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| ガブリエル・ガブリエラ『ティリアのお城 — 氷砂糖の湖で —』(2015) |
映画『ちいかわ 人魚の島のひみつ』を観て引っかかった場面がある。
ヒトハとフタバが、人魚の肉を食べる場面だ。
瀕死の重傷を負ったフタバを助けるため、ヒトハは人魚を殺し、その肉をフタバに食べさせる。
フタバはほとんど意識のない状態で人魚の肉を口にし、意識を取り戻す。
そして、自分に何が起こったのかを知る。
ここからのフタバの行動に、私は引っかかった。
フタバはヒトハにも人魚の肉を食べるように求める。
ヒトハは嫌がって抵抗する。
それでもフタバは、ヒトハにも食べさせようとする。
私はその場面を観ながら、
「自分がフタバだったら、こんなことはしないよなあ」と思った。
「あなたも食べて。一緒に生きよう」
とは言うと思う。
でも相手が嫌だと言ったら、私には無理やり食べさせることはできないなあ、と。
映画を観終わって、ヤヨちゃんにこの話をしたら、あっけらかんと、
「私がフタバだったら? 私もヒトハに食べさせるよ」と言った。
私はけっこう驚いた。
てことは、フタバはヤヨちゃんと同様に女性なのかな、、、?
ヒトハが抵抗するのも
「え?」と思った。
人魚を殺す程の覚悟だったわけで、フタバに食べさせた後、
自らも食べて、共に「永遠の命」になろうとするよなあ、、、と。
そこでふと、自分たちガブリエル・ガブリエラの作品を思い出した。
「いや、待てよ。氷砂糖の湖に棲む人魚ティリアは女性だよな」
ティリアは、ガブリエル・ガブリエラの物語に登場する人魚だ。
ティリアは人間の男性ケルタスと恋に落ちる。
人魚であるティリアと、人間であるケルタスでは、生きる時間がまるで違う。
ティリアはケルタスを愛した瞬間から、いつか彼を見送ることになると分かっていたはずだ。
それでも彼を愛し、一緒に生き、やがてケルタスの死を受け入れる。
フタバとは正反対だ。
フタバはとても人間臭い。
「一人になりたくない。あなたも私と同じ時間を生きて」
と相手に要求する。
それに対してティリアは、愛する人の有限な生を受け入れる。
ティリア姐さん、なんてできた人なんだ(人魚だけど)。。。
いや、できすぎている。
そんなに人魚のティリアは達観しているのだろうか?
私たちはティリアを美しく描きすぎていないだろうか?
さらに、そのあと、もう一度フタバについて考えていたら、自分の考えにも自信がなくなってきた。
本当に私は、フタバと同じことはしないのだろうか?
確かに、映画鑑賞という安全な場所で観ていた自分は、
「相手が嫌だと言ったら、その意思を尊重するけどなあ・・・」
と思う余裕がある。
でも、
自分だけが死なない身体になり、愛する相手はそれを拒絶した。
その後どうするのだろう?
私はその人と今までどおり一緒に暮らせるのだろうか?
とても難しい気がしてきた。
私は耐えきれず、その人から離れてしまうかもしれない。
一人で誰もいない洞窟にでも籠って座禅を組んで、
自力で脳内ドーパミンを出す訓練をして、孤独の中でもドーパミンをドバドバ出して、
脳内麻薬でヘラヘラして生きれるようにしていくのではないだろうか?
ダルマ大師のように。。。
ハードル高いけど。
では、別れずに一緒にいるとしたら?
相手が先に死んでいくことを受け入れながら、一緒に生きる。
それは、ティリアが選んだ道だ。
でも、そんなことを本当に決断できるだろうか?
愛する人と出会った瞬間に、先に死なれてしまうことが分かっていて、それを完全に引き受けて、
「あなたの寿命を尊重します」
なんて、そんなに綺麗には生きられない。
そう考えた時、ティリアの見え方が突然変わった。
ティリアだって、最初から達観していたわけではないのかも知れない。
ケルタスと一緒になったとき、ティリアは言ったかもしれない。
「あなたも私と同じ(途方もなく長く生きる)身体になって」
「お願いだから、私を一人にしないで」
「私と一緒に生きて」
人魚の肉を食べれば不死になるのだとしたら、自分の身体の一部を差し出そうとしたことだってあったかもしれない。
もちろんティリアは、氷砂糖の湖に暮らす他の人魚を傷つけて、その肉をケルタスに与えるようなことはしないだろう。
だったら、自分の肉を差し出そうとしたかもしれない。
「お願いだからこれを食べて」と。
結構、ホラーだ。。
でも、ケルタスはきっと食べない。拒むだろう。
そこから二人は、何度も話したのかもしれない。
いや、話し合いなんていう穏やかなものではなかったかもしれない。
ティリアは泣いたかもしれない。
怒ったかもしれない。
「私を一人にするの?」
とケルタスを責めたかもしれない。
ケルタスだって苦しかっただろう。
愛する人が、自分の死後も途方もない時間を一人で生きていかなければならないなんて。
それを知りながら、自分は先に死ぬことを選ぶ。
それもまた残酷な選択だ。
それでもケルタスは「死なないこと」を愛の証明にはしなかった。
その代わり、
「死ぬまで君を愛する」
と、言ってたのかも知れない。
だからケルタスは、ティリアを大切にした。
最後の日まで愛しきった。
そしてティリアも、最初からケルタスの死を平然と受け入れていたのではなく、
長い時間を一緒に生きるうちに、
相手を愛することと、相手を自分と同じ存在にすることは違う
ということを、少しずつ受け入れていったのかもしれない。
だとしたら、ティリア姐さんは「できすぎた人」ではなく、
むしろ、ものすごくジタバタした人だったのかもしれない(人魚だけど)。
愛する人を失いたくなくて、泣いて、怒って、すがって、それでも最後には相手の人生を受け入れた。
私が最初にフタバへ感じた反発も、ここまで考えると少し変わってくる。
フタバの、
「あなたも食べて!」
という行為。
最初、私はそれを「わがままだ」と感じた。
でも、もし本当に自分だけが永遠に取り残される瞬間がやってきたら分からない。
愛とわがままの境界も曖昧だ。
相手を救いたいという気持ちが、相手の自由を奪うこともある。
何が正しいのか、簡単には決められない。
そして、その問いを自分たちの物語へ持ち帰ってみたことで、
ティリアとケルタスにも、今まで見えていなかった時間が生まれた。
フタバについて考えていたはずなのに、気がついたらティリアとケルタスが、以前よりずっと生々しい存在として私の中に立ち上がっていた。
『ちいかわ』から、また一つ大切なことを教えてもらった気がしている。
有り難うございます。
ナガノ先生は本当に天才



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