悪が居る


普段の生活の中ではやってはいけないことだけど、作品を作るにあたってひとつポイントがある。

「道徳的にならないこと」である。



僕は社会からこぼれてしまう側に立ちながら排除に抵抗してきた。

それは正義のためではなくて、自分がこぼれてしまった側であったからだ。


こぼれてしまった本人は自分を肯定できないで苦しんでいる。
自分を責め、親しい人を責め、自分でなおさら窮地に追い込んでしまう。
世間からも怠け者と制裁を加えられてしまう。
行政からも排除されてしまう。


怒りと悲しみと憎しみを吐き出し、
自己卑下と劣等感と自信のなさを内側に圧縮させていた。

暴力が嫌いなのに暴力的だった。

しかし、どこか正義にしがみついている自分もいた。正義にしがみつきすぎると考え方が硬直化して、イデオロギーの方程式にはまりこんでしまい、借り物の言葉をまるで自分の思想のように高らかに謳ってしまうのである。

歳も重ね、徐々にそういった修羅の苦痛のようなものは薄まって楽になってきた。


そうなると、道徳を語るオッサンになりそうなのだけど、、
元ヤンキーが地元で地道に商売をしてオッサンになるとちょっとした相談役みたいになっていく、みたいなw

いや、でも、言葉にするなら道徳的な方がいいに決まっている。



作品はやはり善悪を超越した心の本性を描く必要はある。
それには認めたくない自分の悪を肯定してあげる必要性がある。


言葉にするのもよくないし行動もしてはいけない。けど描く必要がある「悪」はある。悪にまつわる引用ではダメだ。

それはもちろん「美しく」なければならない。



なんでも美しいと言ってしまってる自分だけど。
美しく描くには、覚悟とか勇気とか必要で、気合が要るのだ。
気合で美しくなるわけではないが、気概は必要なのだ。



悪が居る美しさ。

描くよ。

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