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岡本太郎の「芸術の三原則」をヌルく更新する

日本の現代美術史に刻まれた岡本太郎のフレーズ――「うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない」
本記事では、この三文(通称「芸術の三原則」)の出典を一次資料レベルで確認し、続いて私・武 盾一郎が掲げる新たな宣言「アーティストのたった一つの責務」を記述します。

宗教と信仰と祈り


宗教と信仰は違う

そして「祈り」という行為もまた
宗教や信仰とは違う

ような気がする

95年の衝撃で
遠ざかりつつ隠しつつ紡ぎ直してきた透明な織物が

姿をあらわす予感がする




「あなたの宗教はなんですか?」 と聞かれたら
「どこの宗教にも属してません」と答える。

宗教に属してない方が「まとも」という感じすらある。
神社仏閣に詣に行くのはとても好きなのに、
宗教に対してとてもネガティブなイメージが付きまとう。


宗教そのものがダメなのではなくて
宗教法人という制度や政治と癒着した宗教法人の在り方が宗教を気持ち悪くさせてしまっている。

宗教法人制度の改正が必要で、
それは端的に宗教法人の課税対象化なんだろうけど、
なぜかその話は聞かない。




なんとなく置き去りになっている「宗教」と「信仰」と「祈り」。
でも実は誰にとっても重要なことなのだ。

作品の中にこの置き去りにされている
「宗教」と「信仰」と「祈り」を織り込んで行きたい。
といつも思ってる。



製品と商品と作品

線譜『リング』
220×220mm ペン 紙 2018年
「小説すばる2018年10月号/集英社」
樋口恭介『輪ゴム飛ばし師』扉絵


「製品」と「商品」と「作品」の仕事を、
ざっくりと「デザイン」と「イラスト」と「アート」と言ったりする。

「製品」と「商品」と「作品」には「クリエイティビティ」が関わってくるけれど、そこには違いがある。

製品(デザイン)

「製品」には「アフォーダンス」と呼ばれるような、より認知の根源に近いところのクリエイティブが求められる。

椅子だったら、それは子供から老人まで、どこの文化の人に対してでも、座ってみたくなるデザインが望ましい。
そのデザインは「独創性を羽ばたかせる」よりも、まずは「人間の認知や人間の動きの原理」から探り出していく方がより良いデザインが生まれる。

スマートフォンに取扱説明書がないのは、より根源的な人間の認知に則してるからだ。なんの説明もなく子供にスマートフォンを渡すとあっという間に使いこなす。だから全世界の人々に普及しているのだ。「デザイン」とはつまりこういうものである。

ちなみに、昔の車の窓ガラスの開閉はドアにある取手をくるくると回す仕様になっていた。
今の子供にはそれが全く分からない。
「窓を開けたいけどどうするの?」と聞かれて、
「それを回して」と取手を指差しても、どのように回すのかすらも分からないのだ。
この「デザイン」は窓を開閉させるアフォーダンスとしては失敗していたことが分かるのだ。

「昔の車のデザインは良かった」と言う人は私も含めて多い。
がしかし、デザインとしても車は確実に進歩していて、今の車の方がストレスが圧倒的に少ないのも事実だ。

私は今でも95年製のマニュアル車を乗っていて愛しているのだが、それは「酔狂」なのである。
可愛すぎる愛車サンバーディアスクラシック。
バンパーは凹み、ドアミラーは壊れ、エンジンもこの前また壊れて修理した。優れてるから愛するわけではない。コスパやスペックや合理性で愛が生まれるわけでもない。


「商品(イラストレーション)」と「作品(アート)」の違い

「商品とはその価値が商品自体にあり、作品はその価値が買い手にある」と言えるだろう。

どう言うことかというと、
「商品」とは原価と人件費から厳密に価格が割り出される。「商品」の価値は原材料と加工の価値が厳密に反映される。
なので商品の価値は商品そのものにある。

それに対して「作品」は、例えば、原価が10円で10秒で描いたとしても10万円の価格を付けていいものである。
また逆に、原価が10万円で1年かけた制作した「作品」に1万円の価格を付けてもいいものである。趣味で作品を作ってる場合はこのようになる。



悪徳新興宗教の高価な「壺」と、高価格を付けた「作品」の違い

原価に対して価格が高いことだけに着目すると、新興宗教が信者に買わせる高価な「壺」と、高価な作品は同じじゃないか? という疑問も生まれてくるでしょう。

まず、高価な「壺」は、買う人側に価値を一切与えてないのが特徴である。
「壺には神秘的なパワーがある」。高ければ高いほどパワーが高い。神秘の力なので上限はない。
なんの力もなく価値もない信者は壺を買うことによってパワーを授かる、という構図になる。

それに対して「作品」の価値とは何かというと、
その作品を「素敵!」と感じた買い手の「心」に対して付けられた価値である。
つまり、価値が作品側にあるというよりも、買い手側の「心」にあるのだ。

「高価な壺を買う」と言うことは、「価値のない私」と「価値のある壺」の図式である。

それに対して、
「高価な作品を買う」と言うことは、その作品を「素晴らしい!」と感じた「自分自身の心」にお金を支払う体験なのである。

ここが、「壺」と「作品」の大きな違いなのである。


買い手にとって「商品」は低価格の方が望ましいが、「作品」は高価格の方が望ましいのはこの為である。
(なので作者が低価格で「作品」を売って、買い手が「ラッキー!」と思って買った場合、それは「作品」的なのかは疑問である)


「作品」の作者は、自分と作品の価値を高める努力をすることも当然必要であるが、
自分の作品を「素敵!」と言って買って貰えたならば、その人の心意気を保証する方がより重要で、その為の品質向上なのである。


「素敵な作品ですね!」と誰かに言ってもらえたら、
「有り難うございます。そう感じたあなたの心の方がもっと素敵ですよ!」と答えることが重要なのだ。(なかなか恥ずかしくて言えないんだけどね。。。)


「アートって素敵だなあ、、、」と内心思っていても、なかなか購買に一歩が踏み出せない人って潜在的にはとても多いと思うんです。
「この作品がいい!って感じた自分の気持ちを大切することの喜び」を実感していただく為にもアーティストである私はあなたの背中を押したいです。


もし、私の作品を「あ、いいなあ」って思ってくださったなら、
私はとっても嬉しいです。有り難うございます。
そして、
その感性、その気持ちこそが素晴らしいものなんですよ。


これからも頑張ります!!


ネズミに恋したネコのタムちゃんシリーズと父



4月30日は父の命日でした。2015年、7年前。
twilogで遡ってみると親父に一言も言及していないんですねえ、、これが。。。

私は父にはほぼ育てられておらず母子家庭でした。物心ついた時には両親は離婚してたが、私の苗字は父の姓で幼心になんだかすごく面倒臭かった。

父はごくたまに酔っ払って家に帰ってきては朝まで母と大喧嘩をしていた。
父が家を出て行った後の布団の残り香は「嫌いで好き」という不思議なクオリアだった。


60年安保闘争の中央執行部で学生運動を牽引し、大学の演劇科を卒業した父は、
革命と芸術を志した理想に燃えた青年だったのでしょう。

当時は現代の「ポスト資本主義」みたいな資本主義前提の改革ではなく、ガチの革命をしようとしてたらしいのです。
そういえば思想書と戯曲だけは家にいっぱいありました。私はほぼ読んでないけど。。。


私が生まれ、芸術も革命も諦めたのか、ついでに家族も捨ててしまったように見えた父。


反資本主義思想なのに会社を経営し、
官僚主義を批判しながら既得権益で仕事を回し、
天皇制という権威こそ諸悪の根源だと言いながら芸術という権威に弱く、
大酒呑で、陽気で、矛盾に満ちた父、
晩年は精神病院に長らく入院し、そこで息を引き取った。


私はそんな父を愛しながら憎んでいた。憎みながらも愛していた。


父が亡くなってから私は毎日父のことを想うようになった。
父が死んでから初めて父と本当のコミュニケーションが始まったみたいだった。

毎晩毎晩私は父と喋った。
そしてその対話の中でいろんなことを教えてもらった。

絡まって、もつれて、ほぐせない父への複雑な気持ちも徐々にシンプルになり、和解していった。


死んだら取り返しが付かない。


確かにそれはそうなんだけど、死んでからでも対話はできる、
「生者と死者は対話が可能で、仲直りも可能なんだ」という実感を持つに至った。


「ネズミに恋したネコのタムちゃん」は物語が突然降ってきた2013年、
「私とは最も遠いテーマの作品だ。なんでこんな物語を自分が思い付いたのか?」
まるで見当がつかないまま、でもなんか面白そうだから取り掛かったのだけれども、なぜか描き続けてられる作品で、
これからもずっと描き続けていくシリーズ作品となった。


この『蒼き星の子守唄』をかなりの時間をかけて描き上げてポオ エ ヤヨさんにドキドキしながら見せた時、
「すごいすごい!このネズミさんは武さんのお父さんだよ!」
と目をウルウルさせながら言ってくれた。
が、内心「なにそれ(オヤジじゃねーよ、ネズミさんだよ)」と私は思っていた。


そしてこの「物理身体が触れ合うことない死者と生者が想いを通じて心で触れ合う」場面を描いたタムちゃんとネズミさんの作品のお渡し日の今日(4/30)、

「今日が武治司さんの命日でした。」と母からラインが届いてるのを見て、
ヤヨさんが「このネズミさんは武さんのお父さんなんだよ!」と言っていた言葉が真実だったことを知ったのだった。


本当に有り難うございます。

事実は科学に根差すだろうけど、
真実は魂に根差す。


私はタムちゃんとネズミさんの魂の絵を描き続けます。
それは作品をお迎えして応援してくださる方があってこそ。

感謝あるのみです。


きっとこれは100万年以上続く恋物語。


ネズミに恋したネコのタムちゃんシリーズ
線譜『蒼き星の子守唄』
(2021年・個人蔵)

DaiGo氏の炎上で思ったことメモ

ネズミに恋したネコのタムちゃんシリーズ
蒼き星の子守唄

DaiGo氏の動画はしばしば観ることがあり、それなりに楽しませてもらっていた。
なので、今回の発言はちょっとショックだった。

音声よりも文字起こししてあるテキストを読む方が「どぎつさ」が際立ち、さらにネットニュースでは切り取られたテキストになり、エグみが増す。

今回のDaiGo氏の発言は、謝罪での言葉(頑張ってない人・頑張れない人は除外している)も含めても支持できないが、あんまり「許さない」とかも言いたくないし叩きたくもない。

