないのか? って思ったんです。

それ以降、具合が悪くなった時に思うんです。

「こんなに気持ち悪いってことは私はめっちゃ元気」って。

つまり、感覚や思考や自分であること、などのクオリアを支えているものがありそうだ、と。

「赤い色」や「痛み」や「音」のように、対象として掴めるものではなく、「感じることが起きている場」がありそうだ、と。

それが「純粋意識」と呼ばれるものではなかろうか?と。


また、自分が「寝てた」と分かるのも、なんだか不思議である。寝てる間には寝ているという、無意識のような意識が働いていて、それも純粋意識があることになりはしないだろうか? と思ったりもする。

だって、もし寝てて本当に意識が完全に消失してるなら、寝る前と目覚めが連続されていて、「寝てた」という状態を認識できないはずなんですよ。

例えば、全身麻酔で意識失ってる時間ってあるじゃないですか。
あれって、「寝てたわ〜」ってならないですよね?
「意識がなかった」という実感は何も湧かずに意識が戻りますよね。
てことは、全身麻酔ってクオリアが消失するというよりも、「純粋意識」がシャットダウンしてしまってるのではないかと思ったりもします。

なので、「意識がない」状態にもバリエーションがありそうで、
じゃあ、死後はどうなんだろう? とか、
または、もし、生まれ変わりがあるとしたらどうなんだろう? とか、
個体の生死を超えて「純粋意識」は保たれるのか? みたいな疑問も湧いてきて、めちゃくちゃ気になる。
というか、「意識の謎」に対する興味のほとんどはそのこと、「死んだらどうなる?」に集約されていく気もする。

