戦争時代のあとに、子どもは何に憧れるのか

ガブリエル・ガブリエラ『新世界の創造』

『子どものための美しい国』ヤヌシュ・コルチャック


ヤヌシュ・コルチャックの『子どものための美しい国』を読んで、私はとても驚いた。

もちろん、素晴らしい児童文学である。
けれど同時に、現代日本の感覚から見ると、かなり遠い空気がそこにある。

少年たちが、軍隊に憧れている。
戦争に、勇気や名誉や尊敬の気配を感じている。
子どもらしい機転を使って軍隊に紛れ込み、兵士となって戦う場面が、かなり長く続く。

そこには、戦争が「恐ろしいもの」であると同時に、少年たちにとって「憧れの対象」でもあった時代の空気がある。

これは、コルチャックの作品だけの話ではない。

日本の古い漫画や児童文化の中にも、男児たちがごく自然に「兵隊さん」に憧れ、「戦争ごっこ」をして遊んでいる場面がある。

現代の日本では、その感覚はかなり薄れているように見える。

子どもの憧れには、その社会が何を美しいものとして語り、何を勇敢なものとして讃え、何を尊いものとして教えているかが、色濃く反映されている。

では、戦争への憧れは、人類の本能なのだろうか?

私は、そう単純には言えないと思っている。


「戦争時代」


現在の人類であるホモ・サピエンスは、およそ30万年前にアフリカで進化したと考えられている。[1]
一方で、農業が始まったのは、およそ1万1,700年前、最後の氷期が終わるころからだとされる。[2]

つまり、私たちの身体や脳や感情の基本構造は、農業以前の長い狩猟採集時代の中で形成された。
そこから見ると、農業、定住、土地所有、余剰、格差、国家、そして制度化された戦争は、人類史の中ではかなり新しい出来事である。

もちろん、暴力や集団間の衝突そのものは、農業以前にもあっただろう。
たとえば、ナイル渓谷のジェベル・サハバ遺跡では、後期旧石器時代末の集団間暴力の痕跡が確認されている。[3]

しかし、戦争が国家の事業となり、兵士が名誉ある存在となり、子どもたちがそこに憧れるようになるには、農業以後の社会構造が大きく関わっているのではないか。

農業は、自然を変える。
土地を囲い、食料を蓄え、富を生み、所有を生む。
所有が生まれれば、それを守る必要が生まれる。
余剰が生まれれば、それを奪う者も現れる。
やがて、資源や土地をめぐる争いは、共同体や国家の計画として組織化されていく。

人類史をざっくり30万年とすると、農業の始まりを約1万2,000年前とした場合、それは全体の最後の4パーセントほどにあたる。
1日24時間に換算して、人類が午前0時に現れたとするならば、農業が始まるのは夜の11時2分ごろなのだ。

定住、所有、余剰、格差、国家、そして制度化された戦争は、人類史という一日の、ほとんど終わり際に現れた出来事なのだ。

これを「戦争時代」と仮に呼ぶとすると、戦争時代は、人類史の中ではごく最近の流行に過ぎないのかもしれない。


「戦争反対」だけを切り離せるのか?

しかし、戦争に反対するとき、戦争だけを単独で切り離して否定できるのか、という問題がある。

戦争は、社会悪として外側から突然やってきた異物ではないのかもしれない。
農業によって生まれた定住、所有、余剰、格差、資源管理、共同体の境界。
その内側から、制度としての戦争が生まれてきた可能性がある。

これは、オキシトシンの話に少し似ている。

オキシトシンは、しばしば「愛情ホルモン」と呼ばれる。
人と人との信頼や親密さ、結びつきに関わるものとして語られる。

けれど、それは単純に「すべての人に優しくなる物質」ではない。
研究では、オキシトシンが内集団へのひいきを強め、程度は弱いながら外集団への否定的反応にも関わることが示されている。[4]

