お気に入りってなんだ?

最近、というか結構前からだけど、「お気に入りはなんですか?」と問われると答えに窮する。

何と言ったらいいのか、「気に入ろうと思えば、割となんでも気に入ってしまう」のだ。

20代は「これは絶対受け入れられない」ものがきちんとあった気がするのだ。または明確な線引きとでも言ったらいいのだろうか。

「ロックじゃなくてパンクなんだ」とか(笑)

あと、女の子に対する容姿の判断。好みのラインがキッチリしていた。線引きがあったのだ。
今となっては女性を見たら全て可愛い。


異性に対してだけじゃなく、同性に対しても、好みのラインがハッキリしていた。

「こいつは味方か、敵か」みたいな(笑)



若い方が人や社会に対して敏感だ。

敏感、というより、嫌いなものが明確にある。或いは、好感よりも違和感が基準になる、と言ったほうがいいのかな。

違和感が基準になる。これは保身術だ。
若いなら体力的にはオッサンに勝る、けどオッサンより若者の方が違和感に敏感だ。きっと弱いんだな。なにかが。

弱い人間ほど違和感に敏感だからこそ、せっせせっせと違和感のない領域を自分の周りに作るのだ。


「つるむ」とかね。
「つるんではしゃぐ」とかね。
「つるんで他を批判する」とかね。
弱いからそうするんだよね。


ところが違和感を持って受け付けなかった場所に入ってみると、これが案外となんでもなかったりする。

かつては「これだけは絶対ありえない」と考えて拒否していた事に対して、今はむしろそっちを好んでやっていたりする。

例えば、制作過程が全てであって完成された作品は死骸である。というような意識が僕には強くあり、プロセスを見せることが何よりも重要だと考えていた。完成とは結果であり、結果は結果でしかない。と。
まあ、それはそれで正しいところもあるんだけど。完成品に重きを置くことを毛嫌いしてきた。
何かを拒絶することで「自分の強さ」を引き出そうとしていたのだ。

制作過程そのものも重要だけど、完成品を眺めてずっとずっと制作過程のような旅ができたらいいではないか、と思うようになった。
完成された絵は死骸ではなくて、新たな旅の始まりなのでちゃんと完成をさせてあげよう、と。

そして実際に完成品に重点を置くようにしたら、自分が消えてなくなるわけではなく、もっと楽しくなるではないか。


固くなに拒んでいた事柄や嫌悪していた価値観にこそ自分の本性が棲んでいたりする。

例えば、毛嫌いしていたアーティストがいたとする。ここは伏字にしてMとする。アメリカ型資本主義を持ち込んでアートでマネーゲームをしているような現代アート活動に嫌悪感を抱いて受け付けなかった。そういう「システム」に対して批判をするのがアートじゃないのか?と本気で思っていたからである。
ところが最近、なんとなくMの作品を受け入れてみるとこれはこれで面白いことに気がつくのだ。

かつては「虫酸が走る」ものに、よさを発見してひとりで小っ恥ずかしくなったりしてる。
自分もそういうことしたかったんだ(笑)



「ああ、なんか俺、無理して頑張っちゃっていたんだな(苦笑)」

自分の狭さや小ささを守ることが「僕が僕であるために」必要だった。
それをポリシーや自分だと勘違いして思いっきり何かを拒んでみせてたのだ。

何にそんなに怯えていたんだろう。けど、ともかく自分の中では一生懸命だったんだ。



別に強くなったわけでないが、最近は何を見ても「いいなあ」と思える。

これは精神衛生上いいことかもしれないけど、美術家としてどうなの?
と、ふと問題意識が湧いたりする。


「審美眼がある」というのは、ちゃんと「美しくないもの」に気が付けないとならない。

「情報とノイズを振り分けろ」なんて情報化社会の審美眼があったりするしね。


けど、
自分の気持ちは「なんでも美しかったりするんだよなあ」だったりしてしまうのだ。
何しろこのブログは「何時だって何処だって誰だって美しい。」って書いちゃってるしねえ。


美しくないものを排除できる能力が審美眼だ。

確かにそうだ。

なんでも美しいと思えてしまう心持ち、はきっと単なるアホウだ。
けど、自分はどこかこの単なるアホウを目指してるような気もしている。


とか言いながら、きっと無意識で振り分けてるのかな?

そうすると、それは「美意識」ではなくて「美無意識」になる。


「美無意識」を描けたらいいな。

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