原発反対と原発推進の対立よりも深い溝

まず僕は原発反対です。
311の原発事故後に、「本当に原発はよくない」ということに気がついた類いですが。

311以前、タイマーズの「サマータイムブルース」は聴いてたし、ブルーハーツの「チェルノブイリ」も聴いていた。
けど原発反対の行動に移すことはなかった。アーティストのスタンスに共感をしたのだった。

なにしろ僕は原発が「核分裂の熱でお湯を沸かしてタービンを回して電気を起こしている」ことすら知らなかった。
原子力発電は量子力学的に電力を作っているだと思っていたのだ。鉄腕アトムやドラえもんのように。

水蒸気でタービンを回して電力作ってるならそれ原子力発電じゃないじゃん!水蒸気発電じゃん!
お湯沸かすんなら石炭でも地熱でもなんでもいいじゃん!

まずこれが現在の原子力発電を肯定できない最大の理由となった。「原子力」という言葉になにか未来の科学の幻想を見ていたのだ。プロパガンダ通りだったのだ。アホだ。
けどこのことが原動力となり原発反対デモに何回か足を運んだ。


やがて東電や政府の本性があからさまになっていく様を見てくうちに「原発は差別だ」と考えるようになった。

そうすると、原発反対運動に違う風景が見えてきた。原発反対と原発推進の対立よりも深い溝が。

同じ原発反対でも、「食うに困らない人たちの原発反対」と「食うに困ってる人たちの原発反対」がいる。
同じ原発推進でも、「食うに困らない人たちの原発推進」と「食うに困ってる人たちの原発推進」がいる。

中流と下流の溝だ。中流はどうにかして正規雇用、定収入、既得権に入って生涯生きていける。しかし下流は生涯食いっぱぐれる不安の中に生きていく。
同じ原発反対でデモを行進しても暮らしていく次元が違う。「見えない壁」が見えてしまったのだ。

原発どうこう以前の問題が巨大に絶望的に横たわっている。
同志だと思っていた人が「超えられない壁の向こう側」だったりするのだ。
それは自分の卑屈が映し出した風景かもしれないが。


なんとなく反原発デモへの思いが断ち切れてしまった。


食いっぱぐれてる自分はまずは稼ぐことからだ。
運動は定収入のある人たちにこそ頑張って欲しい。
そう思うようになった。
貧しい思考かもしれないが、本当にそう思うようになった。




「売春は差別だ」と訴える人に、自分自身が売春婦であったり、売春婦の親友や恋人はいなかったりすることってあるだろう。
「ホームレス排除反対」とデモする人に、自分自身がホームレスであったり、ホームレスの親友や恋人はいなかったりする場合も。
そして、ヘイトスピーチに反対する人に、自分自身がコリアンやチャイニーズであったり、コリアンやチャイニーズの親友や恋人はいなかったりすることも。
このことはとても素晴らしいこと。では、ある。


僕も口では「外国人差別は良くない」と言う。がしかし、もし本当に外国人をまるで差別してないなら、僕に外国人の恋人がいても良さそうなものだ。外国人と結婚してもいいはずだ。
しかし、実際の僕は外国人が恋人だったことがない。
きょうび、外国人と付き合える機会がない、なんてことはない。
てことは、僕は人生において、生き方において、どこか外国人を差別してきたのだ。
そうは認めたくないが僕の生き方がそれを語っているではないか。


例えば、「ホームレスの生き方は素晴らしい」と言う人がいたとする。確かに僕もそう思うところは多々ある。がしかし、もし本当にホームレスの生き方が素晴らしいと思うなら自分がホームレスになってみせるはずだ。それが「思想」というものだ。
僕は今、ホームレスの生き方を選択してない。ということは、「ホームレスの生き方は素晴らしい」と本気では思ってないのだ。


差別を考えていくと、こういった問題にぶち当たる。「嘘問題」と言った方がいいだろうか。
あんまり綺麗事を言いたくなくなるのだ。

だからと言って、自分に売春婦の親友や恋人がいなければ売春婦を差別していいとは決して思わないけど。


この「嘘」の問題は差別だけではない。


新自由主義反対とか、グローバリズム反対とか、もしそう言うなら、本当に新自由主義やグローバリズムにくみしない生き方をしないと嘘になる。これは相当難しい。というか、不可能だ。
新自由主義およびグローバリズムによる圧倒的な搾取にあっている貧乏人ほど新自由主義・グローバリズム的な生き方から逃れられない。安い店でモノを買い、安い賃金で働く。貧乏を楽しく生きるとはまさに新自由主義とグローバリズムを謳歌することに他ならないのだ。哀しいかな。

天皇制反対とか言っておいて、ブランドが好きだったり有名人にすり寄ったりするならば、それは結局「権威大好き」ということなので天皇制反対ではないのだ。

人間は学歴ではない、とか言うならば、「東大卒です」と言われても態度が全く変わらないはずだ。或いは「中卒です」と言われても態度が全く変わらないはずだ。

人間金じゃないよ、とか言うならば、「年収五千万です」と言われても態度が全く変わらないはずだ。或いは「年収2万円です」と言われても態度が全く変わらないはずだ。

原発反対なら生き方で原発に反対であることを証明していくはずだ。自分がやったことは東電にお金を極力払わないように10Aすることだった。
しばらく10A生活を続けたが不便で仕方なかったので20Aにした。
「僕は原発反対です」と言っておきながら結局のところその程度の「原発反対者」であるのが僕の本性だ。原発反対という思想を証明するよりも、生きてく中で優先することがうんと多いのだ。



差別発言を平気でするより、差別反対と言ったほうが絶対いい。
悪いことを平気でするより、正義を振りかざしたほうがそりゃマシだ。


しかし、自分に対する「嘘」を棚上げして放っておいてごまかして生きて行っても結局最後の最後に自分のついてきた嘘と直面することになると思う。


言ってることと、生きてることのズレを少なくしていこうとした方がいい。

まあでも、嘘をつかないようにするって無理だ。
なので自分の嘘を認識しておくことがまず必要なのかな。


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