“自分の感性だと思ってるだけのことはいくらでもある。制作ノートNo.12・1997年10月26日(日)より
「そう感じさせられている」、これには細心の注意を払え。
とかくこの世は想像力を奪うもので満ち溢れている。
「楽だなあ」と思ったとき、ひとつの想像力が去勢されたと思え。
想像力が萎えると人は楽になる。
感受性が奪われると人は楽になる。
気を付けろ! いつも踏ん張っているんだ。”
僕は何かと戦っていた。漠然と、そして巨大な焦燥感にさいなまれながら、全力疾走を続けていた。というより、走っているつもりで心だけがジタバタして、消耗してたのだった。心の摩擦熱を不必要なまでに激しく燃やしていたのだ。
身体はこの強大な訳の分からないエネルギーに振り回され、あっちに行ったりこっちに行ったりと、やたらアグレッシブだった。
制作ノートを読み返すと、これら無駄な活発さに「これは本当に自分だろうか?」と思えるほどだ。分からないながらも、そうやって精一杯もがき動き尽くしたので、今こうやって自宅で落ち着いて制作する日々に移行できてるのかも知れない。
そんなジタバタしてる中でも、自分なりの「芸術観」はあって、ノートに記していた。
“しょせん芸術なんてものは「穴」なのである。制作ノートNo.12・1997年10月27日(月)より
現実という閉ざされた箱の中に僕らは住んでいる。箱の外側、八方は宇宙(霊界、精神世界、あるいは生前・死後)なのである。
人々は穴から宇宙を垣間見ることが出来る。芸術というものの存在は「穴」である。「穴」は「穴」だけで存在できない。
しかも「穴」は無・空である。
「穴」という物質は存在しない。それが芸術なのだ。
「穴」のおかげで宇宙と繋がれる。そこで人は深い孤独と安らぎを得られるのだ。
そして「穴」という存在できない存在は人にとって必要でありながら、「穴」そのものに正しい価値を付けることが出来ない。
それが芸術作品なのである。
「穴」を開けられる人はそうそういない。深ぶっても箱の外側と繋がってない人は多い。
箱を壊すのは気が引けるが、社会全体が箱を壊す方向に向かえばいい。そのために「穴」はきっかけとして大いに役立つのである。”
制作ノートNo.12くらい 1997年10月27日(月) 私たちは閉ざされた箱の中に住んでいる 箱の周りには宇宙があって、私たちは穴から宇宙を垣間見ることができる その「穴」が芸術である |
ここで言う「宇宙」とは物理的な天体というよりも、魂の世界というか霊的な世界をイメージしている。科学で説明可能な時空間の「宇宙」と、そうではないなにか神秘的な「宇宙」があって、「宇宙」と言った場合に僕は、その両方を同時に重ねてイメージしてるのだ。
この「宇宙」に対するイメージは、誰もが持っているものなのだろうか? ふと疑問に思ったのだが、芸術が関わる「宇宙」とは、主に後者の霊的な「宇宙」なのである。
おそらく人類は、この霊的な宇宙とコンタクトしてきた歴史が圧倒的に長い。「祭り」とはすべて霊的宇宙とのやりとりを様式化したものであるし、そこから歌も踊りも造形も絵も発生したという「芸術観」は、そんなに間違ってはいないと思う。
ただ、今は芸術のことを「穴」だとは思ってないので、例えが新鮮に感じてしまった。
穴には「実体」がない。芸術の正体は実体のない「空」であると感じていたのだろう。なにやら真理めいた感じもある。
また、報われなさをひたすら感じ続けていたので、自分の絵はなんの価値もない虚しいものなのか、という落胆と絶望感が「穴」という皮肉な喩えを思い付かせたのかも知れない。
●霊についてUFOについて超常現象について
ところで、「霊」は本当にあるのだろうか?
例えば幽霊は本当にいるのだろうか?
「いると思う人にはいる」という答えで良いのだろうか?
