シリーズ「近代の超克」:②純粋意識

「我思う、ゆえに我あり」[1] から近代が始まったとして、私たちの課題は、その先に進むこと、つまり、「近代の超克」なのではないか。そんなことをずっとぼんやりと考え続けている。

デカルトは、すべてを疑ったあとに、それでも疑っている私、考えている私だけは疑えない、とした。

「思考している私」を、最も確かなものとして置いた。

そこに、「純粋意識」[2] という概念を使って、「近代の超克」を一歩進められるのでは? と考えてみる。

「思考」は「意識そのもの」ではなく、意識の中に現れるひとつの要素である。

五感があり、感情があり、身体感覚があり、クオリアがある。

その中のひとつとして、思考もある。

だとしたら、本当に基底にあるのは「思考する私」ではなく、思考や感覚や私という感覚が現れている「気づきの場」なのではないか。



「純粋意識」とは何か?

▷ 意識とは何か ― 現象を超えた「純粋意識」の正体(What Is Consciousness?),理論,583


「赤さは見られている対象です。
痛みは経験されている内容です。
音楽の響きも内面に立ち上がるものです。
つまりそれらは意識の中身ではあっても、意識そのものではありません。」

「変わっているのは内容です。
変わらずにあるのは、内容が現れては消えていく場としての気づきです。」

──「意識とは何か ― 現象を超えた『純粋意識』の正体」より



「純粋意識」とは、簡単に言えば、思考・感情・感覚・記憶・自我感覚などが現れている、その背景にある「気づきそのもの」のことだ。

と、読んでもちょっとピンと来ないかも知れない。


私の経験、これが正しいかどうか分からないが、ちょっと書いてみる。


具合が悪い時、めっちゃ気持ち悪くなったり、お腹が痛くなったりするじゃないですか。

で、その時思ったんだけど、本当に具合が悪かったら、「気持ち悪い」という感覚も一緒に不具合を起こすので「気持ちの悪さ」がビビッドにやって来ないのではないだろうか? と思ったことがある。

気持ちが悪くなった時の「気持ち悪さ」はそれもう凄まじいですよね?

て、ことはめっちゃ意識はっきりしてるんじゃね? 本当に具合悪かったら、「気持ち悪い」って感度すら下がって気持ち悪くならないんじゃないのか? って思ったんです。

それ以降、具合が悪くなった時に思うんです。

「こんなに気持ち悪いってことは私はめっちゃ元気」って。

つまり、感覚や思考や自分であること、などのクオリアを支えているものがありそうだ、と。

「赤い色」や「痛み」や「音」のように、対象として掴めるものではなく、「感じることが起きている場」がありそうだ、と。

それが「純粋意識」と呼ばれるものではなかろうか?と。


また、自分が「寝てた」と分かるのも、なんだか不思議である。寝てる間には寝ているという、無意識のような意識が働いていて、それも純粋意識があることになりはしないだろうか? と思ったりもする。

だって、もし寝てて本当に意識が完全に消失してるなら、寝る前と目覚めが連続されていて、「寝てた」という状態を認識できないはずなんですよ。

例えば、全身麻酔で意識失ってる時間ってあるじゃないですか。
あれって、「寝てたわ〜」ってならないですよね?
「意識がなかった」という実感は何も湧かずに意識が戻りますよね。
てことは、全身麻酔ってクオリアが消失するというよりも、「純粋意識」がシャットダウンしてしまってるのではないかと思ったりもします。

なので、「意識がない」状態にもバリエーションがありそうで、
じゃあ、死後はどうなんだろう? とか、
または、もし、生まれ変わりがあるとしたらどうなんだろう? とか、
個体の生死を超えて「純粋意識」は保たれるのか? みたいな疑問も湧いてきて、めちゃくちゃ気になる。
というか、「意識の謎」に対する興味のほとんどはそのこと、「死んだらどうなる?」に集約されていく気もする。

