『ちいかわ』の考察動画がめちゃくちゃ面白くて、よく観ている。
そこでここでは、
ちいかわ「批評」を試みます。
島編のちいかわが、あまり可愛く見えなかった
8巻(映画)を観ていて、ちいかわが普段ほど可愛く感じられなかった。[1]なんでなんだろうなあ、と考えていた。
普段のちいかわは、ダメっ子ぶりが可愛い。
怖くなって泣く。
うまくできなくて泣く。
困って固まる。
ハチワレやうさぎに助けてもらう。
その「なんか小さくてかわいいやつ」としての弱さそのものが、ちいかわの魅力になっている。
ところが島編(映画)では、ちいかわが周囲よりも状況について考えている。
そして物語の中で、少しずつ何かに気づき、成長していく。
物語における主人公ムーブを始めるのだ。
すると、ちいかわが急に「普通の人」に見えてくる。
「小さくて可愛い」弱者特権性が、少し外れてしまうのだ。
弱者性が外れると、身勝手さが見えてくる
すると不思議なことが起こる。普段なら気にならないちいかわの行動が、少し身勝手に見えてくる。
フタバたちはちいかわを庇うけれど、ちいかわはフタバたちを庇わない。
モモンガに助けてもらっても、お礼を言ったりはしない。
もちろん、普段のちいかわはきちんと礼を言うキャラクターではないが気にならない。
「小さくて可愛い弱い存在」という前提があるから。
ところが島編では、ちいかわが考え、判断し、物語を動かし始める。
ヒーロー(主人公)として振る舞い、弱者特権性が薄れると、
「あれ、ちいかわって結構身勝手なヤツじゃね?」と感じてくる。
でも可愛さはちゃんとキープしてて、微妙な匙加減はさすが天才ナガノ先生。
ちいかわがヒーローになると、ちいかわではなくなる
ヒーロー物語の原則では、主人公は経験から学び、成長していく。でも、ちいかわが精神的に成長し続けたら、たぶん「ちいかわ」ではなくなってしまう。
少しずつ勇敢になり、状況を理解し、他人を思いやり、自分の責任で行動するようになる。
それは立派な主人公だけれど、
「なんか小さくてかわいいやつ」としてのちいかわとは、少し違う存在になってしまう。
「ウルウルと涙を溜めたら全て許される可愛い無能」ではなくなってしまう。
ここには、『ドラえもん』の映画版にも少し似た危うさがあるように思う。
映画になるとのび太が勇敢になり、ジャイアンが頼もしい仲間になる。普段のダメなのび太や、凶暴なガキ大将のジャイアンが薄れて、
みんながいいヤツになって感動ポルノ化するとちょっと観る気が失せてしまう。
ちいかわにも、同じ危険性があるのかもしれない。
島編で、ちいかわだけが何かに気づいてしまう
島編でもうひとつ気になったのが、ちいかわだけが、この世界の悲劇の構造に少し気づいてしまうように見えることだ。(うさぎや島二郎も、何か知っているような感じはあるが)
もしこのままちいかわが成長していけば、その先には、この世界そのものへの疑問が出てくるはずだ。
ちいかわたちの社会は、巨大な搾取構造で成り立っている。
労働して報酬をもらう。危険な討伐に行く。失敗すれば命を落とすこともあるが、労災などの救済制度は見当たらない。
資格を取れば報酬が増えるが、職業の選択や飲酒にも資格が必要で自由度は極めて低い。
にもかかわらず、その仕組みそのものについて疑問を持つ者はいない。
社会の構造そのものが、まるで自然現象であるかのように存在していて、受け入れられている。
島編のちいかわは、その事実に薄々気がつき始めてしまったように見える。
「ハッピー貧乏」という救い
貧困が固定化し、何をしても社会そのものは変えられない。そう気づいたとき、
ちいかわの世界にある「ハッピー貧乏」という生き方は、麻薬のような救いになる。
友達と食べ物、
そして小さな幸せ。
今日を生き延びる。
ただ、ちいかわは島編で、その幸福を支えている絶望的な構造を少し知ってしまった。
