「近代の超克」のヒントは「意識のハードプロブレム」にある

「我思う、ゆえに我あり」を近代の幕開けとしたならば、
「近代の超克」という課題のヒントは
「意識のハードプロブレム」にある。


デカルトの「我思う、ゆえに我あり」は、
疑いようのない「私」を発見した言葉である。

世界を疑うことはできる。
感覚を疑うこともできる。
目の前のものが本当に存在しているのかを疑うこともできる。

けれど、疑っている私がいることだけは疑えない。

この「疑いようのない私」から、
近代は始まったといわれている。

けれど、ここでひとつ大きな問いが残る。

では、その「私がある」という感覚そのものは、
一体何なのだろうか。

私が私である感じ。
世界が私に現れている感じ。
赤を見る感じ。
痛みを痛みとして感じること。
美しいものに触れたとき、胸の奥で何かが震えること。

これらは、たしかにある。

しかし、それがなぜ生じるのかは、
現在の科学でもまだ十分には説明できていない。

脳の働きを調べることはできる。
神経の信号を測ることもできる。
情報処理の流れをモデル化することもできる。

けれど、そこからなぜ「主観的な経験」が生まれるのか。

ここに、意識のハードプロブレムがある。

考えてみると、これはとても不思議なことである。

私は、「近代の超克」という課題のヒントは、
「意識のハードプロブレム」にあるのではないかと思う。

近代を超えるとは、
一人称の経験そのものへ向き合うことなのではないか。

「私が世界を見ている」ということ。
「私に世界が現れている」ということ。
「私が感じている」ということ。

アートは、クオリアを扱う行為である。
線や色が何かの気配を帯びて立ち上がる。

人は作品の前に立ったとき、
何かを感じている。

その「感じ」は、完全には説明できない。
けれど、たしかに起きている。

同じ作品を見ても、
ある人には懐かしさとして現れ、
ある人には不安として現れ、
ある人には美しさとして現れ、
ある人には祈りのようなものとして現れる。

作品は他者の意識の中で、
別の現れ方を始める。

これもアートの面白さである。

「我思う、ゆえに我あり」から始まった近代は、
考える私を発見した。

アートは、
「感じる私の不思議さ」を扱っている。

その意味で、アートは、
「意識のハードプロブレム」の実践でもある。

なぜ感じるのかは分からない。
けれど、感じている。

この「分からないが、たしかに起きている」という場所に、
創作の根がある。

近代が「考える私」を発見したのだとすれば、
その「考える私」を感じているもの、
つまり「クオリア」の不可思議さの中にこそ、
「意識のハードプロブレム」と、
「アート」と、
「近代の超克」が交差する地点があるのかもしれない。



2022年8月22日に書きかけだったブログ記事を更新

・我思う、ゆえに我あり/ルネ・デカルト(1596~1650)
・神は死んだ/フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(1844~1900)
・現象学/エドムント・フッサール(1859~1938)
・受動意識仮説/前野隆司(1962~)
・意識のハードプロブレム/デイヴィッド・チャーマーズ(1966~)
・計算機自然/落合陽一(1987~)


現象学



魔法の世紀/落合陽一



受動意識仮説/前野隆司



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