矢沢永吉はジャンルである

こんなツイートを見ました。



矢沢永吉は、個人であるのだが、もはや個を超えてひとつのジャンルとしてUSENのチャンネルとなっている、と(笑)

リツイートした後に私はこうツイートしました。




私たちがそれぞれ「個」であるという常識は、ある意味「近代」以降の産物です。近代社会システムは個という幻想を作る必要があったのですよね。


茂木健一郎さんの動画 #もぎけんの意識ばなし でこう話されています。
「たった1人の掛け替えのない私というフィクションがどれくらいの有効性と普遍性を持つのかちゃんと考えないといけないと思うんです。」
自己の同一性は社会的に規定されているか。


そこで「私」について考えをツイートしてみました。









図を書いてみた。


例えば、「身体的な私」には私が5つあるとする。

  • 「私1」〜「私5」それぞれのノードは強力にネットワークされている。
  • 私1〜n はそれぞれ無くなったりすることもあるし増えることもある。
  • 私1 〜nのネットワークが途切れてしまうこともある。(解離性障害)
  • 依存症とはネットワークが少なく、故に結びついたノードと強く繋がり過ぎてしまう状態か?
  • ノードがなんのネットワークも形成しないで浮遊してることもある。
  • ノードが連なってはいるが、閉鎖する境界を持たないこともある。(幽霊?)


以上のような感じです。

いずれにせよ、中心に<私>という一つのアイデンティティがあるわけではない、とするイメージです。
他者ともネットワークで繋がり、そして「身体私」の中でも複数の私がネットワークされています。
「私1」の中もネットワークがあって、フラクタルにマトリョーシカのように入れ子が続いて行くのかも知れません。


ひょっとしてそうすと数学的な構造なので計算可能になるのかな?



0 件のコメント: