『古代人と夢』をライフハックに

ネズミに恋したネコのタムちゃん(2022)

古代人と夢』を読んでライフハックにしてみる


上記の本は文献から昔の日本人は夢をどのように扱ってきたかをまとめた良書なのだが、それらを日々の自分の暮らしに活かすライフハックに翻訳してみた。


夢には2種類ある(仏教伝来以降)
まず、夢には大きく分けると2種類ある。
  • 日常で見る夢
  • 儀式的に見る夢

仏教が日本に入ってくる以前は「夢」は私が見ている個人的なものではなく、
空とか雲とか山とか、そ言ういう「公」的なものだったようだ。
起きて見てる風景と、寝て見てる風景に違いがなかったのであろう。

日本は「仏教」によって「私」という概念を獲得したのである。

そして、上記の二つの夢は意味というか役割が違っている。

日常的に見る夢は基本的に「五臓のわずらい」で内臓の状態が夢に現れる


夢とは内臓の状態を映し出すモニターである、と。
「夢判断」は夢に出てきたアイテムが象徴する意味を特定していく。それは現代で言えば科学的というより「占い」のようなものである。

太古の昔はどうだったか?
「夢には意味があるのではなくて内臓の状態ですよ〜」と言っているのである。
心理学的な夢判断よりも、むしろ科学的な感じすらある。


儀式的に見る「魂の夢」


ここで、昔の人の言う「心」と「魂」の違いを見てみよう。
なんとなくだけど、現代だと「心」も「魂」も実体の無いもので似たような感じがする。
例えば、「心をこめて」と「魂をこめて」の意味は同じである。
ところが昔は「心」と「魂」は全く違う。
  • 「心」は自分の内臓にある。
  • 「魂」は私とは関係ない。
以上のようにハッキリしている。
つまり、日常で見る「夢は五臓のわずらい」は、心で見る夢のことなのである。

そして、儀式的に見る夢は「魂の夢」で、これは私の内臓(心)が見せてるのではく、
向こう側(神々の世界)からやってくる夢で、とっても他者的なのだ。

「命は魂の分霊(わけみたま)」で、
私たちの命は、神々の世界からいっとき借りてるようなもので、私のものではないのだ。魂は私たち人間のコントロール下にはない。
きっと日本で尊厳死が受け入れられにくいのは、そういった死生観が無意識レベルであるからだろう。

話を戻して、
この儀式的に見る夢にこそ「予言」が含まれている。
そして儀式的に夢を見に行くことがそもそもの「お詣り」なんだそうだ。

つまり、「お詣り」というのは原初的には、
  • 夢を見に行く為に聖地を訪れる旅をし、
  • 夢を見るために穀断ちをして「五臓のわずらい」を払い、
  • 夢を見るための聖なる建物(洞窟などの自然の場合も多い)に籠る
のである。

お詣りの為に行く旅はお清めでもあったのだ。旅自体が命がけだったのだろうから修行に近い。旅は「五体投地」のようなものだったのだろう。
それが徐々に簡易的となって各地に詣る場所が増えた。
「富士塚」を造って富士山まで行かなくても富士山と同じ御利益を受けられる、みたいな。
なので、大昔から儀式神事もどんどんコンビニエンスにしてるわけで、「科学が発展した近代以降、信心が薄っぺらくなったから」というワケでもないのであろう。

現地に着くと聖なる特定の場所、建物であるとか洞窟であるとかに籠り、特定のものしか口にしない「断食」のようなものを行う。
ひとつは内臓を清め「五臓のわずらい」を無くす為だろう。
また、断食によって夢というか「幻覚」を見やすくしてあげる効果もあったのかも知れない。幻覚は現実以上にリアリティがあるし。

こうして昔の人々は「儀式的に見る夢」によって未来を占ったのである。
これはかなりガチで、為政者による政治判断や、聖職者自身の身の振り方、武将が戦(いくさ)をどうするか、など重要なことを儀式的に見る夢で決めていて、「おいおいそんなこと夢で決めて大丈夫なのか?」と思ってしまう。

ここでちょっと面白いのは、「魂は私とは関係ない」と先ほど書いた通り、実はこれ自分で見なくても良い。
この「儀式的な夢」を代わりの専門家(魂、神の世界に通じることができる人)に見てもらうこともできるのだ。
ここに「魂」と「心」の扱いが先人たちと現代人ではまるで違っていたことが伺える。

ここで、さらに興味深く、重要なことがある。
それは、

最も重要なことは夢の内容ではなく「夢解き」。


心理学や占いの夢判断のように夢の内容が意味として固定化されてるのではなく、
「見た夢をどのように解くか」の方が重要だったことである。

え? どゆこと?
と一瞬思うかも知れない。

儀式で見た夢自体は神様が見させてくれた無味のものであるが、
そこに専門家が「意味」を与えるのである。
つまり、「夢の解釈」で未来の超重要な判断をしたのである!

え? 夢の内容どうでもいいの?? 的なのだ!

これはとても重要なことで、
例えば、A家と敵対してる武将Bがいたとする。
武将Bは「そろそろいくさかなあ・・・、でも勝てるかなあ・・・」などと悩んでいたとする。

そこで武将Bは夢儀式を執り行う。
儀式と穀断ちで内臓・心を整えて、夢殿に籠る。
そこでこんな夢を見た。
「A家から弓矢が三本飛んで来て武将Bの城に刺さる」

これをお抱え占師に伝えると、夢解をする。
「Bお殿様、これは大吉夢でございます。矢は幸運の印、それらが三つもAからこちらBにやって来たのです!」と。

武将Bは「うむ。そうか。」と腹を決め、
実際に戦に勝ちA家の土地をゲットしたのでした。
めでたしめでたし。
みたいなことが記録にあるそうである。

これ、「A家から武将Bに弓矢が飛んでくるなんて不吉じゃん!」って普通は思ってしまいそうなところ、
「夢解き」で解釈を逆転させて、武将の心がポジティブになって戦に勝つ。
みたいなことですよね。

ちなみに、有り難い「夢解き」は売買できたそうだ。
現代の感覚だとちょっとピンとこないけど、
儀式で見る夢は自分由来ではなく神様からのお告げであり、
そこで行われた「有り難い夢解き」も、私のものではないのである。
資本主義的な所有の概念も無かったし。

ひょっとしたら、漫画本や小説本といったコンテンツが自由に売買できてる現代と似ているのかも知れない。
夢解きと同様、コンテンツとしての物語にも未来を変えるパワーがある。
現代のコンテンツにある資本主義的な「消費」がまだ無かった頃のエッセンシャルで濃い「物語」が「夢解き」なのだろう。


この「解釈こそ全て」みたいなのは、翻って現代脳科学の理に適ってるところがあって、
「若いと思い込んでいる人は本当に脳が若い」と言う記事がある↓
気持ちが若い人たちは、脳も本当に若かった:研究結果
「昔の迷信」と「現代脳科学」の共通点がむしろここにある。

古代人たちは儀式的な夢を見てそれを魂のお告げとし、「夢解き」で進む未来を決めた。

現代科学で分かっていることは、自分の思い込み次第で結果が変わってしまうということ。
例えば、運が良いと思ってる人は実際に運が良い現実を引き寄せる実験報告があったりする。

現代の占い師さんの役割も、
「占いで出てきたことを上手に解釈してクライアントさんの気持ちをポジティブに転換させ、望みを叶えるサポートをする」と言う意味で、太古の昔から変わらないのである。

脳の挙動を太古の昔から人類は知っていて、その根源的なところは何も変わってないのである。

ただ、儀式的な夢を見る場所や儀式、夢を解く人などが限られていた古代と違って、現代では誰もが夢解きができて自分の人生に活かすことができる。

私たちは「見るもの」、「聞くもの」、「感じるもの」を
自由に、好きなように解釈できる。
そして、その解釈通りに生きてしまうのである。


だったら、
「この世界は幸福に溢れている!」
天真爛漫に思っていた方が良いよね。


最後までお読みいただき有り難うございました。
あなたの気持ちを少しでも楽にできたら幸いです!


0 件のコメント: