【羽化の作法 115】現在編 作品に過程の記憶は宿るのか?


「線画(ドローイング)」の面白さに、「過程」ってのがあります。

例えば、「円の線画」を表現したいとします。まずは丸い形になるように、紙に鉛筆か何かで線を引こうとしますよね。またはフリーハンドではなくて、コンパスを使うのアリですよね。

結果として紙に丸い線が描かれていればいいのならば、パソコンを使ってイラストレーターかなんかのソフトで円を描いてプリントアウトしても良いでしょう。
また、メディアが紙でなくてもよいならば、パソコンの画面上に円が描かれた線画の画像でも良いですよね。

もしホログラムみたいに空中に円を投影したければ、そういう装置を使っても良いかも知れませんね。

それから、誰かに「円の線画」を発注しても、結果としては「円の線画」を表現したことになります。「円の線画」を表現するといっても、このように様々あります。

それでですね、線画(ドローイング)の「面白さ」はそことはちょっと違うところにあります。

鉛筆でもペンでも良いのですが、筆記用具を持って紙に線を引いていく時の、紙に触れた時の感触、墨やインクならばその仄かな匂い、紙の上にペンを移動させている時のちょっとざらざらとした抵抗感、擦れる音の質感、ペンが紙の上を移動した後ろに線が痕跡として残ってゆく様の不思議さ。

そういった一瞬一瞬のたびに湧き上がっている視覚、聴覚、触覚、嗅覚などの質感の面白さや不思議さにこそ、描画の楽しさがあるのです。

前者は「円の線画」というゴールを設定したらあとは自由に考えるやり方です。
後者は「円の線画」を描くことに限定されるのですが、結果よりも行為そのものに目的があり、「円の線画」は経緯の集積として現れます。

一般的に「円の線画」を描く場合、いかに綺麗な「円の線画」を描くかが課題になります。仕上りの「結果」に重点が置かれているわけです。

まあ、当然と言えば当然なのですが、今回私が注目したいのは「結果」ではなくて「過程」の方なんですね。

絵画は時間芸術ではありませんが、そこには永い時間が封じ込められています。一枚の「線画」には描かれた時間が線として積み重なっていて、その時間の旅はたった一瞬で見渡せます。

そして画面からは静かに時間が染み出してきて、音楽を感じさせてくれるのです。そんな「線画」を描きたいわけです。そしてそれを私は「線譜」と名付けているわけなんです。

とは言うものの、通常仕上がった絵画作品から制作過程の息遣いを感じるのは難しいものです。そもそも制作過程のクオリアを共鳴させようとするコンセプトで、絵を描く人はそんなに多くはないでしょう。

絵で伝えたいのは基本、描かれた「内容」や「意味」ですから。

むしろ「書道」の方が書いている瞬間の感覚質感を表現しているのでしょうね。なので「書道」って私からしたら「線画」なんです。

例えば、ジャクソン・ポロックはドリッピング、ポーリングで絵の具を垂らしたりして描いてます。

文脈的には「絵の具そのものを見せた」と語られていますが、垂らした絵の具が堆積した様が結果としてキャンバスにあるという「過程が表現された絵画」でもあるわけで、私的にはとっても「線画」なんですね。

The Case for Jackson Pollock | The Art Assignment | PBS Digital Studios


「線画」は描いている「過程」の感覚質感の集積である。

もちろん「結果」も重要ですが、「線を描く瞬間瞬間に立ち現れるクオリアと存分に戯れる」ことは「マインドフルネス」的です。


●まったく同様の複製品は過程の記憶を持つのか?


さてここで、ちょっとした疑問が湧いてきます。

線を引く過程を存分に味わいながら描いた線画があるとします。
例えばこんな線画だったとしましょう。私の描いた描きかけの線譜です。



そして、この絵と全く同じ複製品を作るとします。
紙のとペンの素材を原子レベルまでスキャンし、物質的に全く同じに再現できる3Dプリンターで「ウィ〜ン」と出力されたとします。

この場合、原画作品とプリントされた複製品の二つの作品に違いはあるでしょうか?
「結果」として並べられた作品は物質としては同じです。違うのは「過程」です。

原画はペンを紙に滑らせている一瞬一瞬の感触とか、バランスを見ながら次にどう描くか考えている瞬間の思考などが、線という痕跡となって積み重なっていきます。
複製品はプリンターから「ウィ〜ン」って、端っこから順々に形成されていきます。

「過程の記憶」と「作品に籠められた魂」と言う概念を軸に、4パターンを記すとこうです。

1:複製品にも過程の記憶が入り「同じ」になる


複製された作品にも描いた過程で味わっていた一瞬一瞬のペンを動かす感触の記憶が畳み込まれている。つまりは同じ物質状態なら複製品にも「作品に籠められた魂」が入るんですよ。


2:原画にも複製品にも過程の記憶なんて入ってないので「同じ」


過程におけるクオリアは描き手の中にあるわけで、そもそも原画に過程の記憶なんて畳み込まれてるわけがない。そして、物質として同じなら同じでしょう。
「入魂の作」とは言うけれど、それは魂が入ってるのではなくてそのように解釈して楽しんでいるだけなんですよ。


3:原画には過程の記憶があり、複製品には過程の記憶はないので、オリジナルと複製品は「違う」


やっぱり人間が作らなければ作品に魂は入らないんですよ。いくら物質として同じにしたとしても、魂は原画に宿り、複製品は抜け殻なんです。


4:過程の記憶なんて存在しないが、事実として製作工程が違うので「違う」


作品に「過程の記憶」や「魂」なんて入ってはない。作品に魂が宿ると捉えて楽しむのはいいけれど。事実として、製作工程が違うからオリジナルと複製品は違う。それだけのこと。


なんだかどれでも当てはまりそうな感じがしてしまいますが、あなたはどう思われますか?(つづく)


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日刊デジタルクリエイターズ「羽化の作法[115]現在編 作品に過程の記憶は宿るのか?── 武 盾一郎 ──」より

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