そこは、今の所、オカルトや想像の世界なので、「自由の領域」でもある。

純粋意識が、実体として本当にあるのか、科学的に証明された意識のメカニズムなのかは分からない。

「純粋意識」とは、形而上学的な概念であり、同時に、瞑想や深い集中の中で接近しうる経験の記述でもある、と考えた方がよいのかもしれない。



「メタ認知」との違い

「純粋意識」に近いものとして、「メタ認知」[3] がある。

メタ認知とは、自分が今、何を考えているのか、自分が今、何を感じているのか、自分がどんな判断や反応をしているのかに気づく働きである。

たとえば、「今、自分は不安になっているな」と気づく。

「今、自分は怒りに反応しているな」と気づく。

「この考え方は少し偏っているかもしれないな」と気づく。

これは、自分の思考や感情を俯瞰して見る働きである。


一方で、「純粋意識」は少し違う。

純粋意識の立場では、「私は不安に気づいている」というところから、さらに一歩進む。

そこでは、不安が現れている。思考が現れている。身体感覚が現れている。そして、「それを見ている私」という感覚も現れている。

メタ認知では、まだ「観察している私」が残っている。

しかし純粋意識では、その「観察している私」さえも、気づきの中に現れるひとつの現象として見られる。


どちらも、思考や感情に巻き込まれすぎないための距離をつくる。

どちらも、自分を少し離れて見ることを可能にする。

どちらも、「今ここで起きていること」への気づきを含んでいる。

ただ、向かう方向が違う。

メタ認知は、自己調整へ向かう。

純粋意識は、存在の基底へ向かう。



近代の超克――「我思う、ゆえに我あり」を更新する

ここで、もう一度デカルトに戻る。

「我思う、ゆえに我あり」。

この言葉は、近代的主体の出発点だった。

すべてを疑っても、疑っている私、考えている私は否定できない。だから、「思考する私」こそ確かなものだ。

しかし、「純粋意識」の観点から見ると、ここにはひとつの問いが生まれる。

「思考」は、意識の中に現れる内容のひとつである。

感情も、感覚も、クオリアも、記憶も、身体感覚も、同じように現れている。

思考する私よりも基底にあるものがある。それが「(純粋)意識」、ということになる。

すると、意識こそが全ての土台になってしまうのだ。

え? それ、普通に唯識[4] とかの、仏教じゃね? と、一瞬思ってしまう。


しかし、ここに、「近代の超克」の入口があるのではないか。



それは、「私が世界を見ている」という構図から、「私も世界も、気づきの中に現れている」という構図への転換である。




参考・参照

  1. René Descartes, Discourse on the Method, Part IV
    デカルトが、すべてを疑ったあとにもなお残る確実性として、
    「考えている私」を取り出したことを確認するための参照。
    本文の「我思う、ゆえに我あり」の出発点に対応している。
    https://www.gutenberg.org/files/59/59-h/59-h.htm
  2. Robert K. C. Forman (ed.), The Problem of Pure Consciousness: Mysticism and Philosophy, Oxford University Press
    純粋意識を、何かの対象や内容としてではなく、
    思考や感覚が現れてくる経験の場として考えるための参照。
    本文では、純粋意識を科学的断定ではなく経験記述として扱う根拠になっている。
    https://doi.org/10.1093/oso/9780195059809.001.0001
    補助参照: Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Mysticism”。
    「Pure Conscious Event」や、対象内容を持たない意識経験の議論を確認するための参照。
    https://plato.stanford.edu/entries/mysticism/
  3. U.S. Department of Education, TEAL Center Fact Sheet No. 4: Metacognitive Processes
    メタ認知を、自分が何を考え、どう反応しているかに気づき、
    必要に応じて見直したり調整したりする働きとして押さえるための参照。
    本文でいう「一段引いて見る視点」の説明に対応している。
    https://lincs.ed.gov/federal-initiatives/teal/guide/metacognitive
  4. 唯識は、インド大乗仏教の瑜伽行派(Yogacara)に連なる「識のみ」「意識中心」の思想として論じられることが多い。本稿では、純粋意識と唯識をそのまま同一視するのではなく、「意識を基底から捉え直す発想」として連想される系譜への控えめな言及として置いている。参照: Stanford Encyclopedia of Philosophy, “Yogacara”; Encyclopaedia Britannica, “Yogachara”。
    純粋意識の議論が、仏教思想の唯識とどこかで響き合うことを示す補助参照。
    https://plato.stanford.edu/entries/yogacara/
    https://www.britannica.com/topic/Yogachara

