ゴジラ-1.0(ネタバレしてます)



●今年一番感動した出来事


映画が終わった瞬間、私は今年一番感動していました。

ひとりで観に行ったので、泣くのを我慢してしまうこともなかったのでボロボロ泣きましたし、
そして、まるで子どものようにゴジラに怖がりました。

ホクホクした気持ちで映画館を後にした私ですが、
家に戻ってしばらくすると私の批評家脳がムクムクと立ち上がり、

「なんかこの映画、評価していいんかな?」という疑問が湧いて来てしまうのでした。

思い返して考えてみると、「ん? ちょっと待てよ?」と思うシーンや展開が結構あって、そういうところで引っかかってしまうと、この映画に入っていけなくなっちゃうのではないかなあと思ったのです。

太平洋戦争を扱うだけあってシリアスになってしまうので、
「いや、それはないだろ〜」となってしまう可能性があったのです。

例えば、主人公の特攻隊員の敷島浩一や大戸島の守備隊基地の兵士たち肉付きや肌質の良さ、服の綺麗さ、髪型、、、
まず、ここで「ないわ〜」って挫折しそうになるし、実際になった人もいたかも知れません。
戦場ですら現代を映し出す「ホワイト」状態になっているのです。

しかし、ここでそんなことを気にして冷めてしまう間もなく、グイグイ引っ張って行くので、映画世界に巻き込まれて行くのでした。


批評家気取りの自分に向かって私はこう言うのでした。
「ちょっと、思い出して、
子どもの頃、ウルトラマンの顔がアップになった時、仮面の表面が割とザツだったり、怪獣の動きが完全に肉襦袢の着ぐるみだって分かるところを観て冷めましたか?」、と。
むしろ、その後のツルツルすぎるウルトラマンや、人体の骨格とは違う動きをちゃんとさせたCGの怪獣、ピアノ線の見えない戦闘機、、、といった、映像クオリティの上がったコンテンツを観て、ちょっと寂しさを感じましたよね?


世界初の映画は駅のプラットホームに蒸気機関車がやってくる映像だったそうで、
観客は迫り来る蒸気機関車を見て客席から逃げ出した、という逸話を聞いたことがありますが、
Wikipediaを見てみるとやはりそのことが書いてありました

映画というものはそもそもそういうものなのだ。視覚で驚く装置なのですよ。

戦後焼け野原の状態はああじゃないよね、とか、
2人の関係とか女性の変容とか不自然過ぎるよね、とか、
なんで状況を説明するセリフにしちゃうかなあ、とか、
なんで怒鳴る大袈裟な演技にしちゃうのかなあ、とか、
爆風が来たら一緒に倒れ込むだろう? とか、
いやそれ脱出装置仕込んであるオチ分かってもうたやん、とか、

いくら命を大切にするというメッセージが込められているとは言え、実際にあった第二次世界大戦をセカイ系で処理しちゃっていいんか? とか、

でも、それらは結構どうでも良いことで、

セカイ系メロドラマとしてついうっかり感動できちゃえばいいんですよ。

そして、
ゴジラが怖く感じたかどうかが映画の骨。

ゴジラ怖かったです。最高!

これでいいんだなあって思った次第なんです。

なんとなくだけど特にアート系や文化度高い(と自認してる)系の人はこの『ゴジラ-1.0』を手放しで評価するのは躊躇しそうだと思いました。

映画を観てる瞬間のワクワクドキドキ体験が映画の本質なんだから難しいこと考えなくていいんだよ! と、自分に言い聞かせるのでした。

これを「ピカソより普通にラッセンが好き!」問題と私は呼んでいます。


●ピカソより普通にラッセンが好き問題


“文化度が高い(と自認する)人”は、「ラッセンの方が(本当は)好き」と言いづらいのです。
私もこの病に罹患してました。だいぶ治ったのですが、後遺症が残っているのです。


「ラッセンが好き」となぜ言いづらいのかというと、ひとことで言うと「アート」として(あんまり)認められてないからです。
言い換えると、「アートとしての文脈が与えられていない」、からです。

絵ヅラがチャラいとか、デッサン力が本当はないとか、いわゆる「画家の腕」の問題ではないです。
また、よく言われている「金儲け主義だったからダメ」とかの問題でもないと私は考えています。

確かに売り方が強引で多くの買った人たちから顰蹙を買ったのは事実らしいです。
そしてそれを根拠としてアートではない的な見解がなされていますが、それは「アート」とは別問題です。
本質的には「アートの文脈」で語られてないこと、作家本人もアートの文脈について語って来なかったこと、だろうと私は考えています。

じゃあ、
ラッセンは「アートの文脈を獲得できない」のでしょうか?