それは、苦しいことだと思う。
それでも、ちいかわとして生きていく
この先もちいかわは知らないふりをして、精神的な成長を止めて、「小さくて可愛い弱者」として生き続けるような気はする。
というか、
それが唯一のこの世界で生き抜く方法であることを「ちいかわ」は提示してしまっている。
一方で、草むしり検定の上位資格を目指す。
社会そのものを変えるのではなく、その社会の中で少しだけ条件のいい場所へ移動するための努力は続ける。
その努力そのものが、この搾取構造を維持していることを薄々知りながら、
それでも資格を取り、働き、
友達と美味しいものを食べて、
「ハッピー貧乏」で生きていく。
そう考えると、『ちいかわ』は現代の日本に似ている。
社会の仕組みに疑問を持っても、もはや変えることは困難だ。
その搾取構造を補強する形でしか成長すらも出来ない。
だから、自分なりの小さな幸福を探して暮らしていく。
絶望の中の幸福論
世界を覆う巨大な権力構造から、もはや外部へ逃れる場所がないという意味では、マイケル・ハート=アントニオ・ネグリの『〈帝国〉』を思わせる。[2]
しかし『ちいかわ』の世界には、〈帝国〉を変革する主体としてのマルチチュードは現れない。[3]
自律的な抵抗や共同性──オートノミアへの希望も見えてこない。
あるのは、
誰が作り、誰が動かしているのかさえ分からない、
自然現象のように魔術化され不可視化された巨大なシステムだけだ。
ちいかわたちは、その構造を変えるのではなく、
資格を取り、働き、
友達と共感を味わい、
美味しいものを喜び、
ひたすら「ハッピー貧乏」として生きていく。
〈帝国〉の内部から、それでもマルチチュードという変革の可能性を見ようとしたハート=ネグリに対して、
「いや、もうそんなものすら現れないから」
と、返答する。
さらに皮肉なのは、
「ハッピー貧乏」の象徴であるはずの『ちいかわ』さえ、
成功者や有名人によって語られ、消費され、巨大な文化産業へと吸収されていくことだ。
庶民に残された、ささやかな「推し活」という幸福さえ、
実は〈帝国〉の外部ではない。
逃げ込んだ先まで、すでにシステムの内部だった。
まるで『マトリックス』のような構造だ。[4]
そう考えると、
『ちいかわ』はハート=ネグリ『〈帝国〉』への、あまりにも痛烈な返答であり、
「絶望の思想書」と言っても過言ではない。
(過言です)
それが作者によって意図されたものなのか、
たまたま現代社会の真理のようなものに触れてしまったのかは分からない。
そこに『ちいかわ』という作品の凄さを感じるし、
これこそ芸術作品だと思うのです。
注・参照
[1]「島編」は原作コミックス第8巻に収録された「セイレーン」編。映画版については 『映画ちいかわ 人魚の島のひみつ』公式サイト、 原作第8巻については 講談社『ちいかわ なんか小さくてかわいいやつ(8)』 を参照。
[2]マイケル・ハート/アントニオ・ネグリ『〈帝国〉──グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』(以文社)については、 出版書誌データベース「〈帝国〉」 を参照。
[3]マルチチュードについては、アントニオ・ネグリ/マイケル・ハート『マルチチュード(上)〈帝国〉時代の戦争と民主主義』、 NHK出版の書籍紹介 を参照。同ページでは、マルチチュードを「〈帝国〉に抗し、グローバル民主主義を推進する主体」と紹介している。
[4]映画『マトリックス』については、 ワーナー・ブラザース公式作品ページ を参照。本稿では、現実と思っていた世界そのものが巨大なシステムの内部だった、という比喩として用いている。

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