脳から身体へ、そして小宇宙へ

三木成夫の本を二冊読んだ。『内臓とこころ』と『ヒトのからだ』。

ここの数年のなんとなく自分の知りたかったことの流れの到達点のように感じている。


最初は自分のうつ状態をなんとか良くしたかった。そしたらなんとなくネットで池谷裕二が自分的にヒットした。

池谷裕二が指南!やる気が出る「脳」のだまし方』 とか、
脳の気持ちになって考えてみてください』 とか。
2010年10月14日のツイート

この人面白いなあと思って、『海馬』『脳には妙なクセがある』『和解する脳』などを読んだ。


そこで分かったのはまさしく「楽しいから笑う」ではなく「笑うと楽しくなる」脳の仕組みだ。精神状態は身体からアプローチすると良いのだ。


それから、池谷裕二の本でなんとなく気になってたのは「意識より無意識で人は動いている」というようなところだった。
「脳」というと「意識を司る場所」というイメージがあるけど、「意識」というのは飾りのようなものでしかないというのだ。

確かに「意識」で自分は生きてる気になってるけど、ほとんど生の営みを支えているのは「無意識」だ。

自分が無意識に任せてオートマティックに絵を描くのは、「意味」とか「自意識」を超えたい気持ちがあるからだ。

脳科学が意識優位のイメージを打ち崩していく、そんなニュアンスを感じて、自分の制作方法があながち間違ってもいないんだなあと嬉しくなるのだった。


池谷裕二の本に夢中になっているうちになんとなく、前野隆司の『脳はなぜ「心」を作ったのか 「私」の謎を解く受動意識仮説』を知る。読んでみて「これは面白い!」と思った。

「意識」は無意識の結果をまとめた受動的体験をあたかも主体的な体験であるかのように錯覚するシステムだと考えれば、それが進化的に生じることはさほど急激な変化ではない。
(脳はなぜ「心」を作ったのか/前野隆司)

「わたし」とはエピソード記憶を形成するためにあるに過ぎない。
「わたし」とは脳の小人さんたちの判断と行動を眺めてるだけで、あたかも「わたし」がそれを自由意思で決定して身体に命令して行動したように錯覚しているに過ぎない、と、「自由意思」の存在をまるっとあっさり否定してしまったのである。


ところでこの受動意識仮説はとても重大なことを意味する。

「我思う故に我在り」から始まった「近代」の終焉だ。

この「我」の発見を土台として近代は展開した。近代では個、自意識、自由意思に光が当たり、「私」の可能性を追求することが素晴らしいという価値観を形成していく。
今はポスト・モダンの時代ではないか、と思うかもしれないけど、それは近代批判として登場してるので大括りで「近代」の体系だ。
受動意識仮説は「モダン×ポスト・モダン」の次元を超える。


もし受動意識仮説が正解なら自意識も自由意思などないのだから人間の解釈も変わる。そうしたら政治も藝術も経済システムも変わる。
楽観的に想像してみると、縄文時代のような、先史時代へのイメージみたいな世界に戻るのかも知れない。


で、この「受動意識仮説」を自分なりに理解して肯定できたのは池谷裕二の本を読んいたからだと思う。

自分の意識が最も重要なのが人間の世界観ではある。
なので意識が苦しみの多くを占めると思うのだ。意識が他の身体より優秀で重要であるという認識を持つ程、苦しみが大きくなる。

意識は幻想に過ぎない。そう思うと気が楽になる。



そして、三木成夫なのだ。
池谷裕二、前野隆司を経ることによって、僕はようやく三木成夫の思想に出会えたのだ、と思う。


池谷裕二は脳と身体について脳はそんなに優位ではないと解く。
前野隆司は意識は幻だと解く。
「そうだよなあ、僕は身体と無意識で生きてるんだなあ」と思うわけである。


三木成夫はそれら踏まえて次の次元の体系があることを教えてくれる。
脳から身体、それらは体壁系と呼ばれ、動物性器官である。
人体はそれだけではなく、植物性器官である内臓系があり、それらを合わせてヒトのからだは構成されている。

池谷裕二と前野隆司は体壁系の話しのみなのだ。
植物性器官の内臓系があるではないか!と、驚いたのである。
というか、内臓系を植物性器官と呼ぶことにびっくりした。

自分の体内に植物的なるものがあるんだ!

すべての生物は太陽系の諸周期と歩調を合わせて『食と性』の位相を交代させる。動物では、この主役を演ずる内臓諸器官のなかに、宇宙リズムと呼応して波を打つ植物の機能が宿されている。(内臓とこころ/三木成夫)


内臓系は植物器官で「腎管系(排出)」、「血管系(循環)」、「腸管系(吸収)」がある。
体壁系は動物器官で「外皮系(感覚)」、「神経系(伝達)」、「筋肉系(運動)」がある。

内臓系には血管系の循環の要として心臓があり「こころ」のある場所である、と。
体壁系には神経系の伝達の要として脳があり「精神」のある場所である、と。

三木成夫の本を読むと著者は植物性器官である内臓系の方に気持ちを置いているのが分かる。

ところで、線譜には人間の姿は登場せず植物のようなものが多く描かれている。
それは遠い遠い未来、人間が幸福になっている世界では植物の姿になっているだろう。という絶望なんだか希望なんだか分からないイメージがあるからである。

しかし、なぜ自分が植物ばっかり描くようになったのかあんまりよく分かってない。
なにしろ無意識的に描いてるうちにこういう形になってきたので最初にコンセプトはないのである。というか本当はすでに描きたいものが無意識下にあるから意識であんまり汚染させないように無意識的な身体の動きからその世界を形成させたいと思って描いてきたので描き出されたものに関してこれといった理由を上手くは説明できないのである。
なので、いつもどこかで「俺、こんなワケのわかんない絵を描いてるけど、どうなん?」という「意味に帰着できない浮草のような心もとなさ」を抱えていたのである。

そこにきて三木成夫の「植物-宇宙リズムそのもの-内臓-こころ」というラインと、「動物-植物を内蔵する(小宇宙)-身体(感覚-運動)-精神」のラインを読んで、「ああ、僕の描いてることは間違ってはいないんだ」と更に嬉しくなったのである。


三木成夫の本で書かれてることは「三木形態学」と呼ばれてる。ざっくり言うと「原形とメタモルフォーゼ」というものだ。長い年月をかけて生物は原形に基づきながらメタモルフォーゼして行く。

本を読み進めていくと、生物の何億年と渡る形態の変化、植物性器官に動物性器官が介入しながらグニューっと変形していく映像が脳裏に映し出されてきてワクワクどきどきする。

それよりもなによりも、内臓系にこころがある、人(動物)は小宇宙を持っている、など、哲学が面白いのだ。

三木形態学という「学」にカテゴリーされてるけど、「思想」だと僕は思う。

けど、脳の研究者池谷裕二、とロボット工学の研究者前野隆司はこころのある場所が内臓系であるとは言っていない。
池谷裕二も心は心臓にはない、と言っていたような気がする。脳が活動してる「状態」がこころである、と。前野隆司に至っては心は幻である、という解釈である。


三木成夫の思想をベースに池谷裕二の科学と前野隆司の思考法を合わせるといい感じなのかも知れない、と今のところ思っている。
ではそれはどういうことになるのか?となるとあんまり分からないけど。


「ひらめき」も大切だけど、より「直感」を重視して生きていけばなんとかなるかな、と思うのです。



しかし、なぜ三木成夫は内臓にこころがある、と言ったのだろうか、、

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