そんな自分用メモ。



「ホームレスはいない方が良い」について


DaiGo氏は「ホームレスはいなくてよい」。このようなことを言っていた。
これは「ホームレス支援」の多くの方たちも同様だろう。路上生活からの脱出を支援している方々の活動を見るたびに、本当に素晴らしいと思う。


また、「路上生活者が野宿のまま暮らしていける権利」を主張する尖んがった野宿者支援活動をしている方たちもいる。少数派だけど(自分の知る限りでは)。
私もかつては、「スクワット上等!」といった勢いで、「都市とは不法占拠して良いものである」と考えていた。「グラフィティ」も都市のそういった包容力によって育まれた側面があるだろう。



もし「路上生活者がいなくなる方が良い」と考えるのであれば、
・路上生活者を排除し、死んで良いとする社会システムと、
・路上生活者が家なりアパートなりに暮らせるようになって、仕事なり消費なりを楽しめるようになる社会システムと、
どっちが社会経済合理性に於いての最適解だろうか?

科学的に考える場合、正解は本当に前者だろうか?

人道的に、心情的に判断すれば後者だけど、クールに「合理的」に考えても後者なのではないだろうか?


また、
もし遠い都会ではなく、家の近所の公園や橋の下に人が暮らし始めたらどうするだろう?
それが私の「答え」になる。



優生思想について


優生思想は本当に良くない。優生思想というか「差別」と言い換えてもいいかもしれない。
それはきっと誰でも分かっていることだろう。
しかし、自分が優生思想を持ってしまっていることに案外気が付かない。

「私は(〇〇において)人より優れている。だからこうして生きていられている。」

このように思う人たちはごまんといるに違いない。

いやいやそれと優生思想は違うよ、って思うかもしれないが、
環境とか複雑な関係性の中で、たまたま今生きていけてるだけで、
優秀だから生きているわけではない。

そもそも「優れている」なんて概念は、生命の存在の前では無意味な尺度でしかない。
にも関わらず、私は人より優れていると思いたい誘惑を捨てきれない。無能では生きていけないと思っているし、少なくとも「差別発言をしてしまう人よりも自分は優れている」と思い込んでいる。
私の優生思想の種は小さく発芽しているのである。


きっと誰にだって「優生思想の種」は心に植え付けられている。

優生思想の種は
「苦しみ」という水によって萌芽する。
「自己存在の危うさ」が肥料になる。
「劣等感」が日光となる。
「他者との比較」で成長する。
「成功」で花を咲かせる。
「承認」で実がなり、
また種が増えるのだ。


「優生思想を許さない」とか「優生思想ダメ絶対」みたいなアプローチではあんまりうまく行かないと思う。


誰もが持っている「優生思想の種」をタネのまま静かに心の地中に埋めておくしかないだろう。

それには、
なるべく苦しまず、
自己肯定感を育て、
劣等感を許し、
他者と比較せず、
成功にこだわらない生き方
が必要なのではないだろうか。

難しいな。。。


ゆっくり時間をかけてやっていくしかないでしょうね。




DaiGo氏の炎上が気になってしまったのは、
自分が段ボールハウスに絵を描くところからアーティスト活動を始めたからである。
そこには当然、人間が暮らしているわけで、
その人たちの中で、その人たちに見守られて絵を描いてきたので、どうしても引っかかってしまうのである。

「ホームレス」とか「路上生活者」とか、そういう単語を使ってしまったけど、
あの笑顔のおじいちゃん、ガタイの良かったおっちゃん、優しかったおばちゃん、無口だった女性、、
思い出されるのはひとりひとりの顔・姿であって、
「ホームレス」でも「路上生活者」でもないのである。



その人たちを救うことはできなかったけれど、
生き続けて欲しいとは思うのである。



ちなみに、90年代新宿西口地下道の段ボール村には猫たちも住んでいた。
ホームレスの人たちは猫を愛していたし、
猫もホームレスの人たちを愛していた。

なので、私にとって猫はホームレスの象徴であって、生涯描き続けるテーマなのである。



DaiGo氏の炎上で、こんなことを思い巡らせる機会を得たわけで、
感謝した方がいいよね。

有り難うございました。

線譜『スクエア』
星野智幸コレクション装丁画
(ネコが描かれてるのはホームレスが登場する小説があるから)

物語について

線譜『I love So That I may come back (M).』
作品サイズ:170×230mm(楕円)
作品情報:ペン 水彩 2020年

例えば、
星座による性格の特徴というのがありますよね。山羊座は勤勉とか。
で、その特徴って結構当てはまってるなあ、と感じたりしませんか。

それは占星術が当たっているのではなくて、
占星術による性格特徴の振り分けがなされた言葉によって、それを見た人が自ら占星術の言葉に寄せて行っているんだと思うのです。