「いいえ」と私は答えます。

ラッセンは将来、アートの主流のメルクマールになる可能性すらあると考えています。
その話は後々できたらと思います。


さて、
「ピカソとラッセンの絵のどちらをあなたの部屋に飾りたいですか?」と質問されたら、
しばらく考えてから「ラッセン」と私は答えるでしょう。
理由は美術館ではなくて「自分の部屋」だからです。
ラッセンの絵を寝室に飾るイメージができましたが、ピカソの絵は飾るイメージができませんでした。
そうするとラッセンに軍配が上がります。
いや、本当は「ラッセンからイルカを消した絵」なんですけどね笑

そして更に加えると、寝室で飾りたい絵こそが未来の現代アートの最先端の現場になると私は考えています。
理由は長くなるので先述した通り後々書けたらなあと思ってます。


●感動する映画とすごい映画


話を映画に戻します。

今年は『哀れなるものたち』も観ていて、
絵本のような世界観にワクワクして大興奮だったのですが、
『ゴジラ-1.0』も上記のようにしこたま感動しました。

映画館で観て本気で楽しめた映画が両方ともアカデミー賞を受賞したのでとても嬉しいのです!
あ、『君たちはどう生きるか』も賞取ってましたね!
(私、この映画にはあんまり乗れなかったんです。。。でも、もう一度観たら変わるかも。実は『千と千尋の神隠し』を1回目観た時、イマイチ感ハンパなかったのに2回目観たら「これはすごく面白い!」ってなったので)

いやあ、映画って本当にいいですねえ。

ところで、
映画を観終わった瞬間は『ゴジラ-1.0』の方が感動してましたが、
月日が経って「これは良い映画だよなあ〜(うっとり)」と、記憶に残るのは『ゴジラ-1.0』ではなく、
『哀れなるものたち』になりそうだなあって思ってます。。。


ちなみに、ここ10年の映画のトップワンは『ジョーカー』です。
次いで『この世界の片隅に』。このツートップは手強いです。
第3位は『かぐや姫』です。
数年後に3位が『哀れなるものたち』となるかもって思ってます。


こんだけ感動したって書いてる『ゴジラ-1.0』は入ってないんかい! と、ツッコミを入れてくれたあなた、
有り難うございます。

そうなんです。

その場での感動と「映画としての凄さ」って違うんです。
確かに視覚で驚くのが映画の原点で、ドラマで泣かせてなんぼのものだというのはあります。
ただ、その感動は消費されてしまうんです。良くも悪くも。


私が求める映画としての凄さは、ガッツリ感動してスッキリできる消費性の強い作品よりも、
「いったい人間ってなんなんだろう?」とか、「うーん、、、」と唸って落とし所が分からない感じだとか、引っかかりを残し続ける作品の方が凄みがあると考えておりまして、
まあ、要するに好みの問題なのですが、そうなんです。


『ゴジラ-1.0』だって最後に首筋のアザが動いて謎が残るじゃないか! と、思うかも知れませんが、それは「人間とは何か?」という問いかけではなくて、コンテンツの中のクロスワードパズル(謎解き)で、ゴジラという存在、「ゴジラとは何か?」に対する言及というワケでもないのです。

別な言い方をすると、消費系の作品というのは、「作品を成り立たせているフレーム自体に揺さぶりをかけていない」のです。
だから安心して感動できます。

ところが私の考える「すごい映画」とは、そのフレームを超えて概念に揺さぶりをかけてくる(と私が捉える)作品のことを指します。
なのでリアルタイムで感動させることとはちょっと違う要素が必要になるのです。


でも本当に『ゴジラ-1.0』、感動したことは確かなので素晴らしい映画だということは断言しておきます!


