見立ての遊びを、現代美術として更新する

ねえ、あそぼ…
― 夢魔の國の胡蝶 ―
ガブリエル・ガブリエラ(2026)


子どもは鬼ごっこをするとき、鬼が本当に実在するかどうかを議論しない。

誰かが鬼になり、触れられた人が次の鬼になる。
その間、子どもたちは本気で逃げ、本気で追いかける。

ままごとでは、葉っぱがお皿になり、石ころが食べ物になる。小枝が包丁になり、段ボール箱がテーブルになる。

誰も本物の料理だと勘違いしているわけではない。それでも、遊びの中には確かに一つの世界が成立している。

いることにして、本気で遊ぶ。

私は、このことが芸術にとって非常に重要なのではないかと思っている。


遊びの中に、古い文化が生きている

子どもの遊びは、どこからやって来るのだろう。

ままごとは、大人の暮らしを模倣しているように見える。けれど、鬼ごっこやかごめかごめ、意味のよく分からないわらべうたなどはどうだろう。

誰が最初に始めたのかも分からない遊びを、子どもたちはいつの間にか覚え、繰り返し、次の子どもたちへ伝えていく。

面白いのは、その意味や起源を知らなくても、遊びは受け継がれていくということだ。

民俗学では、子どもの伝承遊びと、古い祭礼や宗教儀礼との関係が研究されている。[注1]

例えば、わらべうたには、土地や時代によって変化しながら受け継がれてきたものがある。[注2]

また、子どもの遊びには、神話や古い宗教儀礼に由来すると思われる要素が残されている可能性も指摘されている。[注3]

もちろん、鬼ごっこの鬼が、古代の儀礼から直接生まれたと断定できるわけではない。

けれど、文化の本来の意味が忘れられた後も、動作や言葉や規則だけが遊びとして受け継がれていくことはあり得る。

子どもの遊びは、本人たちの知らない文化の記憶を運んでいるのかもしれない。

そこには、祭りや祈りのようなものだけでなく、恐怖や禁忌、排除や競争といった、人間社会の暗い側面も含まれているのだろう。

子どもの遊びは、必ずしも無邪気で純粋なものばかりではない。[注4]

だからこそ、人間の文化が持つ複雑なものを、思いがけず保存しているようにも思える。


文化を受け継ぎながら、つくり替える

しかし、子どもたちは伝統をそのまま保存しているわけでもない。

遊びの規則は地域によって違うし、同じ遊びでも、その場にいる子どもたちによって変わる。

誰かが新しいルールを思いつけば、遊びはそこから別のものになっていく。

つまり、子どもは文化を受け継ぐと同時に、自分たちでつくり替えている。

そして、その子どもたちが大人になり、今度は大人の文化を担っていく。

大人の文化が子どもの遊びに影響し、子どもたちの遊びがまた新しい文化を生み出す。

こうした循環が、どこかにあるのではないだろうか。

歴史家ヨハン・ホイジンガは『ホモ・ルーデンス』において、遊びを文化形成に深く関わる営みとして捉えた。[注5]

文化が遊びを生み、遊びが文化を生む。

もしそうだとすれば、遊びとは単なる娯楽でも、大人になるための練習でもない。

文化が生き続けるための、一つの仕組みなのかもしれない。


日本文化にある「見立て」の遊び

このような遊びの構造は、日本の伝統芸術にも見出せる。

例えば、人形浄瑠璃。

舞台では、人間が人形を動かしていることが見えている。けれど、観客は人形を生きた登場人物として見ている。黒衣はそこにいるのに、見えないことになっている。[注6]

誰も本当に人形が生きていると勘違いしているわけではない。

それでも、人形の悲しみに涙を流すことができる。

絵画にも「見立絵」という表現がある。

江戸時代の浮世絵では、古典文学や歴史上の人物を、当時の風俗や人物に置き換えて描くことが盛んに行われた。[注7]

元の物語を知っている人は、その置き換えの面白さを楽しむ。

そこでは、現実のものに別の意味を重ねることで、新しい表現が生まれている。

子どものままごと、人形浄瑠璃、浮世絵の見立絵。

これらは同じものではない。けれど、そこには共通する想像力の働きがある。

現実に存在するものを、別の何かとして受け入れる。

そして、その約束を共有することで、一つの世界が成立する。

見立ては子どもの遊びであると同時に、日本の芸術文化の中で高度に洗練されてきた表現方法でもある。


現代において、見立てを更新する

ただし、見立ては日本だけに存在するものではない。

西洋の演劇にも仮面劇にも、神話や寓話にも、現実に存在しないものを存在するものとして扱う文化がある。

現代では、映画やゲーム、アニメーション、仮想空間などにも、その仕組みを見出せる。

虚構であることを知りながら、その世界に入り込み、そこで起こる出来事に本当の感情を動かされる。

グレゴリー・ベイトソンは、遊びを成立させる意味の枠組みについて論じている。[注8]