つまり、愛着と排除は、まったく別々のものではない。
「私たち」を強く結ぶ力が、同時に「私たちではない者」を遠ざける力にもなりうる。

農業と戦争の関係にも、似た構造があるのではないか。

農業は、人類に安定した食料と定住をもたらした。
けれど同時に、土地、所有、余剰、格差、資源の奪い合いも生んだ。
その中で戦争は、農業以後の社会システムの内側から生まれてきたものだと私は考えている。


神話に登場する戦争の神々

古代ギリシャ神話を見ても、戦争は神々の領域に深く置かれている。

アレスは戦争の神であり、戦闘そのものの荒々しさ、血気、破壊性を象徴している。ブリタニカも、アレスを「戦争の神」あるいは「戦闘の精神」と説明している。[5]

しかし、戦争に関わる神はアレスだけではない。

アテナもまた、知恵や工芸の女神であると同時に、戦争の女神でもある。アレスが血なまぐさい戦闘を象徴するのに対し、アテナは戦略、技術、都市防衛、正義に関わる戦争を担っている。[6]

さらに、エニュオという戦争の女神もいる。エニュオはアレスに近い存在で、戦争そのものを擬人化した女神として語られている。[7]

勝利の女神ニケも忘れてはならない。
ニケは古代ギリシャ宗教における勝利の女神であり、勝利そのものが神格化されている。[8]

つまり、戦争は男神だけのものではなかった。
女神もまた、戦争、勝利、都市防衛、破壊、戦略の神話に深く関わっていた。

これは、古代ギリシャが単純に戦争を美化していたという話ではない。
アレスには忌まわしい戦闘の側面があり、アテナには秩序や知恵の側面がある。

それでも、戦争が神々の世界に組み込まれ、勝利が女神として讃えられ、戦うことが神話の中心的な出来事として語られていたことは確かだ。

そこには、戦争が人間社会にとってどれほど大きな意味を持っていたかが表れている。

そして、その神話は子どもたちの憧れにも入り込む。

子どもは、自分だけで憧れを発明しているわけではない。
社会が繰り返し語るものに憧れる。
社会が美しいとするものを、美しいと感じる。
社会が勇敢だと呼ぶものを、勇敢だと感じる。

だから、ある時代の子どもたちは兵士に憧れた。
戦うことを遊びにした。
勝つことに胸をときめかせた。
敵を倒す物語を、自然なものとして受け取った。


未来の神話


けれど私は、ここにこそ希望もあると思っている。

もし戦争への憧れが、人類の変えられない本能ではなく、ある時代に形成された神話であり、社会構造であり、教育であり、物語なのだとしたら。

私たちは、別の物語をつくることができる。

子どもたちが、
敵を倒す遊びではなく、霧の向こうにいるものと出会う遊びをしている。
勝つことではなく、見知らぬものへの好奇心に胸をときめかせている。
世界の境界を少しだけやわらかくすることに憧れている。
何度でもやり直せる楽しさがある。