「星の運行」が人間の性格を決めているのではなく、
自分の星座の特徴の言葉が物語としてイメージされると、それに自分を重ね合わせてしまうのです。多分。


気に入った「物語」があると人はそれに沿って思考します。
そうするとそっちに引っ張られます。

条件やタイミングなど外的要因とのマッチングが上手くいくと、「物語が現実化」したかのように感じます。

「物語」を「指標」とか「設定」と言い換えてもいいかも知れません。
(「指標」や「設定」に時間軸を加えたものが「物語」です)


ユヴァル・ノア・ハラリは「物語」はやめて「事実」に基きましょう、と本に書いていますが、
ハラリの本はどれもとても「物語」的なのはとても興味深い。

物語の力を使って物語を否定しようとする姿勢はなぜかグッと来るものがあります。


私たちは物語を自分で作ってそこに棲みます。
またはとある物語に強制的に棲まわされています。

事実そのものを物語なしに味わうことを「瞑想」と呼んだりしてますが
ホントにそれが出来るのはお釈迦様くらいなのでしょう。

物語を消して事実そのものと対峙してる時
私たちはそれを認識できません。

幸か不幸かそういう仕様になっているのです。


物語の雛形やパーツはそこらじゅうに溢れています。


アーティストができることは、
今ある物語を解体して再構築したり、
散らばった物語の断片を集めて再構築したりと、
再構築がメインの仕事なのかも知れませんが、
それとはちょっと違った次元の仕事もあるような気がしています。

それは「神秘的な仕事」で、アーティストの仕事のコアなんだと思うのです。


有り難うございました。

記憶の体験

「思い出す」にもざっくり二種類あって、

一つは、その時のことを俯瞰して客観視してる感じなのと
もう一つは、その時の心情に入り込んで主観的になる場合と。

前者はアルバムをめくるような感じで
後者はタイムスリップした感じなんだけど、ひょっとしたら本当に過去に一瞬行ってしまってるのかも。

茂木健一郎さんの『クオリアと人工意識』のベルクソンに言及してるところを読んでふと
「認知症って「純粋記憶」の中に入ってしまうことかも知れない、外側の人間から見たらそれは病状だけど」ってよぎった。
またはクオリアに飲み込まれてしまった、みたいな。





エイリアン


きみが好きだよ エイリアン
この星の この僻地で
魔法をかけてみせるさ



居場所って見つけにくかったりします。
輪の中にいるようでいて浮いているような。
しっくり来ていないような。

いつでも自分はほのかに「エイリアン」だったりします。
自分の心の中でさえも。


というか、
そもそも

「自分は存在していないかも知れない」

子どもの頃はそんな「実感」があって、それはとても奇妙で確実なリアリティでした。


「音楽」はいつもそんな自分を
哀しく、痛く、あたたかい暗闇で包み込んでくれたのです。


この曲もそんな気持ちにさせてくれる。


線譜『ノイズの中の少年』
作品サイズ:170×170mm
額縁サイズ:18×18×3cm
作品情報:ペン画 2019年


透明なノイズ
幽かな言葉
声にならない声
ひたすらに


「本当のこと」

本当のこと知りたいだけなのに 夏休みはもう終わり

本当の真実がつかめるまで Carry on


「本当のことを知りたい」って漠然と思ってました。 
でも、「本当のこと」ってなんだろう?

それは「意識」に関係しているだろう。

私たちが認知し得る全ては「意識」にある。
私たちはそのほとんどが無意識の働きで生存しているにも関わらず。

私たちは世界を認識しているのではなくて、
認識の仕方が世界を作っているのである。

「世界」も、「存在について」も、
私の外側に真実としてあるのではなくて
私の身体に備わっている「認識の仕組み」によって作られているのだ。

だからと言って外側に何もないわけではない。
きっと何かはあって
それを「空(くう)」というのだろう。


私はそれを「音楽」と呼んで
線譜を描いているのです。

線譜『目覚めよと呼ぶ声が聞こえ』
作品サイズ:285×380mm
額縁サイズ:348×438×35mm
ボールペン画 2015年

瞑想してたら浮かんだこと、劣等感


群馬に暮らしてる母が月に一回ほど上尾に来るのだけど、その時に妹家族も含めてお昼ご飯を食べることになっている。
母は妹の子どもたち、孫の顔が見れるので毎月それを楽しみにしているのだ。

私もそこで一緒にお昼を食べるのだけれども、どこかでちょっと面倒臭かったりもする。
みんなで食べれば食べたでとても楽しい時間を過ごすのだけれども。

心のどこかでなんとなく甥っ子姪っ子や妹の旦那に会うのがしんどいのだ。

どうしてそんな無礼な気持ちが湧いてしまうのだろう?
なんてことを瞑想しながら思考していた。

甥っ子姪っ子、妹の旦那が嫌いなわけでは決してない。
今の自分の関心ごと、つまり「もっと良い絵をたくさん描きたい」、「そしてそれを売って食べて行きたい」と、妹家族の日常がまるでリンクしないのでどんな話をして良いのか分からない、と言うのは確かにあるのかも知れない。
いや別にそんな話を合わせる必要もないし、話を聞く側に回れば良いわけだからそれはそんなに問題ではない。