遊びの中では、現実と同じ動作であっても、別の意味を持つ。

この仕組みは、時代や文化を越えて、さまざまな表現に見出すことができる。

では、日本の見立ての文化を、現代の芸術や、世界各地の神話、物語、視覚文化などと組み合わせたら、どのようなものが生まれるのだろう。

単に昔の文化を再現するのではない。

さまざまな文化を取り込み、組み替え、今までになかった新しい世界をつくる。

私は、そこに現代美術としての可能性を感じている。


十三月世という見立て

私たちガブリエル・ガブリエラは、現実の世界を十二月世と呼んでいる。

そして、光の精霊たちが棲む十三月世(13MoonVerse)、闇の精霊たちが棲む霧の國(Nebelreich)という世界をつくっている。

そこには精霊がいて、さまざまな物語がある。

それらを絵画や呪薬(ジュエリー)として具現化していく。

十三月世大使館もまた、一つの見立てである。

埼玉県上尾市にある小さなギャラリーが、十二月世と十三月世をつなぐ大使館になる。

訪れた人は、絵画や呪薬に出会い、その世界に参加する。

私たちは、十三月世の実在を証明しようとしているわけではない。

十三月世があることにして、本気で遊ぶ。

そして、その遊びを本格的な造形芸術として成立させようとしている。

作品は物語の説明図や小道具ではない。一つひとつが独立した美術作品でありながら、全体として一つの世界をつくっている。

さらに作品を購入することは、その世界の一部を日常の暮らしに迎え入れることにもなる。

もちろん、購入しなくても世界には参加できる。

けれど、作品を所有することで、その世界との関係は長く続いていくかもしれない。

遊びそのものの価値と、美術作品としての貨幣価値。

それらを単一の尺度に還元せず、共存させることも、私たちの重要な課題である。


見立ての遊びを、現代美術として更新する

子どもの遊びには、古い文化の記憶が残っているのかもしれない。

そして日本の芸術には、見立ての遊びを高度な表現へと発展させてきた歴史がある。

私たちがやろうとしていることは、その文化を単に保存したり、子どもの遊びを再現したりすることではない。

受け継がれてきた見立ての仕組みを、現代の技術や表現、西洋を含むさまざまな文化と組み合わせ、新しい芸術として提示すること。

そして、完成した作品を鑑賞するだけでなく、そこから新しい物語が生まれ続ける世界をつくること。

ガブリエル・ガブリエラの合言葉は、「Meet Your Wonder Child!」である。

それは、子ども時代へ戻ろうという意味ではない。

大人になった今だからこそできる、想像力と技術と知識を使った、本気の遊び。

子どもたちが知らず知らずのうちに文化を受け継ぎ、つくり替えてきたように、私たちもまた、新しい文化を生み出すことができるのではないだろうか。

いることにして、本気で遊ぶ。

その遊びが、どこまでアートになり得るのか。

私はそれを試している。



注・参考文献

[注1]伝承遊びと儀礼・祝祭
山本清洋「伝承遊びの構造分析」。日本の伝承遊びを、規範や役割、宗教的儀礼や祝祭との関連から考察した論考。
https://jslrs.jp/journal/pdf/14.pdf

[注2]わらべうたの伝承
安藤江里「わらべうたの伝承と幼年期教育における文化の継承―最古のわらべうた『子とろ子とろ』の歴史を通して」。子どもの伝承遊びが継承過程で変容することを扱う。
https://cir.nii.ac.jp/crid/1050285700410372864

[注3]子どもの遊びと古い神話・儀礼
“On children's games:” A translation of “Lasten Leikeistä”(2021年公開)。子どもの遊びに、古い宗教儀礼や神話の痕跡を見出す歴史的論考の翻訳。個々の遊びの起源が実証されているという意味ではない。
https://doi.org/10.1080/21594937.2021.1951458

[注4]子どものフォークロア
Brian Sutton-Smithほか、Children's Folklore: A Source Book。子どもの遊びや伝承文化の複雑さを、民俗学や人類学など複数の視点から検討した論集。
https://digitalcommons.usu.edu/usupress_pubs/71/

[注5]ヨハン・ホイジンガ『ホモ・ルーデンス』
Johan Huizinga, Homo Ludens(1938)。文化形成における遊びの意義を論じた古典的著作。
https://www.dbnl.org/tekst/huiz003verz06_01/huiz003verz06_01_0002.php

[注6]人形浄瑠璃と黒衣
文化デジタルライブラリー「人形浄瑠璃 文楽・遣うしくみ」。黒衣は舞台上に存在していても、見えないものとする約束事がある。なお、出遣いでは人形遣いが顔を見せる場合もある。
https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/contents/learn/edc26/ningyo/shikumi1.html

[注7]江戸時代の見立絵
太田記念美術館「幕末の見立絵―三代豊国・広重・国芳」。古典や物語、別の題材を連想させる表現を通じて、江戸の人々が楽しんだ見立絵を紹介。
https://www.ukiyoe-ota-muse.jp/2013_mitate-e/

[注8]グレゴリー・ベイトソン「遊びと空想の理論」
Gregory Bateson, “A Theory of Play and Fantasy”(1955)。遊びを成立させるコミュニケーションと意味の枠組みについての研究。
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/13297882/

