仏教には「六塵」という言葉がある。
色・声・香・味・触・法。
私たちはふつう「五感」と言う。
見る、聞く、嗅ぐ、味わう、触れる。
けれど仏教では、そこにもうひとつ「法」が入る。
ここで言う法とは、思考、記憶、概念、意味、イメージ、不安、物語のようなものだと考えてよいと思う。
つまり仏教では、思考もまた、見えるものや聞こえるものと同じく、私たちに現れてくる対象として扱われている。
これが、私はとても気になった。
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| 線譜『エーテルの歌姫』(2018) |
五感と思考を分けてしまった近代
私たちは、五感と思考を分けて考えがちだ。
五感は外の世界を受け取るもの。
思考はそれを判断する内側のもの。
そういう感覚が、かなり深く染みついている。
けれど、よく考えてみると、思考もまた私に「現れている」。
不安が浮かぶ。
記憶がよみがえる。
言葉が生まれる。
意味が立ち上がる。
「私はこういう人間だ」という考えが出てくる。
クオリアという言葉で言えば、見えの質感、音の質感、匂いの質感、味の質感、身体感覚の質感だけでなく、思考や意味や記憶の質感もある。
だから、経験の全体を見ようとするなら、「五」では足りない。
六塵になる。
六根、六境、六識、六塵
仏教では、六根・六境・六識という見方がある。
- 六根とは、眼・耳・鼻・舌・身・意。認識の入口である。
- 六境とは、色・声・香・味・触・法。六根が捉える対象である。
- 六識とは、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識。そこに生じる認識である。
六塵は、この六境を、心を曇らせる対象として見た呼び方だと考えるとわかりやすい。
かなり単純に言えば、
六根が、六境/六塵に触れて、六識が生じる。
ということになる。
たとえば、見ることなら、眼根があり、色境があり、眼識が生じる。
聞くことなら、耳根があり、声境があり、耳識が生じる。
そして、考えることなら、意根があり、法境/法塵があり、意識が生じる。
ここが重要だ。
仏教では、思考は「私そのもの」ではない。
思考は、意に現れる法塵である。
「我思う故に我あり」の盲点
デカルトの「我思う、故に我あり」は、近代哲学の出発点のように語られることが多い。
世界は疑える。
身体も疑える。
感覚も疑える。
けれど、いま疑っている、考えているということだけは疑えない。
だから、考えている私は存在する。
これが大まかな流れだと思う。
もちろん、これはとても強い考え方だ。
「思考が起きている」という事実は、たしかに否定しにくい。
けれど、仏教の六塵や六識の側から見ると、そこにひとつ盲点があるように思う。
それは、
思考があることと、思考している実体的な私があることは、同じではない。
ということだ。
思考は王座ではなく、塵である
近代は、思考を特別扱いしたのかもしれない。
五感は不確かである。
見間違いもある。
錯覚もある。
夢かもしれない。
けれど、思考している私は確かである。
そうして「思考する私」が、世界を眺め、判断し、所有し、意味づける中心になっていった。
しかし仏教は、その思考すらも、対象の側に置く。
思考は、私の王座ではない。
思考もまた、私に現れてくるもののひとつである。
それは、色や音や匂いや味や触覚と同じように、現れては消える。
そして、それに執着すれば、心に塵が積もる。
この見方は、かなり救いでもあると思う。
なぜなら、考えが苦しい時、その考えが「私そのもの」ではない可能性が開かれるからだ。
不安がある。
でも、不安そのものが私ではない。
考えがある。
でも、考えそのものが私ではない。
「私」という考えがある。
でも、その「私」という考えすら、ひとつの法塵なのかもしれない。
制作の中で起きていること
これは、制作の感覚にも近い。
絵を描いている時、私はたしかに「私が描いている」と思っている。
けれど、もっと深く見ると、そこでは別のことが起きている。
線が生じる。
音の記憶が動く。
身体が反応する。
言葉になる前の感覚が現れる。
まだ意味になる前のものが、形になろうとする。
それをあとから「私の作品」と呼んでいる。
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| 線譜『無題(仮)』 |
身体の律動が、思考になる前に線として現れる。
言葉では処理しきれない感情や記憶が、物語として現れてくる。
意識に現れた法塵が、世界として立ち上がる。
そう考えると、制作とは「私が世界を表現」しているのではなく、
私に現れてくるものを、私が少しだけ手伝って、形にしているだけなのかもしれない。
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| ネズミに恋したネコのタムちゃんシリーズ |
「我思う」のあとに
デカルトは、思考の確実性を見つけた。
世界も、身体も、感覚も疑える。
けれど、疑っているということだけは疑えない。
そこから「私」の確実性を取り出した。
それが「近代」の大きな発見だったのだと思う。
けれど、仏教の六塵・六識の側から見るなら、その思考もまた、意に現れた法塵である。
「我思う」の奥に、「我」はいない。
そこにあるのは、意に触れた法塵と、それに応じて生じる意識なのかもしれない。
もしそこから、固定した「私」を出発点にして演繹を始めてしまったら、
いつかどこかで、ボタンの掛け違いのような破綻が現れる。
それは、まるで「現代」そのものではないだろうか?
我思う。
それもまた塵なり。我もまた、塵なり。
一切皆空。
そう考えると、少しだけ楽にならないか。
思考を眺める。
「私」が立ち上がってくる場そのものに気づく。
そしてそこから、絵も、物語も、世界も、もう一度立ち上がってくる。



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