「そもそも作品とは、人間に向けて作られたのだろうか?」
という問いかけがあります。
「神々(または神秘)に捧げるために描いてる」という気持ちが本当にあるからです。
「祈りを捧げる」ことと「描く」ことはかなり同じです。
それは特定の既存宗教への信仰という意味ではなく、祈りを捧げる行為と描く行為は抽象的に重なる部分がかなりある、という意味です。
「行為」に重きを置く。「描かれた作品がどうであるか」、と言うよりも「描く行為」にフォーカスしようとする状態です。
作品を完成させる為に必要なプロセスとして描く動作が必要、という完成が「主」で過程が「従」的な視点ではなく、描く行為がそもそもあって結果たまたま絵が完成している、という過程の方が「主」で完成は副次的なもの、という見方なのです。
過程・行為を主とする在り方には「祈り」の要素が濃く入っていて、そしてそれは、人間に向けられているというよりも、どこか神々のような超越した世界や人智の及ばないものに向けて捧げられているような感じがするのです。
なので、「作品をただひたすら作ること」を目的とする人がいるのも分かるのです。
こんなツイートを見かけました。
作品を作るのが目的ではない。作品を鑑賞した人の「心を動かす」ことが目的なのだ。驚く、泣く、笑う、しんみりする… 何でもいいけど、心をチラッとでも動かしたら作り手の勝ちだ— ヲノサトル (@wonosatoru) 2018年10月31日
きょうびの成功論として「まずはアウトプットを大量に!」が定説になっているようです。
例)「アウトプット格差」http://www.ikedahayato.com/20181103/77441601.html
しかし、目的はその先の「心を動かす」ことだよ、と言う大人な見解が上記のツイートです。とてもシンプルで「なるほど!」と思う。本当に正しい。
そして、しばらく時間が経って、ふと、
「待てよ? そもそも作品って人間同士だけのものだったのだろうか?」と思ったのです。
(決してツイートへのDisりではございません)
作品って「人間ではない何かに捧げる」というのが奥の方にすごく広がってないだろうか?
そんな風に信じるのは私だけなのだろうか?
ここで言われている「アウトプット」も「人の心を動かす」も人間社会の話で、社会の外側にあるかも知れない神秘の領域と関わる話ではない。
なので「アウトプット」も「人の心を動かす」も社会で生きるノウハウなので聞き入れた方がいい。
ここを無視すると結局社会に受け入れてもらえずに自分が苦しむ事になりますし。
社会としっかり繋がると結果、やっぱり作品も売れてくる。
売れることはとても良い事なんです。
ただ、「アウトプットする」は「描き続ける」という「祈り」のような「状態をキープ」する信仰の側面からも捉えることができるので興味深いなあと思ったのです。
1・アウトプット・描き続ける、目的は「人の心を動かす」。
2・アウトプット・描き続ける、目的は「神々の領域に捧げる祈り」。
「神々または超越的な何か」に捧げる方向に向かいすぎると、売れなくなってしまう危険性がある。そして売れない作品に対して「これこそ崇高な芸術」と崇めて過ぎても、売れない芸術家の怠慢さを助長するだけになってしまう。
けれど、どこかに人間や現世を超越した神秘に向かって作品を捧げたい自分は存在している。
「描く事は祈り。」この信仰を持ちながら、ちゃんと喰えるようでありたいです。
(羽化の作法[73]現在編 そもそも作品とは人間に向けて作られたのだろうか?)
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