最後に『哀れなるものたち』の映画広告の動画で締めたいと思います。
ゆりやんレトリィバァさんのモノマネ、声も顔も全然違うのに、完全に淀川長治なのです。
彼女は淀川長治のイデアを抽出してるのです笑。天才。
勉強になります。有り難うございます!



最後までお読みいただき、有り難うございました!


自由意志はある!


『429.意識がプログラムということを【小学生】でもわかるように説明します #ロボマインド・プロジェクト』

ロボマインド・プロジェクトの動画、私は全て観てます。しかも一回ではなく何度となく繰り返して聞いています。

田方さんの主張する「意識の仮想世界仮説」を軸に置きながら、
現代の意識科学の主張(例えば統合情報理論とか茂木健一郎さんが主張してる意識のオーバーフロー仮説だとか)や、
哲学とか現象学が言ってるようなこととか、
仏教とかスピリチュアルや都市伝説とかで言ってることとかを、
気の向くままにテキトーに聞き齧ってムシャムシャ食べながら、

「本当はどうなんだろう?」、
そして「真偽は別としてどんな話がワクワクするのだろう?」、という二つの観点から「意識の謎」を味わっています。

意識はまだまだ全然謎だらけなのでどんな説だって良いから楽しいんです。
植物からも発生してもいいし、情報の複雑なやり取りから発生してもいいし、別次元に有ってもいいし。輪廻転生してもいいし。機械にアップロードされてもいいし。シリウスにあってもいい。


さて、今回は「自由意志」についてです。
実は科学的に自由意志は否定されています。
でもこのことが法に関わって来ないように社会は調整しています。
何しろ「人間には自由意志はありません」ってことになったら、犯罪を犯してもその人の自由意志ではないのだから罪に問えない事態となってしまいます。。。

自由意志を認めないと成り立たない人文社会。
科学的な人たち・唯物論者、特に最先端の科学を知っている人たちほど自由意志は無いと考えている傾向があるようです。

そして、本当のことがわからない私は「自由意志はあると思いたい」と考えています。

「お金」とか「国家」とか「会社」とかと同じように「自由意志」も人類の共同幻想として「有る」ことにしているのか?
信念として自由意志がある、とか、自由意志はあると思えばある、とかではなく、
論理的にファクトとして人間には自由意志があって欲しい。



〈ロボマインド・プロジェクトの自由意志〉


ロボマインドの田方さんは「自由意志はある」と主張しています。

ロボマインド動画の意識と無意識の図を見てみましょう。

図の下部の「無意識」は「現実世界」と繋がっています。無意識は物理世界にいるのです。
「現実世界」からの「知覚(入力)」を「無意識」が「制御」し、「現実世界」に対し「行動(出力)」します。これは意識の伴わない「反応」の動きです。
例えば、熱いヤカンに触ってしまったら思わず手を引っ込める、とかです。その瞬間には熱さを感じてなく後から熱さを感じます。現実世界と直結した反応行動は意識される必要がないのです。

図の上部の「意識」は現実と直接繋がっていません。
「現実世界」からの「知覚」を「無意識」が「仮想世界」として構築し、それを「意識」が「認識」しています。
なんでそんなことをしてるのかと言うと「行動を決めるため」、つまり自由意志のためです。
もし入力に対して行動が定まっているなら意識を介する必要がありません。
けれど感じることができれば行動を変更できるようになります。
例えば、「10秒さわれたら100円あげる」と言われたら、熱いのを我慢して10秒さわるかもしれません。

このように、 「意識の仮想世界仮説」では意識の存在自体が「自由意志」のためにあります。
とても力強い自由意志の肯定で嬉しくなります😊



〈渡邉正峰氏の自由意志〉


ではここで、意識をマインドアップロードできると主張し、その研究を現在行なっている渡邉正峰氏の動画を紹介します。


【イーロン・マスク氏の脳デバイス】意識を機械に移植することは可能か/東京大学准教授の渡邉正峰氏の問い/意識と主観の関係/ニューロサイエンスの未来【EXTREME SCIENCE】

1:04あたりから茂木健一郎氏が自由意志について質問しています。
文字起こしをしてみました。

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動画の自由意志の部分

茂木:
レックス・フリードマン的なナイーブな質問をしたいですけど、自由意志はあると思ってらっしゃいますか?

