岡田あーみん藝術論

伝説の漫画家『岡田あーみん』美人すぎワロタwwwwwwwwwww : Shine速報)


あらかじめ謝っておきますが「藝術論」ではありません。タイトルをそう書くと中身がありそうに見えるだろうと思いました。
そして、岡田あーみんにすごく詳しいわけでもありません。ごめんなさい。


だが、岡田あーみんである。上記のサイトを見て衝撃を受けたのだ。「ホントだ美人!!」て。


多分、『お父さんは心配症』くらいしか読んでない。
しかも具体的な内容はほとんど覚えてない(笑)

だけど、物凄くインパクトがあって衝撃を受けた印象だけはよく覚えている。
なんかやたらテンションが高くて、「うわなにこれー…」って読むのをやめようと思いつつ読みふけってしまった感じ。


「これは少女漫画なのか?」
「いや、それどころか、漫画なのか?」みたいな驚きがあったのだ。破壊力と言ったらいいだろうか。


で、漫画の中にたまに本人が登場してたりして、それがほとんど前髪で顔が見えなくて「さもブサイク」そうに描いてあったので最初は女性であることも分からなかった。
まさかこんな80年代のアイドルみたいなルックスだったなんて想像もしていなかった。

と、ルックスの衝撃から岡田あーみんに対する再興味が湧いたのだが、それに拍車をかけてくれたのが上記のサイトになぜか比較として貼ってあるさくらももこの画像である。


若干、悪意を感じる画像チョイスなのだが、、


この2人はどこか因縁めいてる。
どうやらこの2人はプライベートでもなんかあったらしいが、真偽のほどは分からない。けど、どこかそれが岡田あーみんの活動停止に影響を与えてしまった気がしてしまう。


『ちびまる子ちゃん』と『お父さんは心配症』は今から思えば共通点があった。
少女漫画らしからぬ漫画であること、そして作者が天才的に見えたこと。

ただし、岡田あーみんは天才というより変態に近いイメージだったけど。
さくらももこは今も天才の名を欲しいままにしてる。実際に天才であることに異論はないけど。


で、『ちびまる子ちゃん』と『お父さんは心配症』を並べて頭に浮かべて、ハタと思ったのだ。
『ちびまる子ちゃん』ってそこまでぶっ飛んでないよなあ、と。
『サザエさん』や『フクちゃん』とかに見られる家庭コメディ漫画のカテゴリーにスッポリはまっている。
一方、『お父さんは心配症』については、このようなカテゴリーがかつてあっただろうか? 漫画に詳しくないから分からないけど、内容がぶっ飛んでいるのはよく分かるだけど、そもそも設定自体がぶっ飛んでないだろうか?


当時、漫画家同士の間ではひょっとしたらさくらももこよりも岡田あーみんの方が天才に思われていたのではないだろうか?
と、思いを巡らせてちょっと興奮するのだ。


ここから先は単なる憶測なのだ。

さくらももこは岡田あーみんに嫉妬していた気がした。

さくらももこはきっと分かっていたと思う。「私の漫画は実はよくあるギャグ漫画の設定に過ぎない」と。そういう分かり易いフォーマットの中でキラリとセンスを光らせた方が売れるのだ。と。

しかし、『お父さんは心配症』は設定自体が規格外だ。
「岡田あーみん、コイツはヤバイな」と、思ったはずだ。


岡田あーみんに対して「同士」だという気持ちを抱いたのは確かだと思うが、それより強く持ったのが危機感だったかも知れない。


加えて自分より圧倒的に美人である。女性はスタイルの良い美人な同性を見ると「不安」の脳部位が活動すると何かで読んだことがある。


「自分には漫画以外に生きる道がない」そう、強く思うだろう。



などと想像すると、映画『アマデウス』を思い出してしまうのだ。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトに嫉妬するサリエリ。

サリエリだって有能な音楽家でしょ?

でも、モーツァルトのあのどうしようもない才能を目の当たりにして、超えられないと分かってしまった、あの苦しみと悲しみ。悶えるような心の痛み。

そして、サリエリはアマデウスを追い詰めていく。

さくらももこもサリエリのような心境になったかも知れない。
岡田あーみんが漫画を描かなくなってしまえばいい、と。


そして、岡田あーみんのものを奪いたいと思ったかもしれない。(男とか…)


以上が岡田あーみんとさくらももこを並べると、アマデウスとサリエリが思い浮かんだ、という話です。


実際、岡田あーみんは漫画家を引退してしまった。


で、
ここから先が、藝術論的になるのだが、
『お父さんは心配症』のようなカテゴリーを引き継ぐ少女漫画も見当たらない。(知らないだけかも知らないけど)

一方『ちびまる子ちゃん』に見る家庭コメディ系譜は『あたしンち』とか、その後も連綿と続いている。


岡田あーみんは「孤立点」に見える。


ところで、「孤立点」を繋いでいるのが1つの「藝術軸」でもある。
ヘンリー・ダーガーやシュヴァルやアドルフ・ヴェルフリなどだ。


突然、何のラインも継承することなく藝術が現れて、
孤立点のまま没するこれら一連の人たちにこそ「藝術」を見出してしまう人は多いはず。

人間の凄さをや個体への驚愕を感じるとき、そこに藝術はある。


そう考えると、岡田あーみんはアートであると解釈することが出来ないだろうか?

続けていて欲しかったけど、辞めてしまう儚い感じが詩人ランボオのようでこれまたキュンとしてしまう。




ただ、現世をタフに生き抜くには、さくらももこを参考にした方が良さそうである。
僕的にポイントは3つ
・前からあってこれからもあるという強い伝統性がある所に設定を置く
・ちょっとしたポイントで気の利いた表現をする
・長く続くメディアと結びつくこと



儚く美しく生きたいと思いながらも
誰だってそんな貴族でもなく、
俗にまみれながら、(けど、そこに美しさだってある)
タフに暮らしていくしかない





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