USENの機材でチャンネル一覧を見てたらまさかの矢沢永吉専門チャンネルが。さすが世界のYAZAWA…。一大ジャンルYAZAWA…。シャンソン、森林浴、YAZAWA…。 pic.twitter.com/JFWIFjwhxj— 左官竜一郎(サカン)@世界の打楽器 (@wyrm06) 2019年2月1日
矢沢永吉は、個人であるのだが、もはや個を超えてひとつのジャンルとしてUSENのチャンネルとなっている、と(笑)
リツイートした後に私はこうツイートしました。
RT— 武 盾一郎【線譜】音楽を描く (@Take_J) 2019年2月2日
もはやジャンルってすごいな(笑
「個人」ってなんと言ったらいいか、近代の病みたいなところある気がしていて
その向こうって無いのかなあってずっと薄ぼんやり考えてたりします
私たちがそれぞれ「個」であるという常識は、ある意味「近代」以降の産物です。近代社会システムは個という幻想を作る必要があったのですよね。
茂木健一郎さんの動画 #もぎけんの意識ばなし でこう話されています。
「たった1人の掛け替えのない私というフィクションがどれくらいの有効性と普遍性を持つのかちゃんと考えないといけないと思うんです。」
(自己の同一性は社会的に規定されているか。)
そこで「私」について考えをツイートしてみました。
ひとつは、— 武 盾一郎【線譜】音楽を描く (@Take_J) 2019年2月2日
私って複数あって、
例えば、そのうちのひとつが誰かのひとつと共有されていて、ひとつのノードとなっている
それらがネットワークされてるイメージです
今、5個の私があったとしたら— 武 盾一郎【線譜】音楽を描く (@Take_J) 2019年2月2日
それら5個は各々が誰かの一つと同一ノードである、と
そのノードはくっ付いたり離れたりしてる
また、5個あった私が3個に減ったり20個に増えたりする。
また、— 武 盾一郎【線譜】音楽を描く (@Take_J) 2019年2月2日
くっ付くノードは人間とは限らなくて
アニメでもいいし、アートでもいいし、またはドラッグだったりもする。
依存症とは、私の数が少なくて、例えば1個とかしかなく、とても強いリンクを形成してる状態を指す、とか。
私とは時間で変化する複数の私のネットワークである、と。
物理的な身体の私がひとつなので、私は一つと思いがちだけど、— 武 盾一郎【線譜】音楽を描く (@Take_J) 2019年2月2日
フラクタルな複合体で、
アイデンティティとか自我といった中心軸は実は存在していない。
そう考えると、
この物質的に存在しているたったひとりの私という物理空間的現象に対して、とても愛おしく感じたりもします。
図を書いてみた。
例えば、「身体的な私」には私が5つあるとする。
- 「私1」〜「私5」それぞれのノードは強力にネットワークされている。
- 私1〜n はそれぞれ無くなったりすることもあるし増えることもある。
- 私1 〜nのネットワークが途切れてしまうこともある。(解離性障害)
- 依存症とはネットワークが少なく、故に結びついたノードと強く繋がり過ぎてしまう状態か?
- ノードがなんのネットワークも形成しないで浮遊してることもある。
- ノードが連なってはいるが、閉鎖する境界を持たないこともある。(幽霊?)
以上のような感じです。
いずれにせよ、中心に<私>という一つのアイデンティティがあるわけではない、とするイメージです。
他者ともネットワークで繋がり、そして「身体私」の中でも複数の私がネットワークされています。
「私1」の中もネットワークがあって、フラクタルにマトリョーシカのように入れ子が続いて行くのかも知れません。
ひょっとしてそうすと数学的な構造なので計算可能になるのかな?
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