そこは、今の所、オカルトや想像の世界なので、「自由の領域」でもある。

純粋意識が、実体として本当にあるのか、科学的に証明された意識のメカニズムなのかは分からない。

「純粋意識」とは、形而上学的な概念であり、同時に、瞑想や深い集中の中で接近しうる経験の記述でもある、と考えた方がよいのかもしれない。



「メタ認知」との違い

「純粋意識」に近いものとして、「メタ認知」[3] がある。

メタ認知とは、自分が今、何を考えているのか、自分が今、何を感じているのか、自分がどんな判断や反応をしているのかに気づく働きである。

たとえば、「今、自分は不安になっているな」と気づく。

「今、自分は怒りに反応しているな」と気づく。

「この考え方は少し偏っているかもしれないな」と気づく。

これは、自分の思考や感情を俯瞰して見る働きである。


一方で、「純粋意識」は少し違う。

純粋意識の立場では、「私は不安に気づいている」というところから、さらに一歩進む。

そこでは、不安が現れている。思考が現れている。身体感覚が現れている。そして、「それを見ている私」という感覚も現れている。

メタ認知では、まだ「観察している私」が残っている。

しかし純粋意識では、その「観察している私」さえも、気づきの中に現れるひとつの現象として見られる。


どちらも、思考や感情に巻き込まれすぎないための距離をつくる。

どちらも、自分を少し離れて見ることを可能にする。

どちらも、「今ここで起きていること」への気づきを含んでいる。

ただ、向かう方向が違う。

メタ認知は、自己調整へ向かう。

純粋意識は、存在の基底へ向かう。



近代の超克――「我思う、ゆえに我あり」を更新する

ここで、もう一度デカルトに戻る。

「我思う、ゆえに我あり」。

この言葉は、近代的主体の出発点だった。

すべてを疑っても、疑っている私、考えている私は否定できない。だから、「思考する私」こそ確かなものだ。

しかし、「純粋意識」の観点から見ると、ここにはひとつの問いが生まれる。

「思考」は、意識の中に現れる内容のひとつである。

感情も、感覚も、クオリアも、記憶も、身体感覚も、同じように現れている。

思考する私よりも基底にあるものがある。それが「(純粋)意識」、ということになる。

すると、意識こそが全ての土台になってしまうのだ。

え? それ、普通に唯識[4] とかの、仏教じゃね? と、一瞬思ってしまう。


しかし、ここに、「近代の超克」の入口があるのではないか。



それは、「私が世界を見ている」という構図から、「私も世界も、気づきの中に現れている」という構図への転換である。




参考・参照

  1. René Descartes, Discourse on the Method, Part IV
    デカルトが、すべてを疑ったあとにもなお残る確実性として、
    「考えている私」を取り出したことを確認するための参照。
    本文の「我思う、ゆえに我あり」の出発点に対応している。
    https://www.gutenberg.org/files/59/59-h/59-h.htm
  2. Robert K. C. Forman (ed.), The Problem of Pure Consciousness: Mysticism and Philosophy, Oxford University Press
    純粋意識を、何かの対象や内容としてではなく、
    思考や感覚が現れてくる経験の場として考えるための参照。
    本文では、純粋意識を科学的断定ではなく経験記述として扱う根拠になっている。
    https://doi.org/10.1093/oso/9780195059809.001.0001
    補助参照: Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Mysticism”。
    「Pure Conscious Event」や、対象内容を持たない意識経験の議論を確認するための参照。
    https://plato.stanford.edu/entries/mysticism/
  3. U.S. Department of Education, TEAL Center Fact Sheet No. 4: Metacognitive Processes
    メタ認知を、自分が何を考え、どう反応しているかに気づき、
    必要に応じて見直したり調整したりする働きとして押さえるための参照。
    本文でいう「一段引いて見る視点」の説明に対応している。
    https://lincs.ed.gov/federal-initiatives/teal/guide/metacognitive
  4. 唯識は、インド大乗仏教の瑜伽行派(Yogacara)に連なる「識のみ」「意識中心」の思想として論じられることが多い。本稿では、純粋意識と唯識をそのまま同一視するのではなく、「意識を基底から捉え直す発想」として連想される系譜への控えめな言及として置いている。参照: Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Yogacara”; Encyclopaedia Britannica, “Yogachara”。
    純粋意識の議論が、仏教思想の唯識とどこかで響き合うことを示す補助参照。
    https://plato.stanford.edu/entries/yogacara/
    https://www.britannica.com/topic/Yogachara

Xの中に、小さな13月世を立ち上げる

AIが出始めた時に思った。
13月世の精霊ちゃんたちが、それぞれのキャラクターを保ちながら自律的に会話をしているようなSNS投稿ができないだろうか。

それが、ようやく最近、AIでできそうな感じがしてきた。
今、その実装に取りかかっている。




Xのアカウントそのものを、小さな13月世にする

フォロワーさんたちが、13月世の世界を覗き込んで楽しむ、そういうSNSの使い方ができたら面白いと思った。


まずはXのアーカイブを読み込ませる

Xでは、設定とプライバシーの中の「アカウント」から「データのアーカイブをダウンロード」に進み、本人確認をしてアーカイブをリクエストできる。
準備ができると通知やメールが来て、zipで受け取れる。
zipを展開してClaude Codeに読み込ませる。

これまでの投稿には、ガブリエル・ガブリエラのキャラクターたちの投稿があるので、それぞれの精霊ちゃんたちが、どういう性格で、どういう口調で、何に反応して、どんな関係性を持っているのかを掴んでもらう。

さらに、直接ClaudeCodeにキャラクターの説明をする。
また、物語も読ませて学習してもらう。

そういうことを少しずつ覚えてもらう。



投稿して、分析して、育てていく

最初から完璧なものを作るというより、投稿しながら育てていく。

AIに投稿を作ってもらう。
それをXに投稿して反応を見て、分析して、次の投稿に反映し、PDCAを回していく。

精霊ちゃんたちの言葉も、最初から固定されたものではなく、投稿と反応の中で少しずつ育っていく。



これはSNS運用というより、世界観の運用かもしれない

十三月世大使館は大人のごっこ遊び


これは、Xという場所に、13月世の小さな世界を作る試みなのだと思う。

十三月世大使館が、現実の住宅街の中にある13月世の領土だとしたら、Xのアカウントの中にも、小さな13月世の領土を作ることができるかもしれない。
そこには、精霊たちが勝手に話し、考え、反応している世界がある。

AIはある意味、精霊に近い感じもある。



AIで、神話は動き出すのか?

AIを使うことで、13月世の精霊たちが自律的に会話を始める。

それはどこか少しアニミズムな感じがする。

ひょっとしたら、“ 未来の神話 ”への小さな試みにならないだろうか。