自由は3つある(それって私の感想です)


自由には3種類あると私は思っている。

  • 外的自由
  • 出力の自由
  • 内的自由
以上の三つの自由を整理してみよう。


■ 目次



1. 外的自由 ― 制約の構造と見えにくい支配

かつての「外的自由」は、王政や宗教、国家による明確な検閲や禁止令、経済的制約など、非常に目に見えやすい制限として存在していました。
しかし現代では、その形がどんどん変わりつつあると感じます。

今や、ポリティカル・コレクトネス(ポリコレ)やSNSのアルゴリズムが、社会の空気や発言を左右しています。
昔は許されたことも今では炎上するようになり
「なんとなく」みんな良い人になってる感じもあって、
それは一見良いことのように感じるのですが、ちょっとした薄気味悪さも感じます。

ネットは自由な空間かと思っていたら
いわゆる「エコーチェンバー」によって
知らない間に似た者だけの狭い言語空間から出られなくなってしまっていることも起こります。

ネット空間だけでなく、都市や街の空間も制約はますます可視化されにくくなり、
一見 “ 自由 ” に見えても、
無意識的に導線を引かれて、
知らない間に消費し、
知らない間にマッチングで出会い、
自由に生きているつもりで
知らない間にAIの出した最適解で生きていくことになるのではないか?
――そんな予感もあります。

外的自由の制約は、不可視化されるが故、ますます「不可避なもの」へと変質していくのかも知れません。



2. 出力の自由 ― 技術と修練、そして道具との対話

「思ったことを思った通りに描く」
「伝えたいことを言語化できる」
――これは一見、天賦の才能に思われがちですが、
実際は技術と修練の積み重ねによるものだと私は考えます。

もちろん、技術革新やAI、便利な道具が次々と生まれる現代において、
「何を使うか」「どの道具が自分に合うか」というマッチングの重要性もますます高まっています。
でも最終的に出力の自由を大きく切り拓くのは、
「表現衝動」と「それを表現できるようになりたい!」
という願望と快感が支える日々の「練習」や「挑戦」の積み重ねです。
才能よりも、どこまで修練できるか。
工夫できるか。
それで表現できる幅の自由度は決まる。

「自由に出力できる技を持つ」これは常に私の指標です。



3. 内的自由 ― 最も私的で、最も自由な領域

最後は、内的自由――つまり「心」や「精神」の自由です。
それは社会やテクノロジー、経済の影響を受け易く感じますし、実際そう言われたりしています。
が、例えば、『夜と霧』のように、誰にでも聖域はあるんですよね。
どこまで自由になれるかは完全に私次第なのです。
というか、そのように考えることにしました。

辛いことや理不尽な目に遭えば内的自由も脅かされます。
しかし、よーく考えてみると、内的には実は自由が保障されているのです。

思い込みや習慣、恐れや不安といった「心のクセ」は確かに厄介ですが、
だからこそ自分自身と向き合い、柔軟性を養うことで、
自分なりの「心の自由」を少しずつ広げていける。

心の自由度は測定不能のクオリアなので、伸びしろは無限大なのである。



4. これからの時代と三つの自由

今も昔も外的自由への制約が最も大きいと私は考えています。
可視化されていた制約がどんどん不可視化されていくだけ。
不可視化されていくので、これから先はなんとなく風通しよく感じていくのかも知れません。
がしかし、不可視化されている不気味さに気が付いてしまう感性の持ち主にとっては
凄まじい閉塞感を味わう世の中になっていくのかも知れません。

「出力の自由」もテクノロジーによって制約が解放されていくので
当然自由度は広がるでしょうが、
自分のクオリアにどれだけフィットしてるかの判断は
結局のところ自分なので、自力の余地が残ります。

最後に、内的自由
これは一見最も不自由です。
なぜなら思考のクセは無意識的なのでなかなか自由にならない。
しかし最も可能性が広く、実はほぼほぼ自分次第なのであり、
最後の砦なのです。

「私は今自由か?」と問われたら、
「外的にはどうか?」
「出力としてはどうか?」
「内的にはどうか?」
と、3つの柱に分けて問うてみるのが良いと思ったのでした。




最後までお読みいただき有り難うございました!

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