試作的に描いてる線譜

最近、デザインドールをいじってみた。生まれて初めての3Dソフト(笑)。
適当にいじってポーズをとらせてみる。




主人公を空白にして周りを描いて埋めるタムちゃんシリーズと同じ手法で描いてみようかなあと思った。



『内部被曝してるタムちゃんは、それでも失恋の方がとっても悲しい』は「ネズミに恋したネコのタムちゃん」と「内部被曝」を結びつけたタムちゃんシリーズの第7作品です。
内部被曝というナーバスな問題があったとしても、人は失恋の方がよっぽどヘヴィな問題として捉える自我を持っている、というどうしようもなさを描いた作品です。

あとから気がついたんだけど、タムちゃんのこのテーマ手法は井上陽水の『傘がない』と同じなんですよね。

都会では自殺する若者が増えている
今朝きた新聞の片隅に書いていた
だけども問題は今日の雨 傘がない

行かなくちゃ 君に逢いに行かなくちゃ
君の街に行かなくちゃ 雨に濡れ

「都会で自殺する若者が増えている」事象は、当時都会の若者だった井上陽水と陽水の曲を聴く人たちにとって、どんぴしゃりの当事者にあたる。
そんなのっぴきならない「社会問題」よりも、「君に会いにいく」という恋情行為が重要で、雨が降ってることの方が問題なのである。

学生運動が花咲く時代の最中、政治社会問題を何よりも優先的に考え、より良い政治社会を目指すべく行動する、そうすることが正しいのだ、という圧倒的な風潮があったと思う。
その中で葛藤しながらも「恋」を選ぶ自分がいる。
「自分」なんて、そういうものだ。けど、陽気に開き直ってるわけでもない。
我が国の将来の問題を 誰かが深刻な顔をしてしゃべっている
だけども問題は今日の雨 傘がない
どこか憂鬱と複雑な心境を交えながら、切なくも、もどかしい歌。

社会や政治や国の問題と自分の恋の問題。
結局、人は恋の方が問題なのだ。
タムちゃんも同じなのだ。


と、ちょっと脇道にそれてしまったけど、今度はタムちゃんではなく人体を真ん中に据え置いて線譜を描いてみようと思ったのだ。
タムちゃんとポーズ一緒だし(笑)。


たまたま気になるテーマがあった。
「繭」と「観音」だ。


羽ばたくためには繭を作ってその殻に引き籠もる時期が必要だ。
ところが、「日々、情報をキュレーションし、社会にアクセスして、いきいきと活動する」なんてこととまるっきり正反対のこの行動はあんまり推奨されない。
「ヒキニート」とか呼ばれてしまう。

僕自身何年も間、心が開かずに引き籠もり続けた時期があった。毎日「死にたい」って何百回も何千回も呪文のように頭に浮かび、苦しかった。
「繭の時期があるんだよ」っていう社会の風潮があれば、あるいはそういう価値判断が自分でできれば、どんだけ楽だっただろう。

「繭の時期」とは運の悪い人や負けた人や挫折した人が引き籠もってしまう負の現象ではなく、人生の普通の成長プロセスに過ぎない。と、そんな風に思うのだ。というか、思いたいのだ。


そしてもう一つ気になった言葉は「観音」だ。
ふと、気が付いた。観音って「観る」+「音」で、線譜のことじゃないか!って(笑)。

僕にとっての観音さまのイメージの原型は群馬の「高崎観音」である。
高崎観音山にカップルで行くと別れてしまう、という迷信があった。
観音さまは女性で、カップルに嫉妬するというのだ。恐い。。

そのせいか僕は高崎観音山に女性と2人で行ったことがない。

そもそも観音さまってなんだろう?ってちょっと調べてみたのだが、「修行中の身」であるらしい(詳しく調べるとややこしいのでこのくらいに)。

ざっくりと僕の印象としては、どこか現世的で悟りきってない雰囲気がある、のだ。そして「人の役に立ちたい」と願っているところもなんだか普通の人っぽい。

そこに惹かれた。というか、観音様をそういう解釈で捉えてみることにした。



君は観音。
今は繭。



そんな思いを籠めて試作的に描いております。

0 件のコメント: