【日刊デジタルクリエイターズ】鵺の正体──稲葉剛著『鵺の鳴く夜を正しく恐れるために』(エディマン)を読んで/武 盾一郎&山根康弘


山:こんばんはー。
武:こんばんは! グーグルドキュメント動きますか?
山:毎回それかい。今日もまだ動きますよ。 相変わらず打つの止めると勝手に英字になってまうが。
武:スマホでやった方がいいんじゃね? キーボードをスマホに連動させて。
山:だからその話しもだいぶ前にしたやん。スマホは小さいから見にくい。
武:うん。新しいマック買うより安く済むじゃん。あ、じゃあタブレットにするとか。
山:まあね。でもほんとに壊れたりで使えなくならないと買わない気がする。。もったいないやん。使えんのに。

武:まあそうだよな。さて。ということで、行ってきましたよ!
山:お、どこに?
武:稲葉剛著『鵺の鳴く夜を正しく恐れるために』(エディマン)の出版を祝う会

撮影:吉田敬三

場所は後楽園駅から歩いて10分位の伝通院というお寺です。
山:なんや、展示ちゃうんかいな。伝通院は近所やな。行ったことないけど。
武:展示しましたよ。線譜『新宿鵺(しんじゅくぬえ)を。

撮影:吉田敬三


山:誰ですかこのオッサンは。あ、武さんか。
武:オッサンのことはいいんですよ。エディマン(原島康晴)から出版された稲葉剛著『鵺の鳴く夜を正しく恐れるために』ですよ!

野宿者支援活動を20年続けてこられた稲葉さんの20年分のエッセイ集ですね。「エッセイ集」っていうと軽いか。あ、でもエディマンの公式サイトに「エッセイ集」って紹介してあるのか。

山:武さんからもらったので、僕も早速読ませて頂きました。
武:ちゃんと原島さんから買って山根にプレゼントしてんだからな!w
山:そうなんか、それはなんだか申し訳ないけど、ありがたく頂戴します。
武:今回は予告通り『鵺の鳴く夜を正しく恐れるために』の書評をチャットします!
あれ、書評は初めてじゃないかしら?
山:「書評」ではない。「読書感想チャット」です。


●『鵺の鳴く夜を正しく恐れるために』(稲葉剛)を読んで
http://edimantokyo.com/books/9784880084534/


武:自らハードルを上げて乗り越えるのだ!
山:僕は無理はしませんよ!
武:これもエンターティメントですよ。

山:なんでこんなこと10年近くもやってるんだろう、、、
武:え? そういう根本的な話から始めるの? うーんと、、、なんだろ? 惰性?
山:なんか言いたいてのはあるんやろうけどね。
武:「本当に俺が言いたいことって何だ?」てのを探る旅、かもな。
山:……ただ呑んで喋ってるだけやと思うが。
武:「ガールズトーク」的な。
山:何でやねん。まあオッサン二人が場末で呑んだくれてるそのまま、というところから始まったのでしょうがないわな。成長はない。と言ってもあの頃はまだ若かった。。
武:初心を忘れずにやってるってことじゃん。すごくね?
山:忘れていい初心かもなw
武:なんだろな、マジレスすると、「状態」にこだわってたんだよ。けどさ、「状態」をキープするのって大変なことですぜ。

山:そりゃそうだ。でも、この本の著者の稲葉さんは、方法は変わっていったのかもしれませんが、「状態」はキープしてるんじゃないでしょうか。
武:そうだよね。しかもその「状態」というヤツがさ、「呑んで無意識的になる状態」とは次元が違うからね。本を読んで思ったよ。こんなことできねえ。つか、ちょっと稲葉さんってあり得ない感じすらしたよ。。

山:さて、どう話していきましょうか。
武:装丁画を描く経緯をちょっと話させて下さい!
山:はいはい。


●装丁画の線譜『新宿鵺(しんじゅくぬえ)』について


武:編集者のエディマン・原島康晴さんは当初は僕に表紙を頼む予定はなかったんですよ。これがなんと!
山:そうなん? それは知らんかった。
武:原島さんはちゃんと売りたいと考えていたので、知り合いでまとめちゃうと狭まっちゃうだろうなあ、と。広がりを持たせた人で組み合わせよう、と。
山:なるほど、ごもっとも。それがなぜ。

武:編集もある程度出来てきて、原島さんがデザイナーさんと表紙をどうするかと打ち合わせた時に、デザイナーさんが「モノクロの線で描かれたのがいいかな」的な感じで提案してきたんだって。
その時、原島さんが偶然俺のポストカードを持っていて「こういう感じ?」って聴いたら、「いいかもね」という感じの流れだったらしい。
ネズミに恋したネコのタムちゃんなんだけどね。



山:呼ばれてしまった、と。
武:「武盾一郎が新宿西口地下道で段ボールハウスに描いてたから」とは全然違う角度から表紙の絵を描くことになったんですよ。
山:新宿で描いてた頃の絵と違うしな。

武:あのままペンキ(絵の具)と筆を使ってたら表紙の絵にはならなかったわけだ。
で、原島さんから去年の秋ごろかな、突然電話がかかってきた。
「稲葉さんの本を作ってるんだけど表紙の絵を描かない?」と。
最初、「運動の本の表紙かあ……」って一瞬「うーん」ってなった。
山:過去のトラウマですか。
武:確かにトラウマはあるけど、扱うテーマが難しいじゃん。
例えば、稲葉さんの著書は『ハウジングプア 〜「住まいの貧困」と向き合う』とかじゃないですか。
そんなお題で絵を描くの難しいだろ、どう考えても。

山:本の内容が難しかろうが、その絵のテイストが欲しい訳だからあんまり関係ないんやけどね。
武:そうだろうけどさ、描く側はまた違うんよ。
で、「野宿者支援活動の軌跡の本だ」と。「うわー、難しい〜」って俺は思った。
けどね、原島さんが
「本のタイトルはまだ未定だけど、『ぬえのなくよるをただしくおそれるために』ってしようと