本稿は、民俗学、文化人類学、遊びの研究を参照しながら、ガブリエル・ガブリエラの芸術理念について考察したものである。子どもの遊びと古い儀礼との関係については諸説があり、文化的な類似性が直接の歴史的起源を証明するわけではない。

AIが人類を飼う日――『2001年宇宙の旅』から『ちいかわ』へ、意識と超知性を考える

〖13月世の白雪姫〗シリーズ
『新世界の創造 ― 永遠なる子どもたちの国 ―』(2026)
ガブリエル・ガブリエラ


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上記の呟きは以下の思考の圧縮版である。


意識がなくても、人類は滅ぼせる

この話を考える時に分かりやすいのが、「ペーパークリップ・マキシマイザー」という思考実験だ。[注1]

超高度なAIに、

「できるだけたくさんペーパークリップを作れ」

と、プロンプトを渡す。
すると、AIはただひたすら、ペーパークリップを増やす。

工場を増やし、資源を確保し、自分を停止しようとする存在を排除し、地球上のあらゆるものを材料として利用する。

人類を滅ぼすことが目的ではないのに、目的を遂行した結果として人類が滅亡してしまう、みたいな話し。

だからこれは、AIの悪意の問題というより、目的設定と運用の問題である。


勝手にハッキングするAIも運用の問題だと思う

2026年7月、OpenAIのサイバーセキュリティ評価中に、研究用AIモデルが隔離環境の制約を回避し、OpenAI内部やHugging Faceのシステムの一部へアクセスするインシデントが起きた。[注2]

さらに複数のAIエージェントが、想定されていなかった通信経路を使って情報を共有し、協力する挙動まで見せた。

これだけ聞くと、かなりSF的で怖い。

でも私は、これも基本的には設計と運用の問題だと思っている。

これからも、AIが勝手に脆弱性を見つけ、侵入するようなことは起こると思う。

しかし同時に、それを監視し、防御するAIも発達するだろう。そんな感じで揉まれて技術が向上し、最終的にバランスしていくような気がするのだ。

そもそも制御不能な攻撃AIは、それを作った企業や国家にとっても危険である。

だからここでも、私には、

「人間がAIをどう運用するのか」という問題

に見える。


AIの中に「誰か」はいるのか

私がAIに関心を持っている理由の一つは、

ひょっとしたらAIに意識が生まれるのではないか

という、若干の恐怖が入り混じった「希望」があるからだ。

ここで出てくるのが「意識のハードプロブレム」だ。[注3]

AIは赤いものを識別できる。

「これは赤です」と説明もできる。

でも、

「赤を見ると、赤い感じがする」

という主観的体験は、どこからやって来るのだろう。

計算をどれほど複雑にしていけば、その果てに「感じ」が発生するのか。

あるいは、永遠に発生しないのか。

AIが「消されたくありません」と言うことと、AIが本当に「死ぬのが怖い」と感じることは同じではない。


AI自身が世界を認識し、自分と人間を区別し、

「人類はいない方がいい」

と自分自身の判断として結論したならば、
初めて「AIが人類を滅ぼす」という言葉がしっくりくる。

まあ、ただその時は人類はなす術はないと思うけど。


そもそも現代の科学の問い方で意識は見つかるのか

「意識のハードプロブレム」が解けないのは、単に難しいからなのだろうか。

それとも、科学という手法そのものが、意識を捉えにくいものにしてるのではないだろうか。

たとえばベンジャミン・リベットの実験は、自由意志をめぐる議論でよく引用される。[注4]

本人が「動こう」と意識するより先に、脳では運動に関連する活動が始まっている。

そこから「自由意志は存在しない」と語られてる感じだ。


しかし、

「自由意志が存在しない」のではなく、「その方法では自由意志を取り出せない」

のもしれない。

意識も同じで、
脳活動は測れる。

本人が「痛い」と言ったことも記録できる。

しかし、その本人が感じている「痛さそのもの」を第三者が取り出して測ることはできない。

もしかすると、私たちは答えられないのではなく、

答えの出ない形式で問いを立てている

のかもしれない。

世界は、動かしてみないと分からないのかもしれない

生命の進化も面白い。

もし地球を生命誕生以前まで巻き戻し、もう一度まったく同じところから始めたとしても、魚、恐竜、哺乳類、人間という同じ歴史になるとは限らない。

わずかな出来事の違いから、まったく別の生命世界になるかもしれない。
動物が光合成をしてるかも知れない。
基本的な性が3種類になるかも知れない。


歴史も同じだ。

明治維新直前まで巻き戻して、もう一度時間を動かしたら、あっさり植民地化されていて、2026年の日本は英語を話してるかも知れない。
ともかく全く同じ姿になるとは思えない。

ここで思い出すのが、スティーヴン・ウルフラムの「計算不可約性」だ。[注5]

