二階の北の部屋と物置にしまってある作品のほとんどを捨てた。
ライブペインティングのコンパネ、段ボールに描いた絵、キャンパスの未完作品、などなど。
今とは違った描き方だった頃の絵だ。
かつて自分は、ストリートや(スクワット)コミュニティを制作現場として、体制に反対し、時に絵具や筆を投げつけるように、巨大な絵を描いていた。
「瞬間が全て」だったのでライブのように過程を見せて描いていく。
自分にとって「絵」とは「描く過程」であった。
そのように考えていたために新宿西口地下道段ボールハウス絵画は自分たちで作品を写真にして記録しなかったのだ。
それが徐々に、「描く過程」から「描かれた絵(完成した絵)」に重きを置くようになって行った。
今は取り立てて過程を見せる必要も感じなくった。
完成した絵に過程は含まれるから。
圧縮された時間が絵の中にある。時間とはつまるところ、「音楽」だ。
僕は10年近く鬱状態になりながら絵画観を再構築させていたのだった。
「瞬間を見せる」ことから「時間を閉じ込める」ことに移行していった。
音楽が内包されている楽譜のような絵、『線譜』と呼ぶことによって、今までの考え方や体験を絵の中に封入させたのだ。
時間の象徴である音楽を感じさせるような絵を描くこと。
自分の「考えてきたこと」「体験してきたこと」「感じてきたこと」が溶け込んでいる絵を描くこと。
そんな現在の自分にとって、コンパネに描いたライブペインティングの絵や、段ボールハウスではなく段ボールに描いた絵は、過渡的な作品である。
過渡的な作品が悪いわけではないが、これらの作品は僕の身体の内側にある。作品をとっておく必要もないだろう。
ということで捨てた。
捨てて気分が楽になった。
それらの物体には過去の栄光や捨てても良いこだわりやプライドが纏わり付いていて、今を生きる自分の心にのしかかっていた。
知らず知らずに不要な重たい荷物をいつも抱えて苦しんでいるような状態だったのだ。
自分で勝手に不要な重い荷物を背負って苦しんでいるのに、その荷物を降ろそうとしない自分が居たのだ。
苦しみの真っただ中にいる時ほど、その無用な重い荷物を大事に抱えて降ろそうとしないのだ。
言葉でどれだけ「重い荷物は降ろしなさい、要らない荷物は捨てなさい」と言ってても、実際にそういう行為をしないと、楽な気持ちにはたどり着かないのだ。
ものには心が宿ってる。
要らないものを捨てたら、要らないプライドも一緒に捨てられたようだった。
今必要なものがあればいい。
これから必要になるものはこれから手にすればいい。
過去の栄光が染み込んでいるだけの「遺品」なんて今後の人生で必要ないのだ。
もったいなくない。
捨てると前に進む。
蝶々が蛹の殻を捨てるのと同じようなものかも知れない。
蛹の殻は生きていくのに必要不可欠であるが、時期が過ぎたら惜しみなく捨てていいものだ。
そして思うがままに飛び立てばいい。
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