そんな神話を描けるかもしれない。

反戦とは、ただ「戦争はいけない」と言うことだけでは足りないのかもしれない。

戦争を生み出している、所有のあり方。
自然との関係。
富の偏り。
共同体の境界。
他者を敵とするパワフルな物語。

そこを見つめ直さなければ、戦争だけを消すことは難しいのではないか。

けれど、それは絶望ではない。

むしろ、アーティストの仕事はそこにあると思っている。

戦争に反対するだけではなく、
戦争よりも深く、戦争よりも美しく、戦争よりも子どもの心を奪う物語を描くこと。

「戦争時代」の神話が、子どもに兵士への憧れを与えてきたのなら、
次の神話は、子どもに何への憧れを与えるのか。

私は、「13月世の物語」の中で、その問いを描きたい。


参考・参照

  1. Smithsonian National Museum of Natural History「Homo sapiens」
    https://humanorigins.si.edu/evidence/human-fossils/species/homo-sapiens
  2. Encyclopaedia Britannica「Origins of agriculture」
    https://www.britannica.com/topic/agriculture/How-agriculture-and-domestication-began
  3. CNRS「Jebel Sahaba: A succession of violence rather than a prehistoric war」
    https://www.cnrs.fr/sites/default/files/press_info/2021-05/PR_CNRS_PrehistoricViolenceJebelSahaba_web.pdf
  4. De Dreu, C. K. W. et al.「Oxytocin promotes human ethnocentrism」PNAS, 2011
    https://www.pnas.org/doi/full/10.1073/pnas.1015316108
  5. Encyclopaedia Britannica「Ares」
    https://www.britannica.com/topic/Ares-Greek-mythology
  6. Encyclopaedia Britannica「Athena」
    https://www.britannica.com/topic/Athena-Greek-mythology
  7. Theoi Greek Mythology「Enyo」
    https://www.theoi.com/Daimon/Enyo.html
  8. Encyclopaedia Britannica「Nike」
    https://www.britannica.com/topic/Nike-Greek-goddess
  9. 晶文社『子どものための美しい国』
    https://www.shobunsha.co.jp/?p=2406

武 盾一郎とガブリエル・ガブリエラのホームページ



現在、武 盾一郎ガブリエル・ガブリエラ のホームページを公開しながら制作しています。

ちょっと前に 十三月世大使館 ホームページ を作って運用し始めました。

ホームページ制作の前に、
〈 三種の指輪 〉特設サイト と、 13月世の白雪姫WEB版 をChatGPTで作りました。
思ったより思い通りのページが作れて、やっとAIが役に立ったと思ったのです。

ホームページの制作では、Codex と Claude Code を使いました。
これで本当に思い通りのWEBサイトが作れるんだなあと実感しました。


独自ドメインとレンタルサーバーを契約したまま、何年も放置しておりましたが、やっと活用できた感じです。

私は、

- 線譜を描く画家
- 『ネズミに恋したネコのタムちゃん』を描く作家
- Gabriel.Gabriela の代表
- 十三月世大使館 店主

という複数の活動をしていますが、それらが混在していました。

今回のホームページで、それらが可視化できたので自分でも整理できました。


他に気に入っているところは、トップページの略歴年表です。

ストリートでのペインティング、
スクウォット(不法占拠)空間での活動、
線譜シリーズ、
ガブリエル・ガブリエラ、
十三月世大使館へと、

活動の流れが視覚的に見えるように整理しました。

また、 ガブリエル・ガブリエラ ホームページと、
十三月世大使館 ホームページの最新記事が自動表示される仕組みも組み込んでいます。


ホームページ制作は、デザイン以前に、

「私は何をしている人なのか?」
「何のためのホームページなのか?」

を整理することが重要なのだと思いました。


現在も制作途中ですが、少しずつ育っていく過程そのものも含めて、公開していこうと思っています。

ホームページ制作や、世界観整理を含めたご相談も承っております𓃠


装飾は、本質がこの世に現れるための作法である

装飾とは
「飾る」ということですが、それは同時に「隠す」意味も含みますし、装飾は表出させることでもあります。

artscapeによると以下です。
飾ること。美しく装うこと、またその装いや飾り。ornamentはある造形物をより魅力的に見せるdecorationのための付加物であり、それ自体は機能をもたずとも視覚を通じて美的な快感情を引き起こす。古来、装飾は工芸的価値をもってきたが、モダニズムのデザインが機能主義やシンプルさを至上価値とすることで、装飾は否定的に扱われるようになる。例えばO・ワーグナーは機能主義の見地から「芸術は必要にのみ従う」と主張し、A・ロースは手工業的なウィーン分離派、ウィーン工房に反対する立場から論文「装飾と犯罪」(1908)の中で装飾の不純性、不道徳性を批判した。また、ル・コルビュジエは『今日の装飾芸術』(1925)において近代における装飾の欺瞞を指摘し、装飾を廃した工業製品の合理性を礼賛した。日本の近代建築においては佐野利器が反装飾を貫き、合理性、機能性を主張することで芸術的、思想的要素の排除に向かった。とはいえ装飾は地域により偏差をもちながら様式化する。反装飾をもっぱらとした近代の造形物もまた趣味判断を免れえず、そもそも造形物というものは物質と形態をもたざるをえないことから、近代建築もまた装飾に代わる趣味的な価値を必要とするだろう。