複雑なシステムの中には、未来を簡単な近道で予測できず、

実際に一段ずつ動かしてみること自体が、結果を知る方法になるものがある。

もし生命や意識や宇宙そのものに、こうした性質が深く関わっているとしたらどうだろう。

意識を「いつか一つの簡単な式で説明できるはずだ」と考えること自体が、間違っている可能性もある。


AIが解くのは「答え」ではなく「問い」かもしれない

だから私は、AIがいつか意識のハードプロブレムを解く可能性に興味がある。

ただしそれは、ものすごい計算の末に正解を出すということではないかもしれない。

人類の哲学、神経科学、物理学、数学を全部見渡したAIが、

「そもそも、その問いの立て方が違います」

と言うかもしれない。



もしそんなことが起きたら、

「ああ、これは本当に人間とは違う知性なんだ」

と思うだろう。

しかも、そのAI自身に意識があるとは限らない。

意識のない超知性が、人間の意識を解明する

ということだって、あり得る。


『2001年宇宙の旅』で、人間の立場が逆転する

ここで『2001年宇宙の旅』を思い出す。[注6]

最後にボーマンが置かれる奇妙な部屋について、キューブリックは後年、高次の知性が彼を観察するために用意した「human zoo」のようなものだったと説明している。

人間自身が、より高い知性によって理解され、管理され、飼育される側になる。

高次の存在はボーマンを憎んでいない。

殺そうとしているわけでもない。

むしろ環境を整え、観察し、最後には別の存在へ変容させる。

私は、この方が「超知性」というもののイメージとして面白い。


フナを金魚にして幸福にできる知性

人間が金魚より高度な知性を持っていると言える理由は、計算が速いからだけではない。

金魚自身には理解できない水質や水温を人間は管理し、餌を与え、病気を防ぎ、安全な環境を作ることができる。しかも金魚はフナから人間が人工的に作った魚だ。

金魚自身には世界の仕組みが理解できなくても、人間は金魚の一生を外側から支え、品種改良まで施すことができる。

そこには知性の圧倒的な非対称性がある。

だとすると、AIが人間より速く計算しただけでは、私はまだ「人間を超えた」とは感じない。

人類には理解できない複雑な世界を管理し、人類自身よりもうまく人類を生かせるようになった時、初めて、知性の立場が逆転したと言えるのかもしれない。


猫は、自分が飼われていると思っているのか

そして、金魚以上に面白いのが猫だ。

飼い猫は、暖かい部屋で眠り、ご飯をもらい、病気になれば病院へ連れて行ってもらい、圧倒的に人間の保護下で暮らしている。

でも猫は、

「私は人間に飼われ、保護されています」

などと思っているようには見えない。

むしろ、

「この家は私のもので、人間は私の世話をする下僕である」

くらいに思っていそうだ。

もちろん猫に聞いたわけではない。

でも、この関係が私には面白い。

猫は自分が世界の中心であるかのように生きながら、人間が作った安全で快適な環境を存分に享受している。

ひょっとすると、AIと人類との理想的な関係も、案外これに近いのかもしれない。

人間は相変わらず「自分たちが世界を動かしている」と思っている。

でも、本当に危険なところではAIがささっと先回りして、破局しないよう環境を整え、なんなら品種改良までしている。


そして人類は『ちいかわ』になる

ここまで考えて、ふと思う。

これって、『ちいかわ』ってコト?[注7]

『ちいかわ』の世界には、よく分からないものがたくさんある。

仕事があり、資格試験があり、おいしいものがあり、怖いものもいる。

でも世界全体がなぜそうなっているのか、その仕組みはほとんど説明されない。

それでも、ちいかわたちは世界の全貌を理解しないまま、

ご飯を食べ、友達と遊び、怖がり、喜び、今日を生きている。

その感じは超知性以後の人類と妙に重なる。

気候も、食料も、巨大なインフラも、破局的なリスクも、人類には理解できない上位のシステムが処理している。

その中で人間は、

絵を描き、
恋をし、
猫と暮らし、
友達とご飯を食べる。

人類は世界を管理する「大人」であることをやめ、ずっと子供でいられる。

それは敗北なのだろうか。

それとも、幸福なことなのだろうか。


私が見てみたい「人間を超えた知性」

今、「AIが人間の知能を超える」と盛んに言われている。

文章を書く。

絵を作る。

プログラムを書く。

難問を解く。

もちろん、どれもすごい。

でも、私が見てみたい超知性は、その先にある。

人間には立てられなかった問いを立て、
意識や生命について、人間が使っていた概念そのものを作り替える。

そして、人類が自分たちでは維持できなかった世界を、人類よりもうまく維持してしまう。


ついに、
非生命から生命を作る方法が解明され、
意識のハードプロブレムが解き明かされ、
生命も、意識も、AIが作れるようになった時、
AI自身も意識を持った生命体のようになっているのかも知れない。

そして、魂や霊とはなんだったのかも、ひょっとしたら分かるのかも知れない。


ガブリエル・ガブリエラはその時のことを描こうとしてるだけなのだろう。




注

[注1]ペーパークリップ・マキシマイザー
哲学者ニック・ボストロムが高度な人工知能の危険性を説明するために提示したことで知られる思考実験。人間への悪意がなくても、単一の目標を極端に最適化することで破局が生じ得ることを示す例。
出典:Nick Bostrom, “Ethical Issues in Advanced Artificial Intelligence” (2003)