渡邊:
ああそれはですね「意識の元の」か否かによって答えが変わってきますよね。
「意識の元の」っていう意味では究極的には(自由意志は)無いんじゃないかな。
ただ「無意識」と「意識」は表裏一体なので
無意識の脳の動作としては、自由意志があるとみなしていいんじゃないかなって考えてます。

茂木:
それはどういう意味ですか? 後者の意味での「自由意志」ってのは?

渡邊:
これも非常に議論のあるところなんだけれども、
まず脳は量子力学的なサイコロを振ってるのはおそらく確かですよね。イオンチャンネルっていうレベルでは量子力学が働いてサイコロを振っている。
初期状態が決まっていて、例えば環境も (映画)「Everything Everywhere All at Once」みたいな形で世界が分岐することができて、
全く同じ初期状態、全く同じ環境でそれを分岐して2度3度、何回でも計算できた時に、
脳の中の熱ノイズとか量子ノイズだけで環境から見た時に「脳が自由な意志を持ってるように振る舞う」のは確かだと思うんですね。

今の自由意志派への1番ハードな反応は「でもそのサイコロってコントロールできてないじゃないか?」っていうところなんですね。
大昔は「ハードな決定論」があって、ビッグバンの時のその素粒子の飛んでいく方向で全てが未来永劫決まってるニュートン力学的な世界観、それは量子力学の登場で否定されてるんだけれども、
今、自由意志論争の1番エッヂの部分ってそこだと思うんですね。
一旦サイコロ振ってるのを認めましょう、だけどそのサイコロが勝手に振られてしまってるんだったらそれやはり自由とは言えないよね、ていう。
だけど僕はもうひとひねり加えて、サイコロの目の出方は脳がコントロールしてると思うんですよ。サイコロ自体を脳がある意味デザインしていて、、

茂木:
マジですか? それはかなり過激っていうか、強いクレームですね。

渡邊:
マッチングロー(Matching law?)っていうのがありますよね。
例えばいろんな動物で、こっちのボタンを押すと1/2の確率で報酬出ます。で、こっちのボタン押すと1/4の確率で報酬出ます。
で、その時にどうしますか?
大体10回ぐらい押してみて、「これ半分ぐらい」「こっちは1/4ぐらい」と分かったら?

Ryan:
ずっとそっち(1/2の方)全推し。

渡邊:
全掛けしますよね。人はちょっと複雑なんですけど、動物は「1/4」の方にも、1/2 対 1/4 の割合でちゃんと張るですよ。なんでかと言うと、それは自分が今持っている世界モデルっていうのはひょっとしたら間違っているかもしれない。
例えば、「海外旅行が好きな人がイタリア行くかハワイ行くか?」ハワイはもう何回も行っていて、間違いなく友人とかでパーティー も開けるし、気候も穏やかだし、だけど、イタリアは行っ たことない。でもガイドブックとか見ると非常に素晴らしいとこだ。で、その時にどうするか?っていった時に、人は期待値が低い方にもその期待値なりにちゃんと張る。

Ryan:
ああなるほど。

渡邊:
それが「エクスプロイテーション(搾取?)」ていう考え方で、果実をもぎ取るような行為も、同時に「自分が持っている世界のモデルがどこかで間違ってるかもしれない」って思いのもとに期待値の低い方にもちゃんと張る。
でこれがマッチングローで説明することができて、最適行動なんですね。世界が未知だっていうもとでは。
「サイコロを脳がデザインしてる」というのは、マッチングローって意味でちゃんと低い報酬の方にもちゃんと振ってる。

1個1個の選択は脳がたまたま熱ノイズでどこかのイオンチャネルがパラっとなったからコロってなっちゃったけど、 まさにカオスのバタフライエフェクト(?)で転ぶのかもしれないけれど、
長期の目線で言うと、それを「何対何で選ぶか」っていうところでは脳がちゃんと学習してる、というかコントロールできてるので、
そこまで踏まえれば、僕は「脳は自由意志」があると言っていいんじゃないかな。

