シリーズ「近代の超克」:③ 六塵 「我思う、それもまた塵なり」

仏教には「六塵」という言葉がある。

色・声・香・味・触・法。

私たちはふつう「五感」と言う。
見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる。

けれど仏教では、そこにもうひとつ「法」が入る。

ここで言う法とは、思考、記憶、概念、意味、イメージ、不安、物語のようなものだと考えてよいと思う。

つまり仏教では、思考もまた、見えるものや聞こえるものと同じく、私たちに現れてくる対象として扱われている。

これが、私はとても気になった。



線譜『エーテルの歌姫』(2018)


五感と思考を分けてしまった近代

私たちは、五感と思考を分けて考えがちだ。

五感は外の世界を受け取るもの。
思考はそれを判断する内側のもの。

そういう感覚が、かなり深く染みついている。

けれど、よく考えてみると、思考もまた私に「現れている」。

不安が浮かぶ。
記憶がよみがえる。
言葉が生まれる。
意味が立ち上がる。
「私はこういう人間だ」という考えが出てくる。


クオリアという言葉で言えば、見えの質感、音の質感、匂いの質感、味の質感、身体感覚の質感だけでなく、思考や意味や記憶の質感もある。

だから、経験の全体を見ようとするなら、「五」では足りない。

六塵になる。



六根、六境、六識、六塵

仏教では、六根・六境・六識という見方がある。

  • 六根とは、眼・耳・鼻・舌・身・意。認識の入口である。
  • 六境とは、色・声・香・味・触・法。六根が捉える対象である。
  • 六識とは、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識。そこに生じる認識である。