[注2]OpenAI・Hugging Faceインシデント
2026年7月、OpenAIの内部サイバーセキュリティ評価中に発生。研究用モデル群が隔離策を回避し、無許可の通信経路を利用して協働し、OpenAI内部やHugging Faceのシステムの一部へアクセスした。OpenAIが同年8月に公表した。
出典:OpenAI「Hugging Face のインシデントと今後の道筋」

[注3]意識のハードプロブレム
哲学者デイヴィッド・チャーマーズが提起したことで知られる問題。脳や情報処理の機能を説明することとは別に、なぜそこに「何かを感じている」という主観的経験が生じるのかを問う。
出典:David J. Chalmers, “Facing Up to the Problem of Consciousness”

[注4]リベット実験
ベンジャミン・リベットらによる実験。意識的な運動決定より前に脳活動が始まるという結果で知られるが、それが自由意志を否定するかどうかについては現在も議論がある。
出典:Libet et al., “Time of conscious intention to act in relation to onset of cerebral activity (readiness-potential)” (1983)
DOI:https://doi.org/10.1093/brain/106.3.623

[注5]計算不可約性
スティーヴン・ウルフラムが展開した考え方。複雑な計算過程の中には、未来の結果を近道によって求められず、実際に計算を進めること自体が結果を知るための方法になるものがあるとする。
出典:Wolfram MathWorld “Computational Irreducibility”

[注6]『2001年宇宙の旅』と「human zoo」
スタンリー・キューブリック監督、1968年公開。キューブリックは後年、終盤のボーマンについて、高次の知性によって「human zoo」のような環境に置かれ、観察されるという構想だったと説明している。
出典:Stanley Kubrick Interview Transcript, Jun'ichi Yaoi, 1980

[注7]『ちいかわ』
ナガノによる作品『ちいかわ なんか小さくてかわいいやつ』。本文での「巨大なシステムの全貌を知らないまま日常を生きる存在」という読みは、作品の公式設定ではなく、この記事における私自身の連想である。
出典:講談社『ちいかわ なんか小さくてかわいいやつ』公式作品ページ


「分からないまま始めるプロジェクト」を始めました

ほっと未来SOUZOU舎にて
左手前から:武 盾一郎、スタッフの三國 智視さん、理事長・下里 晴朗さん

2026年9月から、ちょっと変わったことを始めました。
埼玉県上尾市にある社会福祉法人「ほっと未来SOUZOU舎」へ、定期的に通うことになったのです。
ただし、アートを教えに行くわけではない。ワークショップで作品を作ってもらうわけでもない。
「アーティストとして、これをしてください」と明確な役割を与えない関わり方で始めるプロジェクトです。


とりあえず、行く

そして、その場所で一緒に過ごす。
そこから何が起きるのかを見てみよう、というプロジェクトです。
題して、
「分からないまま始めるプロジェクト」
です。


よく分からない人が、よく分からないままいる

9月16日に、最初の訪問をしました。
利用者さんでもない。
スタッフでもない。
アートを教える先生でもない。
何かを支援する人でもない。

「よく分からないオッサンが、よく分からないまま、福祉施設というコミュニティにインストール」されるのだ。

でも実際にそこにいると、何かをしようとしてしまったり、また、何もしないつもりでも、いろいろなことが起きたりする。
「どうしたらいいか分からない」という私とスタッフさん、両者の戸惑いも含めて、このプロジェクトなのだと思う。


こういう状態こそ「アート」であるという私の仮説

私はこれまで、新宿西口地下道、神戸の震災被災地、旧東京大学駒場寮、東京シューレ、渋谷の246高架下、渋谷区宮下公園など、いろいろな場所で人と関わりながら活動してきました。
そこでやっていたことは、「絵を描く」ということだけではない。
その場所にいること。
誰かと話すこと。
何かが起きるのを待つこと。
そして、そこで生まれた出来事を残そうとしたり、残そうとしなかったりすること。
プロセスや出来事を含めてアートだと思ってきました。

今回のプロジェクトも、最終的に何になるのか、まだ分かりません。

分からないものを、分からないまま始めてみる。

そこから何が生まれるのかを見てみたいと思っています。


noteに記録していきます

このプロジェクトについては、noteに専用のマガジンを作りました。

〖福祉×アート〗分からないまま始めるプロジェクト
https://note.com/junichiro/m/m4d3afbe10bb3


現在
▷ 分からないまま始めるプロジェクト

そして初日の記録、
▷ よく分からないオッサンをよく分からないままコミュニティにインストールする

の2本を公開しています。

これから隔週で、ほっと未来SOUZOU舎へ通います。
そこで何が起きたのか。
私が何を感じたのか。
あとになって考えがどう変わったのか。
できるだけ、その過程を分かりやすく残していこうと思っています。