そう言えば以前にも霊について言及している回がある。
『羽化の作法[28]なぜ段ボール村に精霊がいたのか?』
http://bn.dgcr.com/archives/20161129140200.html
僕はどうも「霊」に関心があるようである。
それはなんでなんだろう? と考えて思い出したのが、中学の「技術家庭」の授業だった。レタリングの授業があった。明朝体とゴシック体の文字を書くのだ。「美術」ではなかったと思う。
一通り書き方を教わると、生徒が自由に言葉を選んで文字をA4ケント紙(だったと思う)に書いて提出する。
そこで僕は「雨やどり 幽霊」と明朝体で書いて提出した。なぜ「雨やどり 幽霊」という言葉を選んだのか自分でもまったく分からない。
そして書いた明朝体文字は、後に廊下に張り出されていた。上手だったのだろうか? しかし僕は何の感慨もなかった。
なぜなら、同じクラスのヤンキー生徒Tが「絶叫 金スペ!」と書いていて、それを見た僕は「Tのレタリングの方が美しい!」と分かってしまい、自分の書いた文字に興味を失ってしまったからである。
この時「幽霊」以外の言葉を選んでいたら、今ほど「霊」に関心がなかったように思える。何の意味もないような選択が、その後の思考に影響を与えてしまうことってあるのではないだろうか。
さらに遡って思い出したことがある。「霊」ではなく「UFO」に関することだが、同じ超常現象的なくくりだと思うのでちょっと書きます。
小学高学年くらいだったと思う、自分に「UFOブーム」が訪れた。きっかけは学研ひみつシリーズの「宇宙のひみつ」だ。UFOに乗って旅する宇宙人と一緒にUFOに乗る地球人の男女の子どもが、宇宙の知識を紹介していく学習漫画だ。
ひみつシリーズは「からだのひみつ」「恐竜のひみつ」などいろいろあって、家にはズラッと揃っていた。気に入ったシリーズは本の背がボロボロになるまで読み返し、「はみ出し知識」までくまなく読んでいた。今は何も思い出せないが。
幽霊は信じなくてもUFOは信じていた。しかし、UFOを見たことがない。
僕はUFOに会いたいと思った。「テレパシーを送るとUFOに会える」という情報をなんかの本から得た僕は、毎晩窓を開け夜空に向かってテレパシーを送ることにした。
「こちら地球の武です。聞こえたら応答願います。」と繰り返し念じる。
そうすると返信が直接脳の中に聞こえ、気が付くとUFOの中に案内されている、はずだ。本にはそう書いてあった。
僕は何日もテレパシーを夜空に送っていた。どのくらい続けていたのだろう? ひょっとしたら三日とかだったかも知れないが、自分にとってはとても長く続けている印象だった。願いは虚しくUFOは現れてくれなかった。
だがある時とうとう変化が起きた。夜風にあたり体が冷えたのか風邪を引いて、熱を出し寝込んでしまったのである。それ以降はテレパシーを送ることはしなくなってしまった。
この時の「やり残し感」が、今の自分を超常現象にトラップさせてるのかも知れない。
さて、ここで思うのだ。そもそも超常現象に惹きつけられるのは、現実が辛いからだろう。あまりにも負荷が大きいと、啓示を聞いたり、幽霊を見たり、UFOに乗せられたりしてしまうのではないだろうか。
現実を超越した体験をリアルに感じてしまうと、現実に縛られている今の思考から脱却できる。思考の立脚点が変われば行動が変わるので、現状が辛い人はそれを乗り越える可能性が出てくる。
超常現象とは自己回復プログラムで登場する、キー・アイテムなのかも知れない。ただ、更に悪化する方向に作用するリスクもあるだろう。愛情ホルモンのオキシトシンが、同時に他者を排除する方向にも働いてしまうように。
てことは、超常現象を扱うにはマネジメント技術が必要になる。ひょっとしたらアーティストとは「超常現象をマネジメントする人」とも言えるのかも知れない。いっそのこと自分が「超常現象」になりたい。
(つづく)
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