問題は自分の「劣等感」にあるんだと分かった。

妹の旦那は自衛隊員として立派に働いて家族を養っている。妹は家事を一生懸命こなしながら在宅の仕事を始めた。甥っ子姪っ子はすくすくと育っている。

かたや自分は、50歳を過ぎて独身だし、自分の好きな仕事「アート」を頑張ってはいるが、ちゃんと喰えてるわけではなく牛乳配達をやっている。
ギャラリー13月世大使館をオープンさせて、5月に個展の予定があって決して悪い状態ではない。と言うか希望に満ち溢れている。

なのに、妹家族を目の前にすると自分がどうにもみすぼらしい存在のように感じてしまうのだ。
何をどうジャッジしているのか自分でも分からないが、そんな劣等感を抱えていて妹家族と会うのが少ししんどい気持ちになってることに気が付いた。

妹と母にこのことは喋ってないが、喋ったらとてもびっくりすると思う。
「えー!そんなくだらないことを気にしてるの!?」って。

対処法を考えたのでこれから実践しようと思う。

1・家族で食事をする時に湧き上がる胸の痛みを観察する
2・自分に劣等感があることを認識する
3・それは自分が勝手に作ってる妄想だと理解する
4・楽しいところだけを見つめる

これで、母と妹家族と一緒に食事するってことが、どれだけ掛け替えのない時間なのかってもっと自覚できるようになると思う。

有り難うございます。

矢沢永吉はジャンルである

こんなツイートを見ました。



矢沢永吉は、個人であるのだが、もはや個を超えてひとつのジャンルとしてUSENのチャンネルとなっている、と(笑)

リツイートした後に私はこうツイートしました。




私たちがそれぞれ「個」であるという常識は、ある意味「近代」以降の産物です。近代社会システムは個という幻想を作る必要があったのですよね。


茂木健一郎さんの動画 #もぎけんの意識ばなし でこう話されています。
「たった1人の掛け替えのない私というフィクションがどれくらいの有効性と普遍性を持つのかちゃんと考えないといけないと思うんです。」
自己の同一性は社会的に規定されているか。


そこで「私」について考えをツイートしてみました。









図を書いてみた。


例えば、「身体的な私」には私が5つあるとする。

  • 「私1」〜「私5」それぞれのノードは強力にネットワークされている。
  • 私1〜n はそれぞれ無くなったりすることもあるし増えることもある。
  • 私1 〜nのネットワークが途切れてしまうこともある。(解離性障害)
  • 依存症とはネットワークが少なく、故に結びついたノードと強く繋がり過ぎてしまう状態か?
  • ノードがなんのネットワークも形成しないで浮遊してることもある。
  • ノードが連なってはいるが、閉鎖する境界を持たないこともある。(幽霊?)


以上のような感じです。

いずれにせよ、中心に<私>という一つのアイデンティティがあるわけではない、とするイメージです。
他者ともネットワークで繋がり、そして「身体私」の中でも複数の私がネットワークされています。
「私1」の中もネットワークがあって、フラクタルにマトリョーシカのように入れ子が続いて行くのかも知れません。


ひょっとしてそうすと数学的な構造なので計算可能になるのかな?



恥ずかしさのエソラゴト

線譜『ノイズの中の少年』

自分の描いた絵とか自分の書いた詩とかを人に見せるのってすごく恥ずかしかったよね。


それは多分、当時は表現が「真の私の姿」だと実感してたからだよね。
なのでちょっとでも批判されたら「私の存在の否定」になってしまう。

ひょっとしたらこれって大昔にはなかったのかも、とふと思ったのです。
するとこれは「近代自我」問題かも知れない、と。

そしてこの事は現在の芸術と深く関係してくる。

だがしかし、表現は一方で、自分と全く関係ないことも表明できる。



絵や詩は大いなる嘘(うそ)であり大いなる真(まこと)である。

バンクシーのエソラゴト



バンクシーの絵か? 都が撤去 ゆりかもめ・日の出駅前


小池百合子氏もツイートしてます。



バンクシーの風刺対象である権力側の人が無邪気にはしゃいでるのも含めてバンクシーの作品だと言えるでしょう。

随分と前ですがバンクシーのグラフィティは都内にあるとはよく噂されてました。

東京藝術大学教授の毛利嘉孝さんもそのようにツイートしています。



今回のニュースでバンクシーの作品をツイートする人もいました。
現在はこのように塗り潰されています。



今回のバンクシーの件に対する毛利さんのツイートはトゥギャッターにまとめられています。

毛利 嘉孝氏の東京でみつかったバンクシー作品へ対してのコメント。

抜粋して引用します。

「今回湾岸の再開発地域を選んで、ネズミのステンシル作品を残したいうのはバンクシーらしい。仮に本人じゃなくても、バンクシーのことを知っている人か、テイストをよく理解した人が描いたのではないか。最終的には誰が描いたのかはステンシルという特性上、最終的に特定するのはむずかしいかも。」
https://twitter.com/mouri/status/1085846454336290816

「なんでねずみなんですか?と聞かれるが、ねずみはバンクシーにとっては重要なモチーフ。画集の文章を引用(今手元に英語版しかないので、そこから試訳)。「彼らは許可なしに存在している。彼らは嫌われ、捕獲され、迫害されている。彼らゴミの中で静かに死に物狂いで生きている(続く)」」
https://twitter.com/mouri/status/1085847642909814785

「ネズミ続き「それでも彼らは完全な文化的生活を自分たちの足元に運ぶことができるのだ。もしあなたが、汚く、不必要で、愛されていないとしたら、ねずみこそが究極のロールモデルだ」バンクシー、W&P p.84。」
https://twitter.com/mouri/status/1085848677531275264


ちなみに、毛利さんは著書「ストリートの思想」で、私たちの描いた段ボールハウス絵画『新宿の左目』を表紙に採用しています。
https://www.amazon.co.jp/dp/4140911395/ref=cm_sw_r_tw_dp_U_x_zp9qCbQDYY0JV



それから、バンクシーにインタビューをしたことがあるというライターの鈴木沓子(とうこ)さんのコメントを乗せた新聞記事がこちらです。

あのネズミ、過去作そっくり バンクシー監督映画に登場

全文読めないかもなのでコメント部分を引用します。

「無許可のストリートアートの取り締まりや、防潮扉の保護のために撤去したならばいたしかたないと思う。ただ、作品の保護が目的だったのなら、ストリートアートは屋外で生きるものなので、撤去と保全が結びつくかどうか疑問だ」

「ネズミは普段は日の当たらない所にすみ、外に出れば人間に害獣扱いされる存在。異質なものを排除する社会の中に、見えなくされている存在が出てきて、秩序を混乱させるというメッセージが含まれているのでは」

「バンクシーだけ保護するのはおかしいという意見が出たり、今回の騒動が起こったりしたことも含め、本人は狙っているのではないか」

以上引用でした。



バンクシーはメッセージ性もさることながら、とにかく絵のフォルムが良いんですよね。どれをとっても気持ち良い形なんです。誰でもネットで目にしたことがあるのではないでしょうか。これがとても有名だと思うのですがカッコいいです。


ところでバンクシーの正体は一体誰なのでしょうか?
音楽ユニット「マッシヴ・アタック」のメンバーであるロバート・デル・ナジャが現在最も有力なようです。

Massive Attack - Mezzanine

かっこいい音楽を作れる人はカッコいいデザインも作れたりします。バンクシーは多分中心人物が1人だとしても複数人・チームで動いてるような感じします。割と計画的にやってるのではないでしょうか。

ストリート系アーティストとしてはフランスのJRとイギリスのバンクシーがツートップかなあと私は思っております。

ちなみにJRはこんな人。
https://sniffingeurope.com/2017/02/17/streetartist9/

線譜について1〜10

風景ノイズ線譜
『上尾00』


【線譜】001

「曲」とは音楽のひとつで、聴こえない音楽もある。
物質化した音楽もあり、また、生物のように生え、動き、増殖していく音楽もある。


【線譜】002

私が描いてるのは絵ではなく「音楽」だと気が付いてから線譜と名付けてますが、
物質の基本単位が一次元の弦であるという仮説「ひも理論」を知った時「宇宙は壮大な弦楽合奏ではないか!?」と、驚きました。
「この宇宙は音楽で、私たちも音楽である」という仮説というか、シミュレーションのような、そして物語でもある世界または宇宙を線譜で描いています。


【線譜】003

曲は時間の流れに伴っています。
時間に沿って流れる曲だけが「音楽」だとは限りません。

例えば、曲の全体像が思い出す時、曲の長さ分を反芻することなく一瞬で脳裏に浮かぶように、

「線譜」は音楽を空間のように視るスコープでもあります。


【線譜】004

人、細胞、タンパク質、などはそれぞれの固有の音楽を持っていて、
それぞれが運動することによって奏でられる音楽があり、
それらのレイヤーは幾重にも重なり、また、ネットワークされ、
複雑で芳醇な調べを響かせている。


【線譜】005

「祈ること」と「描くこと」はとても似ている。
「祈り」と「音楽」はとても関係している。
そして私は音楽を描く。線で。
それを「線譜」と名付けたのです。


【線譜】006

曲が流れて来た場合、メロディやコード進行や構成よりも「音(のクオリア)」を聴いてしまいます。
かすれる声とかギターのカッティングの音とかバスドラの音とかグニョンてなるベース音とか。あと、とある場所で登場する半音っぽい音とか。

その部分的な音を抽出してミニマルに淡々と並べても良かったりします。


【線譜】007

好きになる曲は、1秒以内の感じで決まってしまうことってありませんか?
曲のほんの一瞬が曲の全体を含んでいるかのような。
きっと時間軸とは違う何かが音楽には織り込まれていると思うのです。


【線譜】008

子供の頃、家にあったリリー・マルレーンのシングルレコードをかけたら、胸が締め付けられて宙に浮くような感じを覚えてとても不思議に思った。
音楽のあのキュンとなる感じはノスタルジーの切なさとよく似てるが、小2にそんな追憶の感傷などないだろう。

なぜ、「過去を想う胸の痛み」と「音楽を聴いた時のキュンとなる感じ」がそっくりなのだろう?