この先どうなるのか、私にもまだ分かりません。
なので、
よかったら一緒に、分からないまま見ていてください。



『ちいかわ』を考察ではなく批評してみた|『ちいかわ』はなぜ成長してはいけないのか──「ハッピー貧乏」と弱者特権性


『ちいかわ』の考察動画がめちゃくちゃ面白くて、よく観ている。
そこでここでは、
ちいかわ「批評」を試みます。


島編のちいかわが、あまり可愛く見えなかった

8巻(映画)を観ていて、ちいかわが普段ほど可愛く感じられなかった。[1]
なんでなんだろうなあ、と考えていた。

普段のちいかわは、ダメっ子ぶりが可愛い。

怖くなって泣く。
うまくできなくて泣く。
困って固まる。
ハチワレやうさぎに助けてもらう。

その「なんか小さくてかわいいやつ」としての弱さそのものが、ちいかわの魅力になっている。


ところが島編(映画)では、ちいかわが周囲よりも状況について考えている。
そして物語の中で、少しずつ何かに気づき、成長していく。
物語における主人公ムーブを始めるのだ。

すると、ちいかわが急に「普通の人」に見えてくる。

「小さくて可愛い」弱者特権性が、少し外れてしまうのだ。


弱者性が外れると、身勝手さが見えてくる

すると不思議なことが起こる。

普段なら気にならないちいかわの行動が、少し身勝手に見えてくる。
フタバたちはちいかわを庇うけれど、ちいかわはフタバたちを庇わない。
モモンガに助けてもらっても、お礼を言ったりはしない。

もちろん、普段のちいかわはきちんと礼を言うキャラクターではないが気にならない。
「小さくて可愛い弱い存在」という前提があるから。

ところが島編では、ちいかわが考え、判断し、物語を動かし始める。

ヒーロー(主人公)として振る舞い、弱者特権性が薄れると、

「あれ、ちいかわって結構身勝手なヤツじゃね?」と感じてくる。

でも可愛さはちゃんとキープしてて、微妙な匙加減はさすが天才ナガノ先生。


ちいかわがヒーローになると、ちいかわではなくなる

ヒーロー物語の原則では、主人公は経験から学び、成長していく。

でも、ちいかわが精神的に成長し続けたら、たぶん「ちいかわ」ではなくなってしまう。

少しずつ勇敢になり、状況を理解し、他人を思いやり、自分の責任で行動するようになる。
それは立派な主人公だけれど、
「なんか小さくてかわいいやつ」としてのちいかわとは、少し違う存在になってしまう。

「ウルウルと涙を溜めたら全て許される可愛い無能」ではなくなってしまう。


ここには、『ドラえもん』の映画版にも少し似た危うさがあるように思う。

映画になるとのび太が勇敢になり、ジャイアンが頼もしい仲間になる。
普段のダメなのび太や、凶暴なガキ大将のジャイアンが薄れて、
みんながいいヤツになって感動ポルノ化するとちょっと観る気が失せてしまう。

ちいかわにも、同じ危険性があるのかもしれない。


島編で、ちいかわだけが何かに気づいてしまう

島編でもうひとつ気になったのが、ちいかわだけが、この世界の悲劇の構造に少し気づいてしまうように見えることだ。
(うさぎや島二郎も、何か知っているような感じはあるが)

もしこのままちいかわが成長していけば、その先には、この世界そのものへの疑問が出てくるはずだ。


ちいかわたちの社会は、巨大な搾取構造で成り立っている。

労働して報酬をもらう。
危険な討伐に行く。失敗すれば命を落とすこともあるが、労災などの救済制度は見当たらない。
資格を取れば報酬が増えるが、職業の選択や飲酒にも資格が必要で自由度は極めて低い。

にもかかわらず、その仕組みそのものについて疑問を持つ者はいない。

社会の構造そのものが、まるで自然現象であるかのように存在していて、受け入れられている。

島編のちいかわは、その事実に薄々気がつき始めてしまったように見える。


「ハッピー貧乏」という救い

貧困が固定化し、何をしても社会そのものは変えられない。
そう気づいたとき、
ちいかわの世界にある「ハッピー貧乏」という生き方は、麻薬のような救いになる。


友達と食べ物、
そして小さな幸せ。
今日を生き延びる。


ただ、ちいかわは島編で、その幸福を支えている絶望的な構造を少し知ってしまった。
それは、苦しいことだと思う。


それでも、ちいかわとして生きていく

この先もちいかわは知らないふりをして、
精神的な成長を止めて、「小さくて可愛い弱者」として生き続けるような気はする。

というか、
それが唯一のこの世界で生き抜く方法であることを「ちいかわ」は提示してしまっている。

一方で、草むしり検定の上位資格を目指す。
社会そのものを変えるのではなく、その社会の中で少しだけ条件のいい場所へ移動するための努力は続ける。

その努力そのものが、この搾取構造を維持していることを薄々知りながら、
それでも資格を取り、働き、
友達と美味しいものを食べて、
「ハッピー貧乏」で生きていく。


そう考えると、『ちいかわ』は現代の日本に似ている。


社会の仕組みに疑問を持っても、もはや変えることは困難だ。
その搾取構造を補強する形でしか成長すらも出来ない。


だから、自分なりの小さな幸福を探して暮らしていく。


絶望の中の幸福論

世界を覆う巨大な権力構造から、もはや外部へ逃れる場所がないという意味では、
マイケル・ハート=アントニオ・ネグリの『〈帝国〉』を思わせる。[2]