(文字起こし終わり)
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ロボマインド・プロジェクトと渡邉正峰氏は両方とも自由意志はあるとしながらも、その捉え方は違っています。

ロボマインド:無意識には自由意志はなく反応であり、意識とは自由意志を発動させるところである。
渡邉正峰氏:意識には自由意志はなくても無意識には自由意志と呼べるサイコロのコントロールがある。

と言うことになっているようで、なんだどうなんだ? となってしまいます。

私的に渡邉正峰氏の解釈すると、
意識はサイコロを振ることができる「座」のようなものでしかなく、サイコロの目の確率調整は無意識で変更されている、と。
その、サイコロの目の確率を変更できることを「自由意志」と呼んでいいのではないか、と言うことなのかなあ? と。。。

では、そのサイコロの目の確率調整はどうやって行われるのかというと、入力による学習で、ってことになるのかなあ。
なるほど。
世界最先端のエッヂィな科学者が「自由意志はある」と言ってるのがとても興味深いです。

渡邉正峰氏はハードウェア的アプローチで、ロボマインドはソフトウェアのアプローチなので、ひょっとしたら両者の主張は統合できる可能性もありそうです。
「意識」によって行動のバリエーションが格段に広がるのは両者の共通点になってますし。


結論としては、
「果たして私たち人間に自由意志はあるのかないのか?」

「ある!!」



以上、「自由意志」についての考察でした!


最後までお読みいただき有り難うございました!


『さかなのこ』に感動したよ!(ネタバレあり)

ChatGPTに記事の内容を絵にしてもらいました

映画『さかなのこ』を鑑賞しました。
主演の能年玲奈さんの存在感にはいつも心を奪われます。
アニメ『この世界の片隅に』の声優も素晴らしかったし、本当に魅力的な俳優さんです。


「邦画スイッチ」

邦画を鑑賞する際、「邦画スイッチ」という概念を導入すると良いでしょう。
例えて言うと、「翔んで埼玉」を観る時に誰もが入れているスイッチです。
誰もがこのバカバカしい「お話し」を分かっていて、「あえて楽しむ」という共犯マナーです。
「ごっこ遊び」と言っても良いでしょう。

これって実は芸術を楽しむための「心構え」です。
伝統的で文化的な視点で例えるなら、
「人形浄瑠璃」を楽しむ際に必要な「見立て」の感覚と同じです。

黒子のおじさん見えちゃってるし、人形の表情は変わらないけれど、それらを分かった上でその中に秘められた芸術を感じ取る「遊び」です。
黒子のおじさんを見ないことにして楽しむのではなくて、見えてることを含めて楽しむのです。こういう「お約束」があるのです。

世界に入る為に「ステップ」を必要とするので、作法の敷居がハイコンテクストになり過ぎると、面倒臭くて敬遠されてしまう現実があるのですが、
実はここにこそ「文化」が宿ります。

「ハリウッド映画」とはその段取りを意識することなく、感覚的に世界に連れて行ってくれる作品群です。
その為には人間の快楽に則った演出が必要で、そこに莫大な製作費が投じられるのです。

良し悪しは別として、ハリウッド的な見せ方を「受動的作品」、段取りを必要とする表現を「能動的作品」と大きく分類することができるでしょう。

例えば、「本を読む」ことが現代でも文化的行為である根拠は、「読む」という能動性を伴うからです。だから面倒臭い。
動画を観る方が快楽性が高く楽なのですが、読書よりも受動的な鑑賞となります。
で、人類は「読む」という「能動性」を洋式化して「文化」のエッセンスを溜めてきたです。

ここには快楽とは本能的で野蛮であるという偏見があります。
なので自分が文化的だと自負している人は、ハリウッドやディズニー映画のように快楽を享受できちゃうコンテンツを、低く見ちゃう「落とし穴」に気を付けるのです。

では、ハリウッド的受動的作品は快楽に則るのだからプリミティブなのか?というと一概にそうとは言えなくて、
例えば、子供の頃の遊びを思い出すと、全てが「見立て」で成立しています。

「鬼ごっこ」は、鬼に触られただけで鬼になる「お約束」が成立しています。鬼になった子の姿は何も変わりません。
この「見立て」は「地面に棒を4箇所に立てて紐で繋いで囲いを作ると聖域になる」という神道に源流があると私は推測しています。