【線譜】009

義務教育の間、一年の4分の1くらいは喘息で学校を休んでいた。
平日の街はまるで別人で、心細さと静かで落ち着く感じが入り混じっていて嫌いではなかった。
あの不安で静寂な空間はとても音楽的だった。


【線譜】010

段ボールハウスに絵を描いてる頃から「遠近法を使わずに奥行きを感じる絵を描こう」としてきました。
それは、アンチ西洋画、日本の絵の平面性への傾倒だったりしたのですが、
見えない軸、物質化されてない何か、またはちがう次元、を表現しようとしてるのだと思うようになってきました。

数学と芸術がとても関係してるのは、ひょっとしたら虚数を見る方法だからかも知れません。

(つづく)

報われない「いい人」への讃歌

本日のエソラ

「いい人」ほど収入は少なくなる:研究結果」と言う記事がある。

ここで言う「いい人」とは「協調性の高い人」です。

「協調性」には6つの要素があって、「信頼性」、「率直さ」、「従順さ」、「利他主義」、「慎み深さ」、そして「優しさ」があるそうです。

「金持ち成功者が大切にしてる6つの要素」のように見えますが、研究結果からすると以上の6要素が低い「協調性」の無い人ほど成功するようなのです。

「争いの際に自分のポジションを積極的に主張する」ことをためらわない人は高収入、グループの利益のためにすぐに妥協する協調性のある人は低収入なのです。


残念ながら「お人好し」は収入が少ないのである。

小さい頃から私がずっと悔しがってきたことは、人間社会の法則として統計的に証明されたようです。

優しくていい人って競争社会で落ちこぼれていくなあと、自分も含め常々思っていました。

その「逆転劇」を願っていました。

しかし現実にはそんなことはやっぱり起こらなくて、いい人は損な役回りを背負わされていくのです。そして自己責任だと言われてしまうのです。


実際に新宿西口地下道段ボールハウスに絵を描いてた時、ホームレスの人たちにはこの研究結果を裏付ける「いい人」たちが多くいたように感じていました。
「利他的に振る舞うと結果印象が良くなって得をする」という戦略的利他主義で成功する人の利他性とは違った、生物的利他性のようなものをホームレスの人たちは結構持っていたと思う。

それは本能的「優しさ」であるのかも知れませんが、この社会で生きるには「弱さ」でした。

きっとその本能的「優しは」は、私たちホモ属がサピエンスだけではなかった遠い昔、大自然の食物連鎖の中で大したこのない我々サピエンスが生き残るために大いに役に立ったのかも知れません。

時が経つと、サピエンスがサピエンス社会の中だけで生きていけるようになってくる。するとサピエンス同士内の序列が重要になり、今のように「いい人」は損をするようになってしまったのかも知れません。


女の人へのアンケートで好みの男性像を「優しい人」って答えてたりしてるのをよく見かけますよね?
だったら新宿西口地下道の段ボールハウスに暮らすような男たちを女性は好きになりそうなのですが、ところがどっこい、自らを貧乏にしてしまう深い「優しさ」を持つ男たちを女性は好きになんかならない。イケメンではない限り。
この現実。

また、子供が生まれた親が「優しい子に育ってほしい」と言うのもよく聞きますよね?
だったら新宿西口地下道の段ボールハウスに暮らすような人間になることも親の願いになりそうなのですが、全くもって全然、競争で道を譲るような深い「優しさ」を持つ人間なんかに育って欲しくないのです。豊富な財産と地位を持っていない限り。
この切実。


お人好しの貧困者はますます苦しくなって行く、そんな地獄から脱出したい。
しかし苦しみは蓄積するばかり。
怒りと悲しみ果てにルサンチマンと化し、優しくていい人でお人好しの私はこの世を呪う邪悪な鬼のようになってしまいました。

呪いを克服して卒業した人は「キレイ」になれますが、ルサンチマンを無きものとして克服することなんて無理のような気がしました。




私は描くことで闇の中に一筋の光を見つけようとしていました。
何年も何年も描き続けてくうちに、本当に光のようなものを見出せるようになってきました。



呪いの闇を抱えながらも希望の光を描くのは「美」である。それは「キレイ」なだけとは違う。

痛みを伴いながら私は「美の使者」として生きる決意がある。
とは言うものの、それは単なる「ナルシシズム」だったりするのですが。


だから、もう、本当は卒業したいんですよ。さよならネガティブ。

そこにはまた一皮剥けた「美」があるはず。

原爆についての絵空事

ネット世界の片隅で拾った画像

防弾少年団が原爆のTシャツを着て云々というニュースが少し気になってますが、詳細があんまりよく分からないのでなんとも言えない状態です。

ですが、ユヴァル・ノア・ハラリが「サピエンス全史」「ホモ・デウス」で原爆(核)が人類に平和をもたらした、と言い切っていて、それに対し、ユヴァル・ノア・ハラリ級の知性と理性で批判を述べてる日本人は今のところ見かけないんですね。
私もその「核が平和をもたらした」という部分だけは相当にモヤモヤするのですが、著者を批判できるだけの知力を持ち合わせてないことを自覚するばかりで。

原爆Tシャツに対しては感情的に反応してるのが多いですよね?

結局、右翼と左翼の対立の可視化に回収されてく、みたいな。
例えば、百田尚樹が腹を立ててるなら、きっとそれは感情論でしょうもない批判だから逆に回ろう、とか。

ひょっとしたら日本人って、というか私って、もう、ちゃんと知性と理性で原爆について述べられなくなってるのかも知れない。

基本的に原爆も原発も反対なんです。
ただ、それはどこか教科書を暗唱するような部分があることも否めないんです。
考えを掘り下げるとすぐに矛盾にぶつかってそれを解決できないんです。どこか「モゴモゴ・・・」ってなってしまう。

もし、日本人が原爆について何か表現するならば、きっと映画『この世界の片隅に』のように、「ひたすら日常を生きてる」とか、言葉にしにくい根源的な何かを圧倒的な表現力を使ってでしか現せないのかも知れません。

そのじれったさに耐えられないと、単純な感情表出に乗っかり、YesとNoの対立構造に陥ってしまうのかも知れません。

と、ここまで書いてみて、何か有用な結論に辿り着かないままに、その思考はわだかまりを残しつつ雲のように流れて行くのですが。

『この世界の片隅に』レベルまで行けなかったとしても、根源的な何かに向かって行くしかないなあ。

美の使者としてちょっとずつ


SNSやブログにアートの事をどんどんアップしたいと思ってる。

まずはアート情報、世界中にはいろんな作品があるって事を自分も驚きながらシェアしたい。

それから、時事問題のニュースに対しては、それを使って自己主張をするのではなくて、アートとして捉える事は可能か?とか、表現として見るとどうなのか? とか、を言語化出来たらなあってずっと思ってる。

例えば、こんなツイートがあった。


この映像を見た時に、「海にゴミを捨てるのはけしからん!」と語る方が正しいけど、上記のツイート同様に私もこのゴミは美しく見えてしまう。

しかし、これはゴミが美しいのではない。
波や光の加減で浮遊するゴミがちょうど綺麗に見えるタイミングで撮ったものだ。

この撮影中、カメラマンは海洋プラスチック汚染に対する義憤でカメラを回してるのだろうか?

「あれ! ゴミ袋が綺麗に見えるわー、いい絵が撮れるぞ!」と、思わずちょっと感動したりしてたかも知れない。

「美しさ」はやはり善悪とは違う。正義の主張とも違う。

正義を主張し合う対立に、違う次元へのシフトを促す可能性を「美」は持っていると思う。

そんな事をアップしていけたらなあと思う。

そもそも作品とは、人間に向けて作られたのだろうか?(羽化の作法73)


「そもそも作品とは、人間に向けて作られたのだろうか?」
という問いかけがあります。

「神々(または神秘)に捧げるために描いてる」という気持ちが本当にあるからです。

「祈りを捧げる」ことと「描く」ことはかなり同じです。
それは特定の既存宗教への信仰という意味ではなく、祈りを捧げる行為と描く行為は抽象的に重なる部分がかなりある、という意味です。

「行為」に重きを置く。「描かれた作品がどうであるか」、と言うよりも「描く行為」にフォーカスしようとする状態です。
作品を完成させる為に必要なプロセスとして描く動作が必要、という完成が「主」で過程が「従」的な視点ではなく、描く行為がそもそもあって結果たまたま絵が完成している、という過程の方が「主」で完成は副次的なもの、という見方なのです。

過程・行為を主とする在り方には「祈り」の要素が濃く入っていて、そしてそれは、人間に向けられているというよりも、どこか神々のような超越した世界や人智の及ばないものに向けて捧げられているような感じがするのです。

なので、「作品をただひたすら作ること」を目的とする人がいるのも分かるのです。


こんなツイートを見かけました。



きょうびの成功論として「まずはアウトプットを大量に!」が定説になっているようです。
例)「アウトプット格差」http://www.ikedahayato.com/20181103/77441601.html

しかし、目的はその先の「心を動かす」ことだよ、と言う大人な見解が上記のツイートです。とてもシンプルで「なるほど!」と思う。本当に正しい。


そして、しばらく時間が経って、ふと、
「待てよ? そもそも作品って人間同士だけのものだったのだろうか?」と思ったのです。
(決してツイートへのDisりではございません)

作品って「人間ではない何かに捧げる」というのが奥の方にすごく広がってないだろうか?
そんな風に信じるのは私だけなのだろうか?


ここで言われている「アウトプット」も「人の心を動かす」も人間社会の話で、社会の外側にあるかも知れない神秘の領域と関わる話ではない。

なので「アウトプット」も「人の心を動かす」も社会で生きるノウハウなので聞き入れた方がいい。
ここを無視すると結局社会に受け入れてもらえずに自分が苦しむ事になりますし。
社会としっかり繋がると結果、やっぱり作品も売れてくる。
売れることはとても良い事なんです。


ただ、「アウトプットする」は「描き続ける」という「祈り」のような「状態をキープ」する信仰の側面からも捉えることができるので興味深いなあと思ったのです。

1・アウトプット・描き続ける、目的は「人の心を動かす」。
2・アウトプット・描き続ける、目的は「神々の領域に捧げる祈り」。

「神々または超越的な何か」に捧げる方向に向かいすぎると、売れなくなってしまう危険性がある。そして売れない作品に対して「これこそ崇高な芸術」と崇めて過ぎても、売れない芸術家の怠慢さを助長するだけになってしまう。


けれど、どこかに人間や現世を超越した神秘に向かって作品を捧げたい自分は存在している。

「描く事は祈り。」この信仰を持ちながら、ちゃんと喰えるようでありたいです。

羽化の作法[73]現在編 そもそも作品とは人間に向けて作られたのだろうか?