ネットと神と救済について

Real FantASIA 00


久々の更新です。この記事を見てなんとなく気になった。

グーグルが神に代わる?ネットがもたらす無宗教化

なんでだろうなあってちょっと考えてみた。


僕はネット好きです。けど最初からそうだったわけではないです。


パソコンもネットも珍しかった頃、友達の家に行って「パソコンあるからインターネットでホームページが見れる」と「カリカリカリ、ピーガーギャー」という音を聴きながらホームページを見た時の「なにこれつまらん感」はハンパなかったですw
特別な新しい体験ができるのかと思ったら画面は動かないしね(笑)
情報ならまだ圧倒的にテレビ、雑誌、ラジオ、新聞、といったマスメディアの方が強かったし。


ネットワークが張り巡らされてこそネットは意味を持つ。

ネットの意味の第一義としては個人発信が可能になったことだ。特別な場所(メディア)に所属してなくても誰でも表現可能となった。ネットが普及すればするほど個人発信の強度が増していく。当時はそれがとても革命的だと思った。


SNSが主流となった今では「個人発信」といういより、「シェア」という感覚に移行してきた。
これらは「人の意識同士のネットワーク」だ。

ただ、それだけではネットの意味の本領発揮としては薄いと思う。
昔から人間がやってきた村のコミュニケーションの置換えでしかない。或いは旧メディアの代替物でしかない。


今後は「意識外」のものがもっとネットワークされて行くと思う。というかそうなるとネットの意味の次元が変わってくるなあと思う。


例えば、店の在庫が最初に思いつくけど、道や電車の混み具合情報であるとか、各家庭の冷蔵の中に入っている物の情報とか、それらが人の意識を介さずに直接ネットワークされる、とか。

例えば、各個人の血圧や心拍数や移動速度とか。

エリア、時間、天気などの要素を一緒に。


人々が困ってたり問題のある場所がデータから現れてくる。人の意識が介在しないのでこれらのデータは「ピュア」だ。


そうすると「機械政府」がちゃんと成立する(笑)
割とマジでそう思ったりする。


裁量権を握るために存在してる役人も、利権誘導のためだけに存在してる政治家も要らない。
政治で「人間」が必要になる部署は外交に絞られてくる。


そんな社会怖いと感じるところもあるけど、案外もう怖いところに来てる気もするし、それが普通になったら普通に暮らしてたりするんだろうし。



グーグルは神になるのか?


グーグルが下火になることは当分はないと思う。
がしかし、神にはならないと思う。


なぜなら「救われた」という感触はとても具体的だからだ。
ネットはインフラや日常の道具として機能していくだろうけど、神を感じるためには具体的対象物が必要だったりしてしまうのだ。

偶像崇拝を禁止している宗教もあるだろう。その場合は「神の概念」が個々人に強く刻みこまれる教義になっているはずだ。


ネットは命を支える空気のようになっていくと思う。
だけど、空気教という宗教はないし、空気という神様はいない。



無意識の領域の膨大な情報がネットされていったとしても、人は救済を求める。




藝術には救済の役割があるんじゃないかなと最近思うようになった。



3.11がきっかけになったと思う。

かつては「藝術は無意味であることに意味が有る」、というとても観念的な芸術観を強く持っていた。
『しかし、「藝術は無意味であることに意味が有る」という芸術観こそ本質的に無意味である』と、思ってしまったのだ。

藝術は死んだ、とも思った。僕の中での「藝術というもの」が死んだのかな。

ややこしいが。


僕には「描く行為」しか残ってなかった。
なので、ひたすら小さい画面に線を描き続けた。

僕はそれで救われた。
意味や無意味があるのではなく、「救い」があったのだ。

藝術に役割があるとしたらそれは「治癒」だ、「救済」だ。
意味ではなく。

そう思うようになった。


どんなに便利になってもどんなに豊かになっても、人は治癒と救いを必要とする。

しかし、藝術以外でも治癒になるものは沢山ある。藝術以外でも人が救われることは沢山ある。
藝術なんて要らない場合も多々ある。けど、だからと言って滅びはしないんだなあと思うのだ。


藝術は死なないのだ。

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