なので、「装飾って好き?」 って問われた場合、

「そうねえ、ボクが知りたいのは本質とか真実だから、装飾には興味ないかなあ」

と答えた方が、深そうではある。
デザインやアートに造詣が深ければなおさら。



さて、ここからが本題で、
でも、本当にそうだろうか。

本質や真実は、裸のままそこに置かれているものなのだろうか。

むしろ本質は、
何かに包まれ、隠され、守られながら、
ようやくこちらに姿を現すものなのではないか。

たとえば、花。
花びらは、植物にとって装飾のように見える。
けれど花びらは、ただの飾りではない。
虫を呼び、命をつなぎ、植物の存在の目的そのものに関わっている。

たとえば、衣服。
衣服は身体を飾るものだけれど、
同時に身体を隠し、守り、
その人がどう世界と関わりたいのかを表している。

たとえば、言葉。
言葉もまた、心そのものではない。
心にまとわせる衣のようなものだ。
けれど私たちは、その衣を通してしか、
相手の心に触れることができない。

そう考えると、装飾は本質の外側にある余計なものではない。

装飾は、本質がこの世に現れるための形式である。

飾る。
隠す。
表出する。

この三つは、別々のことではなく、
ひとつの働きなのだと思う。

たぶん、本質は無形なので、そのままではこの世に現れにくいのだろう。
それは、プラトンのいう「イデア」に近いものなのかもしれない。

また、
本当に大切なものは、
むき出しにされると壊れてしまうことがある。
だから隠される。
けれど、完全に隠れてしまえば誰にも届かない。
だから飾られる。
そして、その飾りを通して、
奥にあるものがかすかに表出する。

装飾とは、
本質を誤魔化すものではなく、
本質が傷つかずに世界へ出てくるための作法なのかもしれない。

アートも、たぶんそうだ。

絵具、線、色、かたち、物語、額装、展示空間。
それらはすべて装飾のように見える。
けれど、それらがなければ、
作品の奥にある感情や祈りや気配は、
この世に現れることができない。

