受動意識仮説と藝術


受動意識仮説というのがある。

我々のほとんどは、何かをする時に、まず「何かをしよう」と意識し、それを行動に移すのだと考えている。これが、能動意識仮説。ところが、最近その逆と考えた方がつじつまがあうという研究成果が多く出されてきた。まず行動があり、意識はその後で「実はそうしたかったのだ」と思い込むというものだ。これが受動意識仮説である。
書評 - 脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?

動画:意識は幻想か?―「私」の謎を解く受動意識仮説



受動意識仮説が正しいとすると、いわゆる「私」は存在しないことになる。
意識とはエピソード記憶のためのモジュールに過ぎない。
「私」は何も決定してないし、「私」の意志は幻想に過ぎない。ということになる。


「信号が赤になった。止まらないといけないので「私」は車のブレーキを踏めと身体に命令し、ブレーキを踏んで車が止まった。」

というのは幻想で、無意識下ですでに信号が赤になったのを見て車のブレーキを踏む判断を下してる。この一連の動きを、あたかも「私という意識」が行っていると錯覚してるだけ、というのだ。


「我思うゆえに我あり」が思いっきり否定されてしまうのが受動意識仮説だ。
我思おうが我思わないが関係ないのだ。


●「私」の時代の終焉(近代自我の終焉)


となると、「藝術とは一体何のためにあるのか?」という大問題にぶち当たる。


近代以降、藝術のテーマはざっくり言うと「神」から「私」に移行したと思う。
藝術作品とは、「私」とは何か?に対して大真面目に格闘したその有り様を表現したものだった。
「私」という感触の重さ、「私」という意識の素晴らしさ、凄さ、をアートは取扱ってる。


ところがその「私」という意識が単なる幻想に過ぎないのであれば、藝術とは「幻想」に向かってアプローチしている虚しい行為になってしまうのだ。


「私」など幻想で、自由意思などないとしたら、
「私」というこの確かな感触は、エピソード記憶のためのモジュールでしかないとしたら、
藝術のテーマはもう「私」ではなくなってしまう。


というか、近代以降の藝術のほとんどが存在する根拠を失ってしまう。


そこで、「考えるな感じろ」という藝術へのスタンスがあるではないか、と思われるかもしれない。
人間にある素晴らしい存在「クオリア」に働きかけることが藝術ではないか、と。

しかし、受動意識仮説は「クオリア」の存在をあっさり片付ける。
意識体験のクオリアは幻想である、と。エピソード記憶の優先順位を決めソートするための機能に過ぎない、と。

知覚も感覚も感情も、自由意志さえも、「私」という意識にあるものは全て幻なのだ。


ということは、
藝術とは「私という幻想の中に紛れ込む虚像」でしかない、ことになる。

クオリアをちょこちょこと刺激してエピソード記憶に混ざりこむだけのなんとも悲しい存在が藝術の正体だ、ということになる。


●「私」の次のテーマ

今のところ自分で考えられる解決方法は2つある。

1.「まあ、そうなんだから、それでいいではないか」と開き直って楽しむ。
2.「私という意識」ではないテーマに移行する。

1.で良いんだと思うが、
2.についてちょっと考えてみる。「私という意識」の次のテーマはなんだろう?


ひょっとして「無意識」だろうか?

だとすると今自分がやってるオートマティズムが次の時代の主流になっていったりして。。?

オートマティズムではないしても「無意識な行為」が藝術になっていくとか?
呼吸とか、腸の動きとか、血液の流れ、とか。。
腸から発信して腸で受け止めるアートとかあってもいいかも知れない。けど、どうやるんだろ?

またはサブリミナルなアート。
しかし、どうやって作品を発表するんだろう?

いろんな人の無意識と無意識を直結してしまうこと、とか?それにしても、どうやるんだろ。というか、それは無意識ですでにやってることだから作品化する必要がそもそもないのかも?


具体的なやり方はあまり分からないけど、
「無意識」をテーマにする。
ことがひとつ考えられるのかな。



或いは、「私」という意識へのアプローチを変えることかも知れない。

現代人はおおよそ「意識」に苦しんでいる。
「私」という意識、自意識に苦しんでいる。
自我、自己に苦しんでいる。


心の痛みや不安ばかりに襲われている「私という意識」をせめて楽にさせてあげる役割としての藝術。
つまり、幻想に苦しんでるわけだが、それを癒すのが藝術という幻想、というわけだ。


「幻想を以って幻想を制す」という役割。


太古の昔はそんなに自意識に苦しまなかった気がする。
自意識に苦しむ前にやることいっぱいあったからね。
自意識に苦しむより前に自然の脅威が切実な問題だからね。

けど、そんな太古の昔にも藝術はあった。

「私」がテーマになる前、「神」がテーマになる前から、人は絵を描き、踊り、歌っていたはずだ。藝術という概念すらなく。

ラスコー洞窟の壁画とかプリミティブなアートに思いを巡らせるとなぜか気が楽になる。
世界と私が分離してないからなのかな?

ひょっとして原点回帰が藝術の未来かも知れない。


●「治癒」という役割


藝術の役割は「治癒」なのではないだろうか、と最近は思うのである。


それはきっと3.11が影響している。

僕たちは「終わったあとの世界」に暮らしている。

一旦、破壊されてしまったのだ。

これから必要なのは、「成長」というより、「再生」だ。甦ることだ。
それは「原点に戻ってやり直す」ことでもある。

大きな力でガシガシ前進するより、小さな新芽を大切にすることだ。

そのためにはまず「治癒」が必要だ。
放射能の半減期を考えると、ひょっとしたら何百年、何千年と「治癒」を続けないとならないのかも知れない。


藝術には「治癒」という役割があって、それが藝術の可能性になって行くのではないだろうか。

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