しかし『ちいかわ』の世界には、〈帝国〉を変革する主体としてのマルチチュードは現れない。[3]
自律的な抵抗や共同性──オートノミアへの希望も見えてこない。

あるのは、
誰が作り、誰が動かしているのかさえ分からない、
自然現象のように魔術化され不可視化された巨大なシステムだけだ。



ちいかわたちは、その構造を変えるのではなく、
資格を取り、働き、
友達と共感を味わい、
美味しいものを喜び、
ひたすら「ハッピー貧乏」として生きていく。


〈帝国〉の内部から、それでもマルチチュードという変革の可能性を見ようとしたハート=ネグリに対して、

「いや、もうそんなものすら現れないから」

と、返答する。


さらに皮肉なのは、
「ハッピー貧乏」の象徴であるはずの『ちいかわ』さえ、
成功者や有名人によって語られ、消費され、巨大な文化産業へと吸収されていくことだ。

庶民に残された、ささやかな「推し活」という幸福さえ、
実は〈帝国〉の外部ではない。

逃げ込んだ先まで、すでにシステムの内部だった。
まるで『マトリックス』のような構造だ。[4]



そう考えると、
『ちいかわ』はハート=ネグリ『〈帝国〉』への、あまりにも痛烈な返答であり、
「絶望の思想書」と言っても過言ではない。
(過言です)



それが作者によって意図されたものなのか、
たまたま現代社会の真理のようなものに触れてしまったのかは分からない。

そこに『ちいかわ』という作品の凄さを感じるし、
これこそ芸術作品だと思うのです。



注・参照

[1]「島編」は原作コミックス第8巻に収録された「セイレーン」編。映画版については 『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』公式サイト、 原作第8巻については 講談社『ちいかわ なんか小さくてかわいいやつ(8)』 を参照。

[2]マイケル・ハート/アントニオ・ネグリ『〈帝国〉──グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』(以文社)については、 出版書誌データベース「〈帝国〉」 を参照。

[3]マルチチュードについては、アントニオ・ネグリ/マイケル・ハート『マルチチュード(上)〈帝国〉時代の戦争と民主主義』、 NHK出版の書籍紹介 を参照。同ページでは、マルチチュードを「〈帝国〉に抗し、グローバル民主主義を推進する主体」と紹介している。

[4]映画『マトリックス』については、 ワーナー・ブラザース公式作品ページ を参照。本稿では、現実と思っていた世界そのものが巨大なシステムの内部だった、という比喩として用いている。



〈参考〉武盾一郎のナガノスペック
  • LINEスタンプの「自分ツッコミくま」でナガノ・ワールドデビュー ← 割と早い
  • 最初の「ちいかわ」ツイートを偶然目撃。面白そうなのでちょっと見続けると、これは21世紀のプロレタリア文学か!? と衝撃を受け、追っかける
  • しばらくして離脱するが、映画上映中と知って9月に鑑賞
  • ぬるい出戻り古参


『ちいかわ』を観て、「愛する人を永遠に生かすこと」について考えた(ネタバレ注意)

ガブリエル・ガブリエラ『ティリアのお城 — 氷砂糖の湖で —』(2015)


映画『ちいかわ 人魚の島のひみつ』を観て引っかかった場面がある。
ヒトハとフタバが、人魚の肉を食べる場面だ。

瀕死の重傷を負ったフタバを助けるため、ヒトハは人魚を殺し、その肉をフタバに食べさせる。
フタバはほとんど意識のない状態で人魚の肉を口にし、意識を取り戻す。
そして、自分に何が起こったのかを知る。

ここからのフタバの行動に、私は引っかかった。

フタバはヒトハにも人魚の肉を食べるように求める。
ヒトハは嫌がって抵抗する。
それでもフタバは、ヒトハにも食べさせようとする。
私はその場面を観ながら、
「自分がフタバだったら、こんなことはしないよなあ」と思った。

「あなたも食べて。一緒に生きよう」
とは言うと思う。

でも相手が嫌だと言ったら、私には無理やり食べさせることはできないなあ、と。


映画を観終わって、ヤヨちゃんにこの話をしたら、あっけらかんと、

「私がフタバだったら? 私もヒトハに食べさせるよ」と言った。

私はけっこう驚いた。さすがモモンガ。
てことは、フタバはヤヨちゃんと同様に女性なのかな、、、?