Xの中に、小さな13月世を立ち上げる

AIが出始めた時に思った。
13月世の精霊ちゃんたちが、それぞれのキャラクターを保ちながら自律的に会話をしているようなSNS投稿ができないだろうか。

それが、ようやく最近、AIでできそうな感じがしてきた。
今、その実装に取りかかっている。




Xのアカウントそのものを、小さな13月世にする

フォロワーさんたちが、13月世の世界を覗き込んで楽しむ、そういうSNSの使い方ができたら面白いと思った。


まずはXのアーカイブを読み込ませる

Xでは、設定とプライバシーの中の「アカウント」から「データのアーカイブをダウンロード」に進み、本人確認をしてアーカイブをリクエストできる。
準備ができると通知やメールが来て、zipで受け取れる。
zipを展開してClaude Codeに読み込ませる。

これまでの投稿には、ガブリエル・ガブリエラのキャラクターたちの投稿があるので、それぞれの精霊ちゃんたちが、どういう性格で、どういう口調で、何に反応して、どんな関係性を持っているのかを掴んでもらう。

さらに、直接ClaudeCodeにキャラクターの説明をする。
また、物語も読ませて学習してもらう。

そういうことを少しずつ覚えてもらう。



投稿して、分析して、育てていく

最初から完璧なものを作るというより、投稿しながら育てていく。

AIに投稿を作ってもらう。
それをXに投稿して反応を見て、分析して、次の投稿に反映し、PDCAを回していく。

精霊ちゃんたちの言葉も、最初から固定されたものではなく、投稿と反応の中で少しずつ育っていく。



これはSNS運用というより、世界観の運用かもしれない

十三月世大使館は大人のごっこ遊び


これは、Xという場所に、13月世の小さな世界を作る試みなのだと思う。

十三月世大使館が、現実の住宅街の中にある13月世の領土だとしたら、Xのアカウントの中にも、小さな13月世の領土を作ることができるかもしれない。
そこには、精霊たちが勝手に話し、考え、反応している世界がある。

AIはある意味、精霊に近い感じもある。



AIで、神話は動き出すのか?

AIを使うことで、13月世の精霊たちが自律的に会話を始める。

それはどこか少しアニミズムな感じがする。

ひょっとしたら、“ 未来の神話 ”への小さな試みにならないだろうか。




戦争時代のあとに、子どもは何に憧れるのか

ガブリエル・ガブリエラ『新世界の創造』

『子どものための美しい国』ヤヌシュ・コルチャック


ヤヌシュ・コルチャックの『子どものための美しい国』を読んで、私はとても驚いた。

もちろん、素晴らしい児童文学である。
けれど同時に、現代日本の感覚から見ると、かなり遠い空気がそこにある。

少年たちが、軍隊に憧れている。
戦争に、勇気や名誉や尊敬の気配を感じている。
子どもらしい機転を使って軍隊に紛れ込み、兵士となって戦う場面が、かなり長く続く。

そこには、戦争が「恐ろしいもの」であると同時に、少年たちにとって「憧れの対象」でもあった時代の空気がある。

これは、コルチャックの作品だけの話ではない。

日本の古い漫画や児童文化の中にも、男児たちがごく自然に「兵隊さん」に憧れ、「戦争ごっこ」をして遊んでいる場面がある。

現代の日本では、その感覚はかなり薄れているように見える。

子どもの憧れには、その社会が何を美しいものとして語り、何を勇敢なものとして讃え、何を尊いものとして教えているかが、色濃く反映されている。

では、戦争への憧れは、人類の本能なのだろうか?

私は、そう単純には言えないと思っている。


「戦争時代」


現在の人類であるホモ・サピエンスは、およそ30万年前にアフリカで進化したと考えられている。[1]
一方で、農業が始まったのは、およそ1万1,700年前、最後の氷期が終わるころからだとされる。[2]

つまり、私たちの身体や脳や感情の基本構造は、農業以前の長い狩猟採集時代の中で形成された。
そこから見ると、農業、定住、土地所有、余剰、格差、国家、そして制度化された戦争は、人類史の中ではかなり新しい出来事である。

もちろん、暴力や集団間の衝突そのものは、農業以前にもあっただろう。
たとえば、ナイル渓谷のジェベル・サハバ遺跡では、後期旧石器時代末の集団間暴力の痕跡が確認されている。[3]

しかし、戦争が国家の事業となり、兵士が名誉ある存在となり、子どもたちがそこに憧れるようになるには、農業以後の社会構造が大きく関わっているのではないか。

農業は、自然を変える。
土地を囲い、食料を蓄え、富を生み、所有を生む。
所有が生まれれば、それを守る必要が生まれる。
余剰が生まれれば、それを奪う者も現れる。
やがて、資源や土地をめぐる争いは、共同体や国家の計画として組織化されていく。

人類史をざっくり30万年とすると、農業の始まりを約1万2,000年前とした場合、それは全体の最後の4パーセントほどにあたる。
1日24時間に換算して、人類が午前0時に現れたとするならば、農業が始まるのは夜の11時2分ごろなのだ。

定住、所有、余剰、格差、国家、そして制度化された戦争は、人類史という一日の、ほとんど終わり際に現れた出来事なのだ。

これを「戦争時代」と仮に呼ぶとすると、戦争時代は、人類史の中ではごく最近の流行に過ぎないのかもしれない。


「戦争反対」だけを切り離せるのか?


しかし、戦争に反対するとき、戦争だけを単独で切り離して否定できるのか、という問題がある。

戦争は、社会悪として外側から突然やってきた異物ではないのかもしれない。
農業によって生まれた定住、所有、余剰、格差、資源管理、共同体の境界。
その内側から、制度としての戦争が生まれてきた可能性がある。

これは、オキシトシンの話に少し似ている。

オキシトシンは、しばしば「愛情ホルモン」と呼ばれる。
人と人との信頼や親密さ、結びつきに関わるものとして語られる。

けれど、それは単純に「すべての人に優しくなる物質」ではない。
研究では、オキシトシンが内集団へのひいきを強め、程度は弱いながら外集団への否定的反応にも関わることが示されている。[4]

つまり、愛着と排除は、まったく別々のものではない。
「私たち」を強く結ぶ力が、同時に「私たちではない者」を遠ざける力にもなりうる。

農業と戦争の関係にも、似た構造があるのではないか。

農業は、人類に安定した食料と定住をもたらした。
けれど同時に、土地、所有、余剰、格差、資源の奪い合いも生んだ。
その中で戦争は、農業以後の社会システムの内側から生まれてきたものだと私は考えている。


神話に登場する戦争の神々


古代ギリシャ神話を見ても、戦争は神々の領域に深く置かれている。

アレスは戦争の神であり、戦闘そのものの荒々しさ、血気、破壊性を象徴している。ブリタニカも、アレスを「戦争の神」あるいは「戦闘の精神」と説明している。[5]

しかし、戦争に関わる神はアレスだけではない。

アテナもまた、知恵や工芸の女神であると同時に、戦争の女神でもある。アレスが血なまぐさい戦闘を象徴するのに対し、アテナは戦略、技術、都市防衛、正義に関わる戦争を担っている。[6]

さらに、エニュオという戦争の女神もいる。エニュオはアレスに近い存在で、戦争そのものを擬人化した女神として語られている。[7]

勝利の女神ニケも忘れてはならない。
ニケは古代ギリシャ宗教における勝利の女神であり、勝利そのものが神格化されている。[8]

つまり、戦争は男神だけのものではなかった。
女神もまた、戦争、勝利、都市防衛、破壊、戦略の神話に深く関わっていた。

これは、古代ギリシャが単純に戦争を美化していたという話ではない。
アレスには忌まわしい戦闘の側面があり、アテナには秩序や知恵の側面がある。

それでも、戦争が神々の世界に組み込まれ、勝利が女神として讃えられ、戦うことが神話の中心的な出来事として語られていたことは確かだ。

そこには、戦争が人間社会にとってどれほど大きな意味を持っていたかが表れている。

そして、その神話は子どもたちの憧れにも入り込む。

子どもは、自分だけで憧れを発明しているわけではない。
社会が繰り返し語るものに憧れる。
社会が美しいとするものを、美しいと感じる。
社会が勇敢だと呼ぶものを、勇敢だと感じる。