これを「ハリウッド的仕立て」にするならば、触られると鬼に変身する物凄い仕掛けのある高価なスーツを全員が着用するとか、または全員がヘッドセットを被ってARで触られてるとその子の体がモーションキャプチャされた鬼CGと合体してリアルタイムCG鬼になる、とかになるのでしょう。

「おママごと」もそうですが、泥団子は本当のお菓子とほとんど似てません。しかし、泥団子を美味しく喜んで食べたフリをします。
これを「ハリウッド仕立て」にするならば、上記と同様に超絶リアルなキッチン用具とお菓子のおもちゃとかになってくるのだと思います。

こういった「ごっこ遊び」はプリミティブですよね。
世界を「見立て」や「お約束」で「共有」し、想像力で補う能動性を、
「ハリウッド仕立て」は実際に凄いものを出して想像力補完を減らして快楽を刺激します。
故に「受動的作品」と言えるのです。
技術の進歩や人間の欲求は「ハリウッド仕立て」方向に常にベクトルが向いていますので、心配性な年寄りは「文化の劣化」を嘆くワケなんです。
でもこれ、案外と大丈夫なんだと思いますよ。


話は逸れてしまいましたが、
『さかなのこ』もこの「邦画スイッチ」を入れて鑑賞するととても楽しめます。
さかなくん「ミー坊」を女性の能年玲奈が演じる違和感を、さかなくん本人が登場することによって、虚構を成立させていて「見立て」にスッと入って行けるのです。
私はここで「邦画スイッチ」が入りました。
これによって世界への没入を深めてくれています。


独特の間と映画らしい空気感

邦画には、ハリウッド映画やアニメにはない「独特の間」が存在します。
これは予算をかけられないから「間」で観せる現実的必要性から生まれた表現かも知れませんが、ここを楽しむかどうかもポイントになるかと思います。

『さかなのこ』では、この間が特に印象的で、映画らしい空気感を創出していました。
例えば、クレヨン梱包のビニールを破るシーンなんかは妙に長いんです。破り方が下手くそでそれを長々と撮っているのですが、そこにミー坊のうまく行かない気持ちがうまく表現されていて、その後に酔っ払ってクダを巻くシーンの説得力を上げています。
あれ、ビニール袋のシーンをサクッと流してしまうと酔っ払っているシーンがつまらなくなっちゃうんですよ。
ちょっと「取って付けたような酔っ払い方」で、それがミー坊のやるせない気持ちの現れにフィットしているのですが、それはクレヨンの包装を破るのがみょーに長いカットが効いているからなんです。
演出も良いし、のんさんの演技もとてもいいんです。

この味わいは二倍速視聴だと楽しめません。

演技はのんだけでなく、モモコ役の夏帆、母のミチコ役の井川遥も素敵なんです。

男性はみんな純粋でバカで優しいという単純化が施されています。
「ヤンキー」という記号を極限までチープ化にさせた演出は、長年の日本のドラマや漫画や映画でのヤンキーの取り扱われ方と現代のネットミーム的な文脈を踏まえると、絶妙にうまいバランスになっている感じがします。
思いっきり「カリカチュアライズ」されているのに、細かいところで演技性をゼロにさせている「素」みたいなところがあって、
そこを男性陣がちゃんと面白くこなしていて、すごく「来るべきホワイト社会」を感じるし、それが爽やかで今っぽいんです。

そして邦画全般に観られる「チープな演出を面白がる作法」って、タモリ倶楽部の「空耳アワー」がかなり貢献してるんじゃあないかなあと推測します。
番組が終わってしまったので、「空耳アワー」は文化の作法を作ったんだ、とここに刻みたい思いです(笑)。


映画としての色気

『さかなのこ』は直接的な恋愛要素がありません。さかなくんを女性が演じていてみんな「さかなくん女じゃん」って分かった上で見ているので、ここに性を持ち込むと非常にややこしくなるからでしょう。
というか、この性がこんがらがる「見立て」によって独特の「色気」が映画に漂っています。
ミー坊と同級生男子ヒヨのシーンに男同士の友情とは違う、素の男女間エロスがBL的何かと混ざって醸し出されてしまい、それが翻って映画の魅力になってしまっているのです。