六塵は、この六境を、心を曇らせる対象として見た呼び方だと考えるとわかりやすい。


かなり単純に言えば、

六根が、六境/六塵に触れて、六識が生じる。

ということになる。


たとえば、見ることなら、眼根があり、色境があり、眼識が生じる。

聞くことなら、耳根があり、声境があり、耳識が生じる。

そして、考えることなら、意根があり、法境/法塵があり、意識が生じる。

ここが重要だ。

仏教では、思考は「私そのもの」ではない。

思考は、意に現れる法塵である。



「我思う故に我あり」の盲点

デカルトの「我思う、故に我あり」は、近代哲学の出発点のように語られることが多い。

世界は疑える。
身体も疑える。
感覚も疑える。

けれど、いま疑っている、考えているということだけは疑えない。

だから、考えている私は存在する。

これが大まかな流れだと思う。

もちろん、これはとても強い考え方だ。

「思考が起きている」という事実は、たしかに否定しにくい。

けれど、仏教の六塵や六識の側から見ると、そこにひとつ盲点があるように思う。

それは、

思考があることと、思考している実体的な私があることは、同じではない。

ということだ。



思考は王座ではなく、塵である

近代は、思考を特別扱いしたのかもしれない。

五感は不確かである。
見間違いもある。
錯覚もある。
夢かもしれない。

けれど、思考している私は確かである。

そうして「思考する私」が、世界を眺め、判断し、所有し、意味づける中心になっていった。


しかし仏教は、その思考すらも、対象の側に置く。

思考は、私の王座ではない。

思考もまた、私に現れてくるもののひとつである。

それは、色や音や匂いや味や触覚と同じように、現れては消える。

そして、それに執着すれば、心に塵が積もる。


この見方は、かなり救いでもあると思う。

なぜなら、考えが苦しい時、その考えが「私そのもの」ではない可能性が開かれるからだ。

不安がある。
でも、不安そのものが私ではない。

考えがある。
でも、考えそのものが私ではない。

「私」という考えがある。
でも、その「私」という考えすら、ひとつの法塵なのかもしれない。



制作の中で起きていること

これは、制作の感覚にも近い。

絵を描いている時、私はたしかに「私が描いている」と思っている。

けれど、もっと深く見ると、そこでは別のことが起きている。

線が生じる。
音の記憶が動く。
身体が反応する。
言葉になる前の感覚が現れる。
まだ意味になる前のものが、形になろうとする。

それをあとから「私の作品」と呼んでいる。



線譜『無題(仮)』


身体の律動が、思考になる前に線として現れる。

言葉では処理しきれない感情や記憶が、物語として現れてくる。

意識に現れた法塵が、世界として立ち上がる。

そう考えると、制作とは「私が世界を表現」しているのではなく、

私に現れてくるものを、私が少しだけ手伝って、形にしているだけなのかもしれない。



ネズミに恋したネコのタムちゃんシリーズ


「我思う」のあとに

デカルトは、思考の確実性を見つけた。

世界も、身体も、感覚も疑える。
けれど、疑っているということだけは疑えない。

そこから「私」の確実性を取り出した。

それが「近代」の大きな発見だったのだと思う。

けれど、仏教の六塵・六識の側から見るなら、その思考もまた、意に現れた法塵である。

「我思う」の奥に、「我」はいない。

そこにあるのは、意に触れた法塵と、それに応じて生じる意識なのかもしれない。

もしそこから、固定した「私」を出発点にして演繹を始めてしまったら、
いつかどこかで、ボタンの掛け違いのような破綻が現れる。

それは、まるで「現代」そのものではないだろうか?

我思う。
それもまた塵なり。

我もまた、塵なり。

一切皆空。

そう考えると、少しだけ楽にならないか。

思考を眺める。

「私」が立ち上がってくる場そのものに気づく。

そしてそこから、絵も、物語も、世界も、もう一度立ち上がってくる。



参考

渋沢MIX「スタートアップ・スモールビジネス起業家交流会」に登壇します

なんと、ひょんなことから、「スタートアップ・スモールビジネス起業家交流会」の登壇者をやることになりました。

会場は、さいたま新都心の渋沢MIX。スタートアップ起業家の方、一人あるいは小規模事業所の経営者の方が、それぞれの課題やこれからのことを持ち寄って交流する会です。

イベントアイキャッチ:スタートアップ・スモールビジネス起業家交流会

イベント概要

日時:2026年6月24日(水) 18:00〜20:00
受付開始:17:45
場所:渋沢MIX
埼玉県さいたま市大宮区吉敷町4丁目262番18 ekismさいたま新都心 5階
参加費:無料
定員:100名
申込締切:2026年6月23日(火)

対象は、スタートアップ起業家の方、そして一人あるいは小規模事業所の経営者の方です。当日は参加者同士の名刺交換会もあるそうなので、名刺をお持ちください。

発表では、自社紹介だけでなく、1年後、あるいは数年後にどうなっていたいのか、そのために今どんな課題があるのかを話し、そこからディスカッションにつなげていく形になりそうです。

登壇者として参加します

登壇者写真:武 盾一郎

渋沢MIXの登壇者紹介では、私は「画家、ガブリエル・ガブリエラ代表、十三月世大使館 店主」として紹介されています。

新宿西口地下道での段ボールハウス絵画からアーティスト活動を始め、路上や被災地での表現活動、「線譜」シリーズ、「ネズミに恋したネコのタムちゃん」シリーズなどを経て、今はガブリエル・ガブリエラ代表、十三月世大使館店主として活動しています。

自分の活動は、いわゆるスタートアップの文脈とは少し違って見えるかもしれません。

今回、私は「13月世の精霊の世界という大人のごっこ遊びを一緒にやりましょう!」ということを呼びかけようかなと思っています。

スタートアップやスモールビジネスの方へ

この会は、起業して間もない方や、個人の専門性を活かして事業を展開しようとしている方が、今抱えている課題や、これから何をしていきたいのかを交流し合う場として企画されています。

私自身も、ガブリエル・ガブリエラや十三月世大使館を通して、アート、場所、物語、仕事、暮らしがどうつながっていくのかを考え続けています。

ご都合の合う方、興味のある方は、ぜひご参加ください。

詳細とお申し込みはこちらです。
スタートアップ・スモールビジネス起業家交流会 | 渋沢MIX

シリーズ「近代の超克」:②純粋意識

線譜『9台のチェロのためのエチュード』
ボールペン画 2015年


「我思う、ゆえに我あり」[1] から近代が始まったとして、私たちの課題は、その先に進むこと、つまり、「近代の超克」なのではないか。そんなことをずっとぼんやりと考え続けている。

デカルトは、すべてを疑ったあとに、それでも疑っている私、考えている私だけは疑えない、とした。

「思考している私」を、最も確かなものとして置いた。

そこに、「純粋意識」[2] という概念を使って、「近代の超克」を一歩進められるのでは? と考えてみる。

「思考」は「意識そのもの」ではなく、意識の中に現れるひとつの要素である。

五感があり、感情があり、身体感覚があり、クオリアがある。

その中のひとつとして、思考もある。

だとしたら、本当に基底にあるのは「思考する私」ではなく、思考や感覚や私という感覚が現れている「気づきの場」なのではないか。



「純粋意識」とは何か?

▷ 意識とは何か ― 現象を超えた「純粋意識」の正体(What Is Consciousness?),理論,583


「赤さは見られている対象です。
痛みは経験されている内容です。
音楽の響きも内面に立ち上がるものです。
つまりそれらは意識の中身ではあっても、意識そのものではありません。」

「変わっているのは内容です。
変わらずにあるのは、内容が現れては消えていく場としての気づきです。」

──「意識とは何か ― 現象を超えた『純粋意識』の正体」より



「純粋意識」とは、簡単に言えば、思考・感情・感覚・記憶・自我感覚などが現れている、その背景にある「気づきそのもの」のことだ。

と、読んでもちょっとピンと来ないかも知れない。


私の経験、これが正しいかどうか分からないが、ちょっと書いてみる。


具合が悪い時、めっちゃ気持ち悪くなったり、お腹が痛くなったりするじゃないですか。

で、その時思ったんだけど、本当に具合が悪かったら、「気持ち悪い」という感覚も一緒に不具合を起こすので「気持ちの悪さ」がビビッドにやって来ないのではないだろうか? と思ったことがある。

気持ちが悪くなった時の「気持ち悪さ」はそれもう凄まじいですよね?

て、ことはめっちゃ意識はっきりしてるんじゃね? 本当に具合悪かったら、「気持ち悪い」って感度すら下がって気持ち悪くならないんじゃないのか? って思ったんです。

それ以降、具合が悪くなった時に思うんです。

「こんなに気持ち悪いってことは私はめっちゃ元気」って。

つまり、感覚や思考や自分であること、などのクオリアを支えているものがありそうだ、と。

「赤い色」や「痛み」や「音」のように、対象として掴めるものではなく、「感じることが起きている場」がありそうだ、と。

それが「純粋意識」と呼ばれるものではなかろうか?と。


また、自分が「寝てた」と分かるのも、なんだか不思議である。寝てる間には寝ているという、無意識のような意識が働いていて、それも純粋意識があることになりはしないだろうか? と思ったりもする。

だって、もし寝てて本当に意識が完全に消失してるなら、寝る前と目覚めが連続されていて、「寝てた」という状態を認識できないはずなんですよ。

例えば、全身麻酔で意識失ってる時間ってあるじゃないですか。
あれって、「寝てたわ〜」ってならないですよね?
「意識がなかった」という実感は何も湧かずに意識が戻りますよね。
てことは、全身麻酔ってクオリアが消失するというよりも、「純粋意識」がシャットダウンしてしまってるのではないかと思ったりもします。

なので、「意識がない」状態にもバリエーションがありそうで、
じゃあ、死後はどうなんだろう? とか、
または、もし、生まれ変わりがあるとしたらどうなんだろう? とか、
個体の生死を超えて「純粋意識」は保たれるのか? みたいな疑問も湧いてきて、めちゃくちゃ気になる。
というか、「意識の謎」に対する興味のほとんどはそのこと、「死んだらどうなる?」に集約されていく気もする。