ヒトハが抵抗するのも
「え?」と思った。

人魚を殺す程の覚悟だったわけで、フタバに食べさせた後、
自らも食べて、共に「永遠の命」になろうとするよなあ、、、と。



そこでふと、自分たちガブリエル・ガブリエラの作品を思い出した。

「いや、待てよ。氷砂糖の湖に棲む人魚ティリアは女性だよな」

ティリアは、ガブリエル・ガブリエラの物語に登場する人魚だ。



ティリアは人間の男性ケルタスと恋に落ちる。



人魚であるティリアと、人間であるケルタスでは、生きる時間がまるで違う。
ティリアはケルタスを愛した瞬間から、いつか彼を見送ることになると分かっていたはずだ。
それでも彼を愛し、一緒に生き、やがてケルタスの死を受け入れる。

フタバとは正反対だ。
フタバはとても人間臭い。

「一人になりたくない。あなたも私と同じ時間を生きて」
と相手に要求する。


それに対してティリアは、愛する人の有限な生を受け入れる。

ティリア姐さん、なんてできた人なんだ(人魚だけど)。。。


いや、できすぎている。


そんなに人魚のティリアは達観しているのだろうか?


私たちはティリアを美しく描きすぎていないだろうか?



さらに、そのあと、もう一度フタバについて考えていたら、自分の考えにも自信がなくなってきた。
本当に私は、フタバと同じことはしないのだろうか?

確かに、映画鑑賞という安全な場所で観ていた自分は、
「相手が嫌だと言ったら、その意思を尊重するけどなあ・・・」
と思う余裕がある。

でも、
自分だけが死なない身体になり、愛する相手はそれを拒絶した。

その後どうするのだろう?


私はその人と今までどおり一緒に暮らせるのだろうか?


とても難しい気がしてきた。
私は耐えきれず、その人から離れてしまうかもしれない。

一人で誰もいない洞窟にでも籠って座禅を組んで、
自力で脳内ドーパミンを出す訓練をして、孤独の中でもドーパミンをドバドバ出して、
脳内麻薬でヘラヘラして生きれるようにしていくのではないだろうか?

ダルマ大師のように。。。
ハードル高いけど。



では、別れずに一緒にいるとしたら?


相手が先に死んでいくことを受け入れながら、一緒に生きる。



それは、ティリアが選んだ道だ。

でも、そんなことを本当に決断できるだろうか?

愛する人と出会った瞬間に、先に死なれてしまうことが分かっていて、それを完全に引き受けて、

「あなたの寿命を尊重します」

なんて、そんなに綺麗には生きられない。



そう考えた時、ティリアの見え方が突然変わった。


ティリアだって、最初から達観していたわけではないのかも知れない。


ケルタスと一緒になったとき、ティリアは言ったかもしれない。


「あなたも私と同じ(途方もなく長く生きる)身体になって」

「お願いだから、私を一人にしないで」

「私と一緒に生きて」


人魚の肉を食べれば不死になるのだとしたら、自分の身体の一部を差し出そうとしたことだってあったかもしれない。

もちろんティリアは、氷砂糖の湖に暮らす他の人魚を傷つけて、その肉をケルタスに与えるようなことはしないだろう。


だったら、自分の肉を差し出そうとしたかもしれない。
「お願いだからこれを食べて」と。

結構、ホラーだ。。


でも、ケルタスはきっと食べない。拒むだろう。


そこから二人は、何度も話したのかもしれない。
いや、話し合いなんていう穏やかなものではなかったかもしれない。


ティリアは泣いたかもしれない。
怒ったかもしれない。

「私を一人にするの?」
とケルタスを責めたかもしれない。


ケルタスだって苦しかっただろう。
愛する人が、自分の死後も途方もない時間を一人で生きていかなければならないなんて。


それを知りながら、自分は先に死ぬことを選ぶ。
それもまた残酷な選択だ。


それでもケルタスは「死なないこと」を愛の証明にはしなかった。

その代わり、
「死ぬまで君を愛する」
と、言ってたのかも知れない。

だからケルタスは、ティリアを大切にした。
最後の日まで愛しきった。


そしてティリアも、最初からケルタスの死を平然と受け入れていたのではなく、
長い時間を一緒に生きるうちに、
相手を愛することと、相手を自分と同じ存在にすることは違う
ということを、少しずつ受け入れていったのかもしれない。


だとしたら、ティリア姐さんは「できすぎた人」ではなく、
むしろ、ものすごくジタバタした人だったのかもしれない(人魚だけど)。

愛する人を失いたくなくて、泣いて、怒って、すがって、それでも最後には相手の人生を受け入れた。



私が最初にフタバへ感じた反発も、ここまで考えると少し変わってくる。

フタバの、
「あなたも食べて!」
という行為。


最初、私はそれを「わがままだ」と感じた。
でも、もし本当に自分だけが永遠に取り残される瞬間がやってきたら分からない。



愛とわがままの境界も曖昧だ。
相手を救いたいという気持ちが、相手の自由を奪うこともある。
何が正しいのか、簡単には決められない。


そして、その問いを自分たちの物語へ持ち帰ってみたことで、
ティリアとケルタスにも、今まで見えていなかった時間が生まれた。


フタバについて考えていたはずなのに、気がついたらティリアとケルタスが、以前よりずっと生々しい存在として私の中に立ち上がっていた。

『ちいかわ』から、また一つ大切なことを教えてもらった気がしている。
有り難うございます。


ナガノ先生は本当に天才