数少ない恋愛シーンとしては、ミー坊とヒヨとヒヨの彼女の3人のシーンがあるのですが、ミー坊が男でもあり女でもあるので観ている側の脳がちょっとバグって面白いのです。
それから、モモコが小さい娘を連れて一瞬3人暮らしになる展開もあって、男の一人暮らしのアパートに女性が転がり込んでるはずなんだけど、ミー坊が男性なのか女性なのか分からないので奇妙な感じになる。
これ、狙ってますよね?

また、床屋さんの前に座る男性がいてそこの前を通るシーンが繰り返し登場しますが、これ、『髪結いの亭主』へのオマージュだと思うのです。とてもエロティックな映画で、『さかなのこ』でもエロティックな感じがサラッと演出されています。

てことはこの映画の独特の間ってフランス映画オマージュってのもあるのかも知れないですねえ。
ラブシーンも恋愛もないけれども、ミョーな「色気」もこの映画の魅力です。


まとめ

『さかなのこ』は、能年玲奈さんの素晴らしい演技だけでなく、邦画ならではの美学や演出に溢れた作品です。
この映画、絵画で例えるとめっちゃ細密画なんです。
ハリウッド映画に比べると、低予算っぽさが見えてしまうのですが、それにしても沢山の要素が散りばめられていて、誰もがその繊細で素敵な演出・演技に一つは気が付くでしょう。

「普通ってなに?」というメッセージと爽やかな後味がとても「現代らしい」なあとも思いました。
皆さんも、是非この映画を鑑賞し、あなた自身の「邦画スイッチ」を見つけてみてください。


※今回のレビューについて
床屋さんの前のおじさんシーンについて、岡田斗司夫さんが当然「あれはフランス映画『髪結いの亭主』なんですよ」って言うものだと思って観てみたら言及してなかったので、「うわ、これ『髪結いの亭主』だって言わなきゃ!」という意味不明な使命感がムクムクと湧き上がってしまい、そんな謎モチベーションでこのブログのエントリーを書こうと思った次第なんです。

そしてこのブログ記事を試しにChatGPTに講評させて、さらに記事を修正出力してもらいました。
「小見出し」とか情報量の無い賛辞の言葉とかを書いてくるので、それらをリミックスしてみました。
生成AIが出力したフレーズを利用して曲を作る、みたいな。
楽しんでいただけたら幸いです。


最後まで読んでいただいて有り難うございました!

▶︎ 映画『さかなのこ』公式サイト

それから言い忘れてましたが、エンディング曲がめっちゃ良いです!!!
↓↓↓
靴、グランズだよね?
かわいいー

人類の知能の発達は「孔雀の羽」と同じ「性淘汰」かもしれないという説


人類の知能の発達は「孔雀の羽」と同じ「性淘汰」かもしれないという説。
(動画の紹介は一番下にあります)

「孔雀の羽」はメスを口説くためだけにあり、オス個体の生存の優位性には寄与していない。これを「性淘汰」と呼び、他にはライオンのたてがみや鹿のツノなどがある。

人類の脳は、容量が急激に増えたのにも関わらず大した発展を数百万年してこなかったが、この謎は「性淘汰」でうまく説明ができるという。
人間の知能、つまり「言語」は、生存のためというより、「口説く為だけ」に発達したという「性淘汰説」は妙に説得力がある。

そしてこの「ウソをつく言語」はのちに「宗教」や「お金」や「国家」といった幻想を共有することに転用され、人類は発展し、この星の覇者となったが、
これは温度調節のために生えた羽が、のちに飛ぶことに転用され、虫や鳥は飛ぶようになった、という羽の進化と符合しそうだ。


ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』によると人類で重要な革命は「認知革命」、「農業革命」、「科学革命」の三つがあり、最も重要なのは「認知革命」だとしているが、どうして認知革命が起きたかは書かれていない。

「口説き文句上手」、つまり”甘美な嘘”が上手になる方がモテるという「性淘汰」で脳の容積が爆増した。
しかし、脳が肥大化し、道具が使えるようになっても数百万年人類は地上ではモブキャラのまま冴えない種であった。
なぜなら、脳は食べ物を得る道具を上手に使う為に大きくなったのではなく、口説くためにどんどん脳が発達した性淘汰だったから。

ウソを喋れるようになった肥大化した脳の機能を、「幻想共有」に転用した「認知革命」がたまたまヒット。人類は快進撃を始めることができた。

元々は「口説く為」の「性淘汰」だったって方が何やら真理っぽい匂いがしないだろうか?