そこは、今の所、オカルトや想像の世界なので、「自由の領域」でもある。

純粋意識が、実体として本当にあるのか、科学的に証明された意識のメカニズムなのかは分からない。

「純粋意識」とは、形而上学的な概念であり、同時に、瞑想や深い集中の中で接近しうる経験の記述でもある、と考えた方がよいのかもしれない。



「メタ認知」との違い

「純粋意識」に近いものとして、「メタ認知」[3] がある。

メタ認知とは、自分が今、何を考えているのか、自分が今、何を感じているのか、自分がどんな判断や反応をしているのかに気づく働きである。

たとえば、「今、自分は不安になっているな」と気づく。

「今、自分は怒りに反応しているな」と気づく。

「この考え方は少し偏っているかもしれないな」と気づく。

これは、自分の思考や感情を俯瞰して見る働きである。


一方で、「純粋意識」は少し違う。

純粋意識の立場では、「私は不安に気づいている」というところから、さらに一歩進む。

そこでは、不安が現れている。思考が現れている。身体感覚が現れている。そして、「それを見ている私」という感覚も現れている。

メタ認知では、まだ「観察している私」が残っている。

しかし純粋意識では、その「観察している私」さえも、気づきの中に現れるひとつの現象として見られる。


どちらも、思考や感情に巻き込まれすぎないための距離をつくる。

どちらも、自分を少し離れて見ることを可能にする。

どちらも、「今ここで起きていること」への気づきを含んでいる。

ただ、向かう方向が違う。

メタ認知は、自己調整へ向かう。

純粋意識は、存在の基底へ向かう。



近代の超克――「我思う、ゆえに我あり」を更新する

ここで、もう一度デカルトに戻る。

「我思う、ゆえに我あり」。

この言葉は、近代的主体の出発点だった。

すべてを疑っても、疑っている私、考えている私は否定できない。だから、「思考する私」こそ確かなものだ。

しかし、「純粋意識」の観点から見ると、ここにはひとつの問いが生まれる。

「思考」は、意識の中に現れる内容のひとつである。

感情も、感覚も、クオリアも、記憶も、身体感覚も、同じように現れている。

思考する私よりも基底にあるものがある。それが「(純粋)意識」、ということになる。

すると、意識こそが全ての土台になってしまうのだ。

え? それ、普通に唯識[4] とかの、仏教じゃね? と、一瞬思ってしまう。


しかし、ここに、「近代の超克」の入口があるのではないか。



それは、「私が世界を見ている」という構図から、「私も世界も、気づきの中に現れている」という構図への転換である。




参考・参照

  1. René Descartes, Discourse on the Method, Part IV
    デカルトが、すべてを疑ったあとにもなお残る確実性として、
    「考えている私」を取り出したことを確認するための参照。
    本文の「我思う、ゆえに我あり」の出発点に対応している。
    https://www.gutenberg.org/files/59/59-h/59-h.htm
  2. Robert K. C. Forman (ed.), The Problem of Pure Consciousness: Mysticism and Philosophy, Oxford University Press
    純粋意識を、何かの対象や内容としてではなく、
    思考や感覚が現れてくる経験の場として考えるための参照。
    本文では、純粋意識を科学的断定ではなく経験記述として扱う根拠になっている。
    https://doi.org/10.1093/oso/9780195059809.001.0001
    補助参照: Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Mysticism”。
    「Pure Conscious Event」や、対象内容を持たない意識経験の議論を確認するための参照。
    https://plato.stanford.edu/entries/mysticism/
  3. U.S. Department of Education, TEAL Center Fact Sheet No. 4: Metacognitive Processes
    メタ認知を、自分が何を考え、どう反応しているかに気づき、
    必要に応じて見直したり調整したりする働きとして押さえるための参照。
    本文でいう「一段引いて見る視点」の説明に対応している。
    https://lincs.ed.gov/federal-initiatives/teal/guide/metacognitive
  4. 唯識は、インド大乗仏教の瑜伽行派(Yogacara)に連なる「識のみ」「意識中心」の思想として論じられることが多い。本稿では、純粋意識と唯識をそのまま同一視するのではなく、「意識を基底から捉え直す発想」として連想される系譜への控えめな言及として置いている。参照: Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Yogacara”; Encyclopaedia Britannica, “Yogachara”。
    純粋意識の議論が、仏教思想の唯識とどこかで響き合うことを示す補助参照。
    https://plato.stanford.edu/entries/yogacara/
    https://www.britannica.com/topic/Yogachara

Xの中に、小さな13月世を立ち上げる

AIが出始めた時に思った。
13月世の精霊ちゃんたちが、それぞれのキャラクターを保ちながら自律的に会話をしているようなSNS投稿ができないだろうか。

それが、ようやく最近、AIでできそうな感じがしてきた。
今、その実装に取りかかっている。




Xのアカウントそのものを、小さな13月世にする

フォロワーさんたちが、13月世の世界を覗き込んで楽しむ、そういうSNSの使い方ができたら面白いと思った。


まずはXのアーカイブを読み込ませる

Xでは、設定とプライバシーの中の「アカウント」から「データのアーカイブをダウンロード」に進み、本人確認をしてアーカイブをリクエストできる。
準備ができると通知やメールが来て、zipで受け取れる。
zipを展開してClaude Codeに読み込ませる。

これまでの投稿には、ガブリエル・ガブリエラのキャラクターたちの投稿があるので、それぞれの精霊ちゃんたちが、どういう性格で、どういう口調で、何に反応して、どんな関係性を持っているのかを掴んでもらう。

さらに、直接ClaudeCodeにキャラクターの説明をする。
また、物語も読ませて学習してもらう。

そういうことを少しずつ覚えてもらう。



投稿して、分析して、育てていく

最初から完璧なものを作るというより、投稿しながら育てていく。

AIに投稿を作ってもらう。
それをXに投稿して反応を見て、分析して、次の投稿に反映し、PDCAを回していく。

精霊ちゃんたちの言葉も、最初から固定されたものではなく、投稿と反応の中で少しずつ育っていく。



これはSNS運用というより、世界観の運用かもしれない

十三月世大使館は大人のごっこ遊び


これは、Xという場所に、13月世の小さな世界を作る試みなのだと思う。

十三月世大使館が、現実の住宅街の中にある13月世の領土だとしたら、Xのアカウントの中にも、小さな13月世の領土を作ることができるかもしれない。
そこには、精霊たちが勝手に話し、考え、反応している世界がある。

AIはある意味、精霊に近い感じもある。



AIで、神話は動き出すのか?

AIを使うことで、13月世の精霊たちが自律的に会話を始める。

それはどこか少しアニミズムな感じがする。

ひょっとしたら、“ 未来の神話 ”への小さな試みにならないだろうか。




戦争時代のあとに、子どもは何に憧れるのか

ガブリエル・ガブリエラ『新世界の創造』

『子どものための美しい国』ヤヌシュ・コルチャック


ヤヌシュ・コルチャックの『子どものための美しい国』を読んで、私はとても驚いた。

もちろん、素晴らしい児童文学である。
けれど同時に、現代日本の感覚から見ると、かなり遠い空気がそこにある。

少年たちが、軍隊に憧れている。
戦争に、勇気や名誉や尊敬の気配を感じている。
子どもらしい機転を使って軍隊に紛れ込み、兵士となって戦う場面が、かなり長く続く。

そこには、戦争が「恐ろしいもの」であると同時に、少年たちにとって「憧れの対象」でもあった時代の空気がある。

これは、コルチャックの作品だけの話ではない。

日本の古い漫画や児童文化の中にも、男児たちがごく自然に「兵隊さん」に憧れ、「戦争ごっこ」をして遊んでいる場面がある。

現代の日本では、その感覚はかなり薄れているように見える。

子どもの憧れには、その社会が何を美しいものとして語り、何を勇敢なものとして讃え、何を尊いものとして教えているかが、色濃く反映されている。

では、戦争への憧れは、人類の本能なのだろうか?

私は、そう単純には言えないと思っている。


「戦争時代」


現在の人類であるホモ・サピエンスは、およそ30万年前にアフリカで進化したと考えられている。[1]
一方で、農業が始まったのは、およそ1万1,700年前、最後の氷期が終わるころからだとされる。[2]

つまり、私たちの身体や脳や感情の基本構造は、農業以前の長い狩猟採集時代の中で形成された。
そこから見ると、農業、定住、土地所有、余剰、格差、国家、そして制度化された戦争は、人類史の中ではかなり新しい出来事である。

もちろん、暴力や集団間の衝突そのものは、農業以前にもあっただろう。
たとえば、ナイル渓谷のジェベル・サハバ遺跡では、後期旧石器時代末の集団間暴力の痕跡が確認されている。[3]

しかし、戦争が国家の事業となり、兵士が名誉ある存在となり、子どもたちがそこに憧れるようになるには、農業以後の社会構造が大きく関わっているのではないか。

農業は、自然を変える。
土地を囲い、食料を蓄え、富を生み、所有を生む。
所有が生まれれば、それを守る必要が生まれる。
余剰が生まれれば、それを奪う者も現れる。
やがて、資源や土地をめぐる争いは、共同体や国家の計画として組織化されていく。

人類史をざっくり30万年とすると、農業の始まりを約1万2,000年前とした場合、それは全体の最後の4パーセントほどにあたる。
1日24時間に換算して、人類が午前0時に現れたとするならば、農業が始まるのは夜の11時2分ごろなのだ。

定住、所有、余剰、格差、国家、そして制度化された戦争は、人類史という一日の、ほとんど終わり際に現れた出来事なのだ。

これを「戦争時代」と仮に呼ぶとすると、戦争時代は、人類史の中ではごく最近の流行に過ぎないのかもしれない。


「戦争反対」だけを切り離せるのか?


しかし、戦争に反対するとき、戦争だけを単独で切り離して否定できるのか、という問題がある。

戦争は、社会悪として外側から突然やってきた異物ではないのかもしれない。
農業によって生まれた定住、所有、余剰、格差、資源管理、共同体の境界。
その内側から、制度としての戦争が生まれてきた可能性がある。

これは、オキシトシンの話に少し似ている。

オキシトシンは、しばしば「愛情ホルモン」と呼ばれる。
人と人との信頼や親密さ、結びつきに関わるものとして語られる。

けれど、それは単純に「すべての人に優しくなる物質」ではない。
研究では、オキシトシンが内集団へのひいきを強め、程度は弱いながら外集団への否定的反応にも関わることが示されている。[4]

つまり、愛着と排除は、まったく別々のものではない。
「私たち」を強く結ぶ力が、同時に「私たちではない者」を遠ざける力にもなりうる。

農業と戦争の関係にも、似た構造があるのではないか。

農業は、人類に安定した食料と定住をもたらした。
けれど同時に、土地、所有、余剰、格差、資源の奪い合いも生んだ。
その中で戦争は、農業以後の社会システムの内側から生まれてきたものだと私は考えている。


神話に登場する戦争の神々


古代ギリシャ神話を見ても、戦争は神々の領域に深く置かれている。

アレスは戦争の神であり、戦闘そのものの荒々しさ、血気、破壊性を象徴している。ブリタニカも、アレスを「戦争の神」あるいは「戦闘の精神」と説明している。[5]

しかし、戦争に関わる神はアレスだけではない。

アテナもまた、知恵や工芸の女神であると同時に、戦争の女神でもある。アレスが血なまぐさい戦闘を象徴するのに対し、アテナは戦略、技術、都市防衛、正義に関わる戦争を担っている。[6]

さらに、エニュオという戦争の女神もいる。エニュオはアレスに近い存在で、戦争そのものを擬人化した女神として語られている。[7]

勝利の女神ニケも忘れてはならない。
ニケは古代ギリシャ宗教における勝利の女神であり、勝利そのものが神格化されている。[8]

つまり、戦争は男神だけのものではなかった。
女神もまた、戦争、勝利、都市防衛、破壊、戦略の神話に深く関わっていた。

これは、古代ギリシャが単純に戦争を美化していたという話ではない。
アレスには忌まわしい戦闘の側面があり、アテナには秩序や知恵の側面がある。

それでも、戦争が神々の世界に組み込まれ、勝利が女神として讃えられ、戦うことが神話の中心的な出来事として語られていたことは確かだ。

そこには、戦争が人間社会にとってどれほど大きな意味を持っていたかが表れている。

そして、その神話は子どもたちの憧れにも入り込む。

子どもは、自分だけで憧れを発明しているわけではない。
社会が繰り返し語るものに憧れる。
社会が美しいとするものを、美しいと感じる。
社会が勇敢だと呼ぶものを、勇敢だと感じる。

だから、ある時代の子どもたちは兵士に憧れた。
戦うことを遊びにした。
勝つことに胸をときめかせた。
敵を倒す物語を、自然なものとして受け取った。


未来の神話


けれど私は、ここにこそ希望もあると思っている。

もし戦争への憧れが、人類の変えられない本能ではなく、ある時代に形成された神話であり、社会構造であり、教育であり、物語なのだとしたら。

私たちは、別の物語をつくることができる。

子どもたちが、
敵を倒す遊びではなく、霧の向こうにいるものと出会う遊びをしている。
勝つことではなく、見知らぬものへの好奇心に胸をときめかせている。
世界の境界を少しだけやわらかくすることに憧れている。
何度でもやり直せる楽しさがある。

そんな神話を描けるかもしれない。

反戦とは、ただ「戦争はいけない」と言うことだけでは足りないのかもしれない。

戦争を生み出している、所有のあり方。
自然との関係。
富の偏り。
共同体の境界。
他者を敵とするパワフルな物語。

そこを見つめ直さなければ、戦争だけを消すことは難しいのではないか。

けれど、それは絶望ではない。

むしろ、アーティストの仕事はそこにあると思っている。

戦争に反対するだけではなく、
戦争よりも深く、戦争よりも美しく、戦争よりも子どもの心を奪う物語を描くこと。

「戦争時代」の神話が、子どもに兵士への憧れを与えてきたのなら、
次の神話は、子どもに何への憧れを与えるのか。

私は、「13月世の物語」の中で、その問いを描きたい。


参考・参照

  1. Smithsonian National Museum of Natural History「Homo sapiens」
    https://humanorigins.si.edu/evidence/human-fossils/species/homo-sapiens
  2. Encyclopaedia Britannica「Origins of agriculture」
    https://www.britannica.com/topic/agriculture/How-agriculture-and-domestication-began
  3. CNRS「Jebel Sahaba: A succession of violence rather than a prehistoric war」
    https://www.cnrs.fr/sites/default/files/press_info/2021-05/PR_CNRS_PrehistoricViolenceJebelSahaba_web.pdf
  4. De Dreu, C. K. W. et al.「Oxytocin promotes human ethnocentrism」PNAS, 2011
    https://www.pnas.org/doi/full/10.1073/pnas.1015316108
  5. Encyclopaedia Britannica「Ares」
    https://www.britannica.com/topic/Ares-Greek-mythology
  6. Encyclopaedia Britannica「Athena」
    https://www.britannica.com/topic/Athena-Greek-mythology
  7. Theoi Greek Mythology「Enyo」
    https://www.theoi.com/Daimon/Enyo.html
  8. Encyclopaedia Britannica「Nike」
    https://www.britannica.com/topic/Nike-Greek-goddess
  9. 晶文社『子どものための美しい国』
    https://www.shobunsha.co.jp/?p=2406