風景の抽象化映像2つ
東京・ニューヨーク・ベルリンの駅で時が止まる魔法をかけてみた。不思議世界を体験できるスローモーション映像「ステンレス」
Amazing Video Clips Visually Isolate the Flight Paths of Birds
これらを最近見て「おっ」って思った。
どちらもちょっと細工している映像である。
前者は高速度カメラで撮って再生させているのだろう、一瞬の時間を引き伸ばしている。
後者は動きの軌跡を残してドローイングのように見える映像である。
どちらも普通に目に見えている世界を抽象化して面白くみせている映像だ。
カメラは事象を写す道具である。写真の登場で写実の具象画はその役割の大部分をカメラに渡すことになった。
そこで絵画は眼前にある風景を抽象化する方向に移行する。或いは心象風景に重きを置いていくようになる。
カメラによって写実の役割を介入された絵画は、抽象化のメディアとして発展しようとした。
がしかし目に映っているものを抽象化する仕事も、カメラ(とその編集)にどんどん侵食されていくんだなあとも感じた。
というか、そもそもカメラとはそういう装置だ。
視点を定め、構図を決める。
出来事を産むのではなくフレーミングを操作するのがカメラだ。それも一瞬で。
ところで、作品は「出来事と枠」で成立している。
絵画はもともと出来事側にいた。
最初、絵に枠なんてなかった。ラスコー洞窟の壁画のような太古の絵画、または幼少期のラクガキ。
絵は「営みそのもの」だったのである。
出来事をフレーミングすることによって作品が成立するなら、絵画はもともとは「作品」として生まれていないのだ。
現代美術とカメラは似てる。
「生の出来事」をフレーミングおよび抽象化してそれを自らの作品とする。
出来事は自分で起こさなくていい。肝心なのは出来事を「どう見るか」「どう見せるか」だ。
なので、現代美術もカメラも「枠」側にいるのだ。
僕は出来事側に棲んでいた。
事象を「フレーミング」しただけで作品にしていくカメラ的なまたは現代美術的な仕事に対して、美味しいところを掠め取っていく搾取のようなものを感じていた。
この、「出来事<枠」の階級的なところを破壊したいと思っていた。
うまくいかなかったけど(苦笑)
最近はあんまりそこにこだわらなくなった。
風景を抽象化してる映像を素直に楽しめるようになった。
この2つの映像を観て、なんかそう思ったのである。
考える前に自分はじーっとこの映像を見つめて面白がっていたのである。
それが僕の本性だ。
本性から作品を作ろう。
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