僕たちはただ単に反応しているだけである

幸福とは何か?

なんとなくそんなことを考えるようになって何年か経った。
それまでは、「幸福」なんて考えてはいけないことだと思っていた。


「自分の道を生きる。その為には世の中でいう幸福と呼ばれるものなど捨てなければならない。」

なんて思っていたのである。一体これは誰の受け売りなのだろうか?


不幸であることの方がむしろ良い。ようなニュアンスがそこにはある。
また、「幸福などという俗な考えはくだらない」という価値観も持っていた。
僕にとって「幸福」は非常に優先順位の低いテーマだと思って生きてきたのである。


なんということだ(笑)


僕は幸福になりたかったのである。40過ぎてようやくそれに気が付いたのである。本当の自分は幸福を希求しているが、それを認めなかったのだ。幸福になりたいなんていう自分を許してはいけなくて、ずっと何かと戦っていたのである。


嗚呼、本当になんということだ!


というわけで、他の誰もがそうであるように自分も幸せになりたいと願う普通の人間なのである。


うつ状態に苦しんだり、ルサンチマンに陥ったりしながら、なんとなく感じることがあった。

精神論でうつやルサンチマンを回避することは難しい、ということだ。
何らかの物理的条件が重なると、うつやルサンチマンを引き起こしがちになる、ということだ。

普段の心がけが大切、というのは日常の営み方に鬱やルサンチマンに転じてしまう条件が整わないようにする、ということであって、「心がけ」だけで鬱やルサンチマンは回避はできない。


マウスの実験じゃないけど、人間をこれこれこのような状況に置きました。するとこうなりなりました。というように、とある条件下ではこうなる傾向がある、という反応の問題なのではないだろうか、と。


個人差はもちろんあるけど、性格が悪いから鬱やルサンチマンに陥るのではない。
状況に反応しているのだ。
緊張が長期に渡る、寝る時間が不規則になる、自分のヒエラルキーが低いと認識し続ける、朝食を食べない、とかそういう具体的な状況がいくつか重なると「反応」として鬱やルサンチマンに陥る、と。



幸福というのも条件があるはずだ。幸福を感じる仕組みがある。


価値観が幸福の条件を左右すると考えすぎているのではないだろうか。
個人差があるので幸福は人それぞれだと思い込みすぎてるのではないだろうか。

例えば、一昔前によく言われていた、良い学校を出て一流企業に就職して結婚して子供を持つことが幸福の基準だったけど、今はそうではない、いろいろあるじゃない。と。


幸福という存在の設定の仕方がちょっと間違っていたのではないだろうか。


例えば、貰うより与える方が幸福を感じる仕組みになっているのだ、と。
目の前に虫が飛んでくれば目をパタパタと瞬きをしてしまうのと同じ、なのではないだろうか、と。

幸福という捉えづらいものは精神や意識の問題だと解釈されてきた。
けど、「反応」の問題なのだ、と。


お風呂に入ると幸せを感じるのは、この図が示すように幸福を感じる時の体温と同じになるからで、きっと「悲しみ」の温度設定にすれば悲しく感じてしまうものなのだろう。
それは「笑えば楽しくなる」と似てる。

幸福に生きる為には、人間が幸福を感じてしまう「反応」が分かっていけばいいのだろう。


今のところ、自分ができるポイントは、
・与える
・全身を温める
かな。

小さなプレゼントをあげられる機会を作って湯船につかる。
そういうことで幸福を感じるなら嬉しいではないですか。






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