だから、ある時代の子どもたちは兵士に憧れた。
戦うことを遊びにした。
勝つことに胸をときめかせた。
敵を倒す物語を、自然なものとして受け取った。


未来の神話


けれど私は、ここにこそ希望もあると思っている。

もし戦争への憧れが、人類の変えられない本能ではなく、ある時代に形成された神話であり、社会構造であり、教育であり、物語なのだとしたら。

私たちは、別の物語をつくることができる。

子どもたちが、
敵を倒す遊びではなく、霧の向こうにいるものと出会う遊びをしている。
勝つことではなく、見知らぬものへの好奇心に胸をときめかせている。
世界の境界を少しだけやわらかくすることに憧れている。
何度でもやり直せる楽しさがある。

そんな神話を描けるかもしれない。

反戦とは、ただ「戦争はいけない」と言うことだけでは足りないのかもしれない。

戦争を生み出している、所有のあり方。
自然との関係。
富の偏り。
共同体の境界。
他者を敵とするパワフルな物語。

そこを見つめ直さなければ、戦争だけを消すことは難しいのではないか。

けれど、それは絶望ではない。

むしろ、アーティストの仕事はそこにあると思っている。

戦争に反対するだけではなく、
戦争よりも深く、戦争よりも美しく、戦争よりも子どもの心を奪う物語を描くこと。

「戦争時代」の神話が、子どもに兵士への憧れを与えてきたのなら、
次の神話は、子どもに何への憧れを与えるのか。

私は、「13月世の物語」の中で、その問いを描きたい。


参考・参照

  1. Smithsonian National Museum of Natural History「Homo sapiens」
    https://humanorigins.si.edu/evidence/human-fossils/species/homo-sapiens
  2. Encyclopaedia Britannica「Origins of agriculture」
    https://www.britannica.com/topic/agriculture/How-agriculture-and-domestication-began
  3. CNRS「Jebel Sahaba: A succession of violence rather than a prehistoric war」
    https://www.cnrs.fr/sites/default/files/press_info/2021-05/PR_CNRS_PrehistoricViolenceJebelSahaba_web.pdf
  4. De Dreu, C. K. W. et al.「Oxytocin promotes human ethnocentrism」PNAS, 2011
    https://www.pnas.org/doi/full/10.1073/pnas.1015316108
  5. Encyclopaedia Britannica「Ares」
    https://www.britannica.com/topic/Ares-Greek-mythology
  6. Encyclopaedia Britannica「Athena」
    https://www.britannica.com/topic/Athena-Greek-mythology
  7. Theoi Greek Mythology「Enyo」
    https://www.theoi.com/Daimon/Enyo.html
  8. Encyclopaedia Britannica「Nike」
    https://www.britannica.com/topic/Nike-Greek-goddess
  9. 晶文社『子どものための美しい国』
    https://www.shobunsha.co.jp/?p=2406

武 盾一郎とガブリエル・ガブリエラのホームページ



現在、武 盾一郎ガブリエル・ガブリエラ のホームページを公開しながら制作しています。

ちょっと前に 十三月世大使館 ホームページ を作って運用し始めました。

ホームページ制作の前に、
〈 三種の指輪 〉特設サイト と、 13月世の白雪姫WEB版 をChatGPTで作りました。
思ったより思い通りのページが作れて、やっとAIが役に立ったと思ったのです。

