311以降、僕に立ちはだかっている問題がこれなんです。
放射能は感じることができません。光化学スモッグとは違う。煙の害とは違う。花粉とは違う。
放射能に対しては五感を研ぎ澄まして対処することがまかり通らない。
知らないうちに遺伝子が破壊されてるのだ。
感じることの外側にある物理的存在に命が奪われてしまう事実を原発事故によってリアルに認識したのです。
そうなると、「感じること」を重視するアートの基本軸はどうなんだ? ってことになる。
感受性が豊かであることは素晴らしい。がしかし感受性は放射能に対しては無策だ。
簡単に感覚器官の受容体を通過してしまい、遺伝子そのものにアプローチしてしまう。
感受性の豊かさを大切にしてきたアートだが放射能時代には全く違う何かが必要である。
それはなんだ? と、悩んだ。答えは今も分からない。
五感の外側に僕は出られるのだろうか?
感じることができなくてもそれを考えることはできるだろう。
なので「思考する」ことがとりあえず希望に繋がる何かなのだろうか。。
そこにきて受動意識仮説である。
<わたし>という意識は錯覚に過ぎないという説だ。
無意識で行ってることをあたかも自分がやったように錯覚してるだけの意識、なのだ。
これはまったくもって追い打ちをかけるようなことだ。
アートはなにしろ、それ(作品)を認識していることが前提となる。受動意識仮説に基づけば、それは最初から幻想に過ぎない。
受動意識仮説のメンドくさいところは、自分の真実は意識の外側にあるということだ。わたしの行動原理は<わたし>の知らない外側にある。自分の身体のことなのにこれはまったくもって<自分>ではない、ということになるのだ。
では本当の自分にアプローチできるのだろうか? 意識の外側なんて意識できない。
「ここは意識の外側です」なんて認識できたらそれは意識の内側でしかないのだ。
放射能は五感の外側に存在し、受動意識仮説は意識の外側に自分の実体がある、と教えてくれている。
では、「これからのアートはどうすればいいのだろうか?」と悩んでしまうのだった。
答えは分からない。
がしかし、今の僕はそんなに絶望していない。
むしろ希望を感じている。
「希望を感じている自分」も受動意識仮説に言わせれば錯覚だ。
例えそうだとしても、希望は、あるのだ。
で、希望はどこにあるのか?
なんとなくだけど内臓系にある気がしている。
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