放射悩

ところで、「放射能」というヤツには困った。
五感をスルーしてしまう。

アートは言語的な作品ももちろんいっぱいあるけど、言葉以外の領域も扱っている。
「感じる」領域だ。
そこに一つの可能性の広さがある。

言語的な意味の領域と、意味を理解しなくても「感じて」受け取れる領域、どちらに比重を置いているかは人それぞれだけど。


僕は言葉になる前の状態、言葉未満で形がハッキリしない曖昧な状態でまだ「感触」というスープの中から抜けきらないなんともいえないもどかしい「感じ」に興味があったりする。

「感じる」ことと「言語」が溶け込んで曖昧が残っている状態。

意味を掴みあぐねいていても五感があれば大丈夫だよ、という希望がそこには、ある。


僕はだから作品に対しては、「言語的な意味がなくても良い、感じることができれば派」なのである。



ところが、原発事故で放射能という問題が圧倒的な力をもって押し寄せてきた。


放射能は五感で察知できない。

「感じることができればいいそれが希望だ」と考えていた自分にとってこれは難解な問題だった。


普通、僕らは何か人体に悪影響がある何かがやってくると、「反応」する。

臭い、涙、鼻水、うるさい。

不快感は身を守るためのサインとして機能してるのだが、放射能は何も感知できないのに破壊されてしまう。
「感じることが出来れば大丈夫」という訳にいかないのだ。


放射能の存在にちょっと神の意味を感じたりもした。

「全く感知することのできない存在」がこの宇宙の大半なんじゃね?とも思った。

放射能と観念は似てる、とも思った。


原発事故直後、
あれこれあれこれ考えていた。
放射悩 。



どうにかして希望にたどり着こうと考えたけど、どう思考してもたどり着く場所は「アートは無力である」という立札のような結論だった。



そしてボランティアで泥かきに10日間ほど行った。
元気になって帰ってきた。


2011年のこと。


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