ホームページの制作では、Codex と Claude Code を使いました。
これで本当に思い通りのWEBサイトが作れるんだなあと実感しました。


独自ドメインとレンタルサーバーを契約したまま、何年も放置しておりましたが、やっと活用できた感じです。

私は、

- 線譜を描く画家
- 『ネズミに恋したネコのタムちゃん』を描く作家
- Gabriel.Gabriela の代表
- 十三月世大使館 店主

という複数の活動をしていますが、それらが混在していました。

今回のホームページで、それらが可視化できたので自分でも整理できました。


他に気に入っているところは、トップページの略歴年表です。

ストリートでのペインティング、
スクウォット(不法占拠)空間での活動、
線譜シリーズ、
ガブリエル・ガブリエラ、
十三月世大使館へと、

活動の流れが視覚的に見えるように整理しました。

また、 ガブリエル・ガブリエラ ホームページと、
十三月世大使館 ホームページの最新記事が自動表示される仕組みも組み込んでいます。


ホームページ制作は、デザイン以前に、

「私は何をしている人なのか?」
「何のためのホームページなのか?」

を整理することが重要なのだと思いました。


現在も制作途中ですが、少しずつ育っていく過程そのものも含めて、公開していこうと思っています。

ホームページ制作や、世界観整理を含めたご相談も承っております𓃠


装飾は、本質がこの世に現れるための作法である

装飾とは
「飾る」ということですが、それは同時に「隠す」意味も含みますし、装飾は表出させることでもあります。

artscapeによると以下です。
飾ること。美しく装うこと、またその装いや飾り。ornamentはある造形物をより魅力的に見せるdecorationのための付加物であり、それ自体は機能をもたずとも視覚を通じて美的な快感情を引き起こす。古来、装飾は工芸的価値をもってきたが、モダニズムのデザインが機能主義やシンプルさを至上価値とすることで、装飾は否定的に扱われるようになる。例えばO・ワーグナーは機能主義の見地から「芸術は必要にのみ従う」と主張し、A・ロースは手工業的なウィーン分離派、ウィーン工房に反対する立場から論文「装飾と犯罪」(1908)の中で装飾の不純性、不道徳性を批判した。また、ル・コルビュジエは『今日の装飾芸術』(1925)において近代における装飾の欺瞞を指摘し、装飾を廃した工業製品の合理性を礼賛した。日本の近代建築においては佐野利器が反装飾を貫き、合理性、機能性を主張することで芸術的、思想的要素の排除に向かった。とはいえ装飾は地域により偏差をもちながら様式化する。反装飾をもっぱらとした近代の造形物もまた趣味判断を免れえず、そもそも造形物というものは物質と形態をもたざるをえないことから、近代建築もまた装飾に代わる趣味的な価値を必要とするだろう。

なので、「装飾って好き?」 って問われた場合、

「そうねえ、ボクが知りたいのは本質とか真実だから、装飾には興味ないかなあ」

と答えた方が、深そうではある。
デザインやアートに造詣が深ければなおさら。



さて、ここからが本題で、
でも、本当にそうだろうか。

本質や真実は、裸のままそこに置かれているものなのだろうか。

むしろ本質は、
何かに包まれ、隠され、守られながら、
ようやくこちらに姿を現すものなのではないか。

たとえば、花。
花びらは、植物にとって装飾のように見える。
けれど花びらは、ただの飾りではない。
虫を呼び、命をつなぎ、植物の存在の目的そのものに関わっている。

たとえば、衣服。
衣服は身体を飾るものだけれど、
同時に身体を隠し、守り、
その人がどう世界と関わりたいのかを表している。

たとえば、言葉。
言葉もまた、心そのものではない。
心にまとわせる衣のようなものだ。
けれど私たちは、その衣を通してしか、
相手の心に触れることができない。

そう考えると、装飾は本質の外側にある余計なものではない。

装飾は、本質がこの世に現れるための形式である。

飾る。
隠す。
表出する。

この三つは、別々のことではなく、
ひとつの働きなのだと思う。

たぶん、本質は無形なので、そのままではこの世に現れにくいのだろう。
それは、プラトンのいう「イデア」に近いものなのかもしれない。

また、
本当に大切なものは、
むき出しにされると壊れてしまうことがある。
だから隠される。
けれど、完全に隠れてしまえば誰にも届かない。
だから飾られる。
そして、その飾りを通して、
奥にあるものがかすかに表出する。

装飾とは、
本質を誤魔化すものではなく、
本質が傷つかずに世界へ出てくるための作法なのかもしれない。

アートも、たぶんそうだ。

絵具、線、色、かたち、物語、額装、展示空間。
それらはすべて装飾のように見える。
けれど、それらがなければ、
作品の奥にある感情や祈りや気配は、
この世に現れることができない。

装飾は、表面でありながら、表面だけではないのだ。

装飾は、深いものが表面に到達するための通路である。


装飾とは、
見えない本質が、
この世に姿を現すための作法なのだと思う。


2020年3月16日に書きかけのブログを更新しました。