知性・知能を高尚なものだと決めてかかっている現代人類ではあるが、
この動画のいうようにインテリジェンスの起源はエロゲだとするとなんかいろいろ腑に落ちる。


この動画では、「性淘汰」による進化は不安定らしいので人類の知能はそのうち縮小するだろう、と述べている。
そもそも、この巨大な脳はエロゲをプレイする為にあるのだ、と。(笑)


日本神話でもイザナミとイザナギが「みとのまぐはひ」をするときに、

「あなにやし、えおとこを!」

「あなにやし、えおとめを!」

と、お互い言葉で褒め合って盛り上がってからコトを始めるところからも、「口説き文句」あるいは「甘い愛のささやき」は極めて重要なことが分かる。
(ちなみに女性から先に言葉をかけたのは良くないと後で言われてしまうのだが。。。)


恋する相手を口説く為だけに人類はリスクを負ってでも脳をこんなにも巨大化させた。。。

この説、
ロマンチック。

↓↓↓



法人番号公表サイトにおける英語表記の変更方法


1.「National Tax Agency Corporate Number Publication Site」に行って検索し英語表記を確認して法人番号をコピー。

2.「英語表記の登録」に行って最下部の「次へ」をクリックし、変更を入力したら、PDFをダウンロードする。
「本店又は主たる事務所の所在地(和)」が変更されても、この英語表記を変更登録するまで使用することを希望します。
にチェックしておきましょう。

3.「e-Tax」にログイン、「申告・申請・納税」>「新規作成」の一番下
「汎用申請を行う」>「イメージデータで送信可能な手続」をクリックしてPDFファイルをアップロードする。
※マイナンバーカードをスマートフォンで読み取る電子署名作業がなぜか2回もある。


こうやってまとめるとすごく簡単ですが、この方法に辿り着くまでが果てしなく面倒臭かった。
検索してAページに行ったら、「詳しくはこちら」とBページを案内され、
Bページを見たら「こちらを参照ください」とAページを案内される、、、
必殺ゼロ回答無限ループたらい回しの術。

まあ、こういうのは、なんかのクソゲーだと思って楽しもうって割り切ってやってるんですけどね、、、
BGMが流れます。
しろやぎさんからおてがみついた
くろやぎさんたらよまずにたべた
しかたがないのでおてがみかいた
さっきのてがみのごようじなあに

くろやぎさんからおてがみついた
しろやぎさんたらよまずにたべた
しかたがないのでおてがみかいた
さっきのてがみのごようじなあに



ちなみに法人の日本語表記を変更する場合は「異動届出書」というのを税務署に提出する必要があるとのこと。
日本語表記も変更するのでe-Taxで手続きしようとしたら電子署名のところでどうしてもエラーが起こる。
その前の手順に問題があるのか? 手続きの選択が間違ってるのか? あれこれ調べてやってみてもダメだった。

e-Taxナビダイヤル(0570-01-5901)に問合せてあれこれ調べて貰ったのだが、mac OS Sonoma(14.1.1)が推奨環境じゃないのでエラーが起こるのではないか、と。(うーん、マックユーザーはみんなSonomaにしてると思うのだが・・・)
で、結局、印刷して税務署に提出してください、とのこと。
トホホ・・・


言いたくないがe-Taxの、構造というかデザインというか言い回しというか、この分かりにくさたるや、、、
もうこれ、「ヴォイニッチ手稿」の解読だと思って取り組むしかない。


嗚呼、DXを推し進める自称IT先進国の我が国日本ょ。。。

ウォレットを全国民に配り、ベーシックインカムをデジタル通貨で発行する国になるのは夢のまた夢なのだろうか。。。