装飾は、表面でありながら、表面だけではないのだ。

装飾は、深いものが表面に到達するための通路である。


装飾とは、
見えない本質が、
この世に姿を現すための作法なのだと思う。


2020年3月16日に書きかけのブログを更新しました。

「近代の超克」のヒントは「意識のハードプロブレム」にある


「我思う、ゆえに我あり」を近代の幕開けとしたならば、
「近代の超克」という課題のヒントは
「意識のハードプロブレム」にある。


デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は、
疑いようのない「私」を発見した言葉である。

世界を疑うことはできる。
感覚を疑うこともできる。
目の前のものが本当に存在しているのかを疑うこともできる。

けれど、疑っている私がいることだけは疑えない。

この「疑いようのない私」から、
近代は始まったといわれている。

けれど、ここでひとつ大きな問いが残る。

では、その「私がある」という感覚そのものは、
一体何なのだろうか。

私が私である感じ。
世界が私に現れている感じ。
赤を見る感じ。
痛みを痛みとして感じること。
美しいものに触れたとき、胸の奥で何かが震えること。

これらは、たしかにある。

しかし、それがなぜ生じるのかは、
現在の科学でもまだ十分には説明できていない。

脳の働きを調べることはできる。
神経の信号を測ることもできる。
情報処理の流れをモデル化することもできる。

けれど、そこからなぜ「主観的な経験」が生まれるのか。

ここに、意識のハードプロブレムがある。

考えてみると、これはとても不思議なことである。

私は、「近代の超克」という課題のヒントは、
「意識のハードプロブレム」にあるのではないかと思う。

近代を超えるとは、
一人称の経験そのものへ向き合うことなのではないか。

「私が世界を見ている」ということ。
「私に世界が現れている」ということ。
「私が感じている」ということ。

アートは、クオリアを扱う行為である。
線や色が何かの気配を帯びて立ち上がる。

人は作品の前に立ったとき、
何かを感じている。

その「感じ」は、完全には説明できない。
けれど、たしかに起きている。

同じ作品を見ても、
ある人には懐かしさとして現れ、
ある人には不安として現れ、
ある人には美しさとして現れ、
ある人には祈りのようなものとして現れる。

作品は他者の意識の中で、
別の現れ方を始める。

これもアートの面白さである。

「我思う、ゆえに我あり」から始まった近代は、
考える私を発見した。

アートは、
「感じる私の不思議さ」を扱っている。

その意味で、アートは、
「意識のハードプロブレム」の実践でもある。

なぜ感じるのかは分からない。
けれど、感じている。

この「分からないが、たしかに起きている」という場所に、
創作の根がある。

近代が「考える私」を発見したのだとすれば、
その「考える私」を感じているもの、
つまり「クオリア」の不可思議さの中にこそ、
「意識のハードプロブレム」と、
「アート」と、
「近代の超克」が交差する地点があるのかもしれない。



2022年8月22日に書きかけだったブログ記事を更新

・我思う、ゆえに我あり/ルネ・デカルト(1596~1650)
・神は死んだ/フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(1844~1900)
・現象学/エドムント・フッサール(1859~1938)
・受動意識仮説/前野隆司(1962~)
・意識のハードプロブレム/デイヴィッド・チャーマーズ(1966~)
・計算機自然/落合陽一(1987~)


現象学



魔法の世紀/落合陽一



受動意識仮説/前野隆司



私を2つに分ける──内臓系と体壁系


私の身体を大きく2つに分けるとすると、何と何でしょうか。

普通に考えると、
「頭」と「体」
と分けたくなります。

あるいは、
「心」と「身体」
と分けることもできます。

けれども、三木成夫『内臓とこころ』では、身体を
「内臓系」と「体壁系」
に分けて考えています。

「体壁系」は、皮膚、筋肉、骨格、手足、感覚器官のように、外の世界へ向かって働く身体。

見る。
聞く。
触れる。
歩く。
描く。

外界と関わり、行動し、表現する身体です。

一方で「内臓系」は、呼吸、消化、循環、生殖のように、生命そのものを支えている身体です。

自分の意思で動かしているというより、気づかないところで、絶えず働き続けている身体。

この分け方を知ると、意識についての見方が少し変わってきます。

私たちは、意識を「頭の中にあるもの」と考えがちです。

けれども本当は、意識は脳だけで完結しているのではなく、呼吸や心拍、内臓のリズム、皮膚感覚、姿勢、動きなど、身体全体の働きの中から立ち上がっているのではないか。

そんなふうに感じます。

絵を描いているときも、頭だけで描いているわけではありません。

線を引く手。
画面との距離。
息の深さ。
身体の緊張とゆるみ。
胸の奥や腹の底にある、まだ言葉になる前の感覚。

そういうものが、一本の線やひとつの形に現れてくる。

創作とは、頭で考えたイメージを手で再現することではなく、身体の奥にあるリズムが、外の世界へ姿を現すことなのかもしれません。

その意味で、絵は「内臓系」と「体壁系」のあいだに生まれるものだと思います。

内側でうごめいている、まだ名づけられない感覚。
外側へ向かって伸びていく、線や色や形。

その境目で、作品は少しずつ生まれてくる。

意識も、創作も、身体の中に閉じているわけではありません。

身体を通して外の世界と触れ、外の世界に触れられながら、「私」というものが立ち上がっている。

だから私にとって描くことは、単に絵を作ることではなく、私という小宇宙が、この世界と応答するための方法なのだと思います。

過去に書いた文章にも、この問題意識はつながっています。

【羽化の作法 113】現在編 わたしも「意識」について考えた
https://take-junichiro.blogspot.com/2020/09/113.html

脳から身体へ、そして小宇宙へ
https://take-junichiro.blogspot.com/2014/01/blog-post.html

(2023年7月4日に書きかけていたブログを更新)