「あれっ、富士山。」
上尾駅の改札を出て西口に向かって歩くと、モンシェリーの上に富士山が見え、
思わずそう口にしてしまう事がある。
この言葉って、考えてみるとすごく不思議だと思う。
普段は何気なく使っているけれど、いったい誰が見ているのだろう。
もちろん、実際に見ているのは私なのだけれど、文章の中には「私」がいない。
「私は富士山を見た」なら、まず私がいる。
私という主体がいて、その向こう側に富士山という対象がある。
そして私が目を向け、富士山を認識する。
ところが、
「あれっ、富士山。」
となると、ちょっと違う。
富士山の方が世界の中に現れてきたような感じがする。
私はこの感覚が、とても気になった。
「トンネルを抜けると、そこは雪国だった」
それで思い出したのが、川端康成の『雪国』だった。
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
この文章も不思議だ。
誰が見たのだろう。
もちろん小説には登場人物がいて、列車に乗っている人物もいる。
けれど、この文章そのものには「私は」がない。
誰かが雪国を発見したというより、トンネルを抜けた瞬間に、世界が雪国になったように感じる。
トンネルのこちら側と向こう側で、世界そのものが切り替わった。
そういう文章になっている。
これは単に、日本語では主語を省略できる、という話だけではないような気がする。
もっと深いところに、世界をどう捉えているのかという違いがあるのではないか。
「占い師が当てた」のではなく「占いが当たった」
少し前に、似たようなことを感じた言葉がある。
「占いが当たる」だ。
これも面白い。
私たちは、
占い師が未来を当てた。
とはあんまり言わない。
もっと普通に、
占いが当たった。
と言う。
ここでも、人間が後ろに退いている。
占い師が主体なのでもない。
それを信じた私が主体なのでもない。
「占い」というものが、そのまま世界の真ん中に出てくる。
そして、当たる。
これ、よく考えてみると、なんだか妙な文章である。
でも日本語としては、まったく妙ではない。
むしろ普通に使っている。
ここにも、「誰かが何かをした」という世界とは少し違う世界の立ち上がり方がある。
誰が世界を見ているのか
物語を書く時には視点を考える必要がある。
一人称なら、「私」が世界を見る。
三人称なら、「彼」や「彼女」の行動を語り手が描いていく。
あるいは、全てを知っている語り手が登場人物たちを眺める、いわゆる神の視点もある。
でも、「山が見えた」という文章を考えていると、そのどれとも少し違うように思えてくる。
では、誰が見ているのだろう。
神なのだろうか。
でも、神が上空から全部を見ているという感じとも違う。
むしろ、見ている誰かが消えてしまっている。
誰かが世界を見ているのではなく、世界が、そのまま立ち現れている。
そんな感じがする。
つまりこれは、「視点」の問題というよりも、もっと根本的な、「世界はどうやって現れるのか」という問題なのかもしれない。
世界は目的と結果だけでできているのか
ここから、少し違うことも考えた。
現代では、何をするにあたっても、まず「目的」を決めることが重要だ。
目的があるから、具体的な目標を立てられる。
目標を立てたら、そこから逆算して、何をすればいいかを決める。
そして行動して、結果を得る。
これは、とても合理的だし、必要なことだと思う。
偏差値がいくつになった。
フォロワーが何人になった。
年収がいくらになった。
絵が何点売れた。
営みが点数になって、私たちはずっと点取りゲームをしているようにも見える。
でも、
あれっ、富士山。
という出来事は、それとはずいぶん違う。
山を見るという目標を立てて、そのために山の方向へ向かい、予定通り富士山を確認した、という話ではない。
何となく歩いていた。
あるいは車に乗っていた。
雲が切れた。
建物の間が開いた。
そして突然、
あ、富士山が見えた。
となる。
そこには、目的意識や目標達成とは違う何かがある。
「マウスが死んだ」という日本語
一方で、日本語のこうした性質には、良くない面もある。
以前、誰だったか全く覚えてないが、海外で研究をしていた理系の先生の話を聞いたことがある。
実験でマウスを使っていて、何かの事情でマウスが死んでしまった。
そうすると日本人の学生は、
先生、マウスが死んでしまいました。
と言ってくる。
けれど英語では、場合によっては「I killed,,,」という形で、行為者をはっきりさせなければならない。
その先生は、日本語の思考では責任の所在が曖昧になりやすい、という趣旨のことを話していた。
これは確かに、その通りだと思う。
「壊れました」と「私が壊しました」は違う。
責任を明確にしなければならない場面では、誰が何をしたのかを曖昧にすることは問題になる。
だから、日本語の主体の消え方を、何でも素晴らしいと言いたいわけではない。
ただ、その欠点とは別に、そこには別の世界の捉え方も残されていると思う。
これは神話の世界に近いのではないか
私は、この感じがとても神話的だと思った。
神話では、必ずしも誰かの目的によって世界が始まるわけではない。
最初に何かが現れる。
天地が分かれる。
神が生まれる。
海が生まれる。
島が現れる。
光が生まれる。
「なぜ、それを作ろうと思ったのか」という目的より前に、まず世界の出来事がある。
現代人の感覚では、「誰が」「なぜ」「何のために」と聞きたくなる。
でも神話は、必ずしもそこを説明しない。
何かが現れた。
そして世界は、そこから始まっていく。
だから神話の世界には、人間中心ではない時間が流れているのかもしれない。
十三月世の物語で大切にしたいこと
このことを考えていて、私は『十三月世の白雪姫』を書く上で、とても大切なことに気がついた。
これは単に、「三人称で書こう」とか、「神の視点で書こう」という話ではない。
もっと根本的なことだ。
十三月世という世界そのものが、そういう立ち上がり方をする世界であってほしい。
登場人物が世界を攻略していくのではない。
物語のすべてが、登場人物の目的と行動と結果によってだけ進んでいくのでもない。
森が現れる。
道がなくなる。
風向きが変わる。
誰かの名前が、どこからか聞こえる。
林檎が転がる。
思いがけない人と出会う。
そして、その出来事によって登場人物自身も変わっていく。
「主人公が世界を見る」のではなく、主人公もまた、立ち現れてくる世界の中にいる。
人物も、森も、精霊も、出来事も、同じ世界の中から現れてくる。
そういう感覚を、物語全体のキャンバスの下地のように染み込ませたい。
世界の方から、こちらへやってくる
考えてみれば、人生の中で強く記憶に残っているものは、案外、目的を達成した時だけではない。
偶然見えた景色。
たまたま入った場所。
思いがけず聞いた言葉。
予定していなかった出会い。
そういうものが、後になって自分の人生を大きく変えていたりする。
それは、こちらから世界を取りに行ったというよりも、世界の方から何かがやってきたように感じる。
「山を見た」ではなく、
山が見えた。
その違いは、思っていたよりずっと大きい。
世界は、私たちが目的を決めて攻略するためだけに存在しているわけではない。
世界は、こちらの予定とは関係なく動き、ときどき、思いがけない姿をこちらに見せる。
そして私たちは、その世界の中で生きている。
十三月世の物語を書く時、私はそのことを忘れないでいたい。
物語の登場人物たちよりも先に、世界がある。
そして世界は、ときどき、彼らの前に姿を現す。
「あ、山が見えた。」
そのくらい自然に。
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