「ゴーストライター騒動」と 「ドキュメンタリ映画やらせ騒動」と 「論文捏造騒動」

最近興味をそそられた騒動は、古い順から、
「ゴーストライター騒動」、
「ドキュメンタリ映画やらせ騒動」、
「論文捏造騒動」、
の三本立てである。

これらの主題は、「嘘」である。
「嘘」がマイブームなのだ。



「ゴーストライター騒動」の本質にあるのは、「作品は作品のままでは売れない」ということだ。
「作品」と「作品にまつわる物語り」があって初めて作品は輪郭と魅力を明瞭にさせ、輝き出す。

ギャラリーなんかで作品を観てる時たまたま作者が居て、作品の経緯などを聴いたら、とたんに作品がキラキラと素敵に見えてきた、という体験をしてるアートファンは多いと思う。


けど、作家は時として思う。「作品単体で勝負していたい」と。自分もそういうところ、ある。
けど、「作品で勝負する」と言ってるだけでは売れないのだ。


コラボユニット「佐村河内守」はそういうことを直感していたからこそ、「偽ベートーベン」物語りを捏造し、悲劇を演じたのだろう。
そして実際にヒットした。予想以上にヒットした。

この「ゴーストライター騒動」では作品、交響曲はきちんと存在している。そこがなんとなく救いだ。



次。
「ドキュメンタリ映画やらせ騒動」について。

この事件を知って僕が最初に思ってしまったことは、「ドキュメンタリーとは客観的な事実を追っている」という認識をずっとしてきたんだなあということだ。


「ドキュメンタリーは客観的事実」ではない。


監督(制作者)が証明したい思想信条や目的がまずあるのだ。
その思想信条の正しさを証明するために、または目的達成のために製作されることの方が多い。
それらを成立させる「風景」、「事象」、「証言」を撮って、繋げて行く作品なのだ。


完全に客観的な事実をカメラに収める、なんてことはそもそも起こらない。
なぜなら「フレーム」の存在こそが「作為そのもの」であるからなのだ。

ドキュメンタリーだってそういった意味では「捏造」なのだ。「創作」なのだ。


では、被写体側の問題はどうだろう?
「ドキュメンタリー映画」は被写体が演技しちゃいけないことになっている。
がしかし、人はカメラを向けられて自然体でいられるわけがない。カメラの介入によって表情や行動が変化するのが人間の正常な情動だ。


ここにドキュメンタリーに「やらせ」を生じさせるグレーゾーンがあるような気がしている。

どこかの村に「記録映画作ってます」と言って承諾を得てカメラを回したとする。
村人たちは普段では絶対に着ない昔の綺麗な手作りの服を着て、普段絶対しないお化粧をして、普段絶対に使わない昔の言葉を使って「日常を営む」かも知れない。

「未開の地」とかの映像もその人たちは普段はナイキのジャージを着てるけどカメラが入ると伝統的な服に着替えるのかも知れない。

それを「ドキュメンタリ」と呼んだりしてるのかも知れない。


また、原発に関するドキュメントは「反原発の強い意思」から生まれたものがほとんどな気がする。
原発は絶対辞めるべきものという強い思いから胸打つ作品が生まれるのも確かだけど、そうなると、「ドキュメンタリ」ってなんだろう?


ドキュメント映画は、何かを捏造(創作)していることは確かなのだけど、「捏造してはいけないもの」がある。


一体その線引きはどこなのだろうか?
被写体との距離感、信頼関係、だろうか。


「ドキュメンタリ映画やらせ騒動」は、被災地のラジオ局のドキュメント、のようだ。
ラジオを聴いてない被災者にラジオを聴いてる演技をさせた、らしい。
映画を観てないのでなんとも言えないが。というか、観ないけど。

もし、演技をさせられた被災者が傷ついているのなら、どうしてそんな無理矢理なことをやらせたのだろう?

「感動を与える被災地ドキュメンタリー」が至上命題としてあり、その目的のために、「ラジオを聴いて励まされている被災者」の絵が欲しかったのだろうか。

「感動ありき」で製作がスタートしたのかな?
当事者不在の被災地ドキュメントなのかも。周りが感動する、っていう。


そんなに騒がれない騒動だったけど、どこかが偽ベートーベンより悪質って感じたのも確かだ。
「ドキュメンタリーは客観的な事実ではない」、としても。
広告代理店の存在とか、気になるし。


このやらせドキュメンタリーは作品そのものに小さくて深い傷が付いている、と言える。
そこがゴーストライター騒動と違うところだ。



最後。
「論文捏造騒動」である。


これにはちょっと驚いた。
というか、まず最初はSTAP細胞に驚いた。
そんなことがあるのか!と。
再生医療の未来は明るい!と。
ひょっとして認知症とかに光が差し込むのかな!と。

で、捏造である。ガクっと来た。
難しいことはよく分からないが、「細胞の初期化」は遠い夢なのかな。


そこで思ったのは「科学ってそもそも事実ではない」ということだ。

「スペクタクル映画もドキュメンタリー映画も実は創作である。けど、科学は事実である」的なところがあった。
科学に客観的事実があるという宗教をどこかで信じていたのだ。


論文捏造騒動には背景に何かどす黒いものを感じる。構造の問題。それはきっと、金とか権威とか権力のこととか。。。

偽ベートーベンがあれだけ叩かれたが、なんだか「取るに足らないチープな騒動」に感じられてくる。
論文捏造騒動は相当大きい問題ではないだろうか?
割烹着を着たリケジョ1人を生贄にして終わりになりそうだけど、なんかいやあな感じするなあ。



で、「科学」って一体何だろう?

自論を証明するために都合の良い事象を集めて論文をまとめても「科学」とはならない。
そこがドキュメンタリーと違うところだと思う。

例えば、
「お空は天使」というアートは可能だ。
「お空は天使」というドキュメンタリー映画は可能だろう。
けど、「お空は天使である」という科学はない。

なので、科学にこそ人間の心情やイデオロギーを超えた客観的事実がある。と、思いたい。
今でも僕は宇宙には深遠な法則がある、と思っている。


しかし、科学も共同幻想である、とも思っている。

宮澤賢治の『春と修羅 序』から引用
おそらくこれから二千年もたつたころはそれ相当のちがつた地質学が流用され相当した証拠もまた次次過去から現出しみんなは二千年ぐらゐ前には青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層きらびやかな氷窒素のあたりからすてきな化石を発掘したりあるいは白堊紀砂岩の層面に透明な人類の巨大な足跡を発見するかもしれません
「科学」も時代とともに変わり、時代の風潮に合う学説が支持され、新説が生まれるとその新説が立証されたりするのだろう、と。


科学だけはちょっと特別なもの、というイメージはある。けど、「科学」も「嘘の類い」なのかも知れない。


完全無欠の客観的事実は存在するのだろうか?
本当はこの自分が感ずるこの世界は幻想を共有してるに過ぎないのではないだろうか。


多分、
「嘘とは本質である」


楽しく豊かに暮らしていく「嘘」をどうやってクリエイトして「共有」していくか、ってことなのかな。



宇宙の真理にたどり着きたいと思いつつ、だけど真実は「空」であり「無」であり「虚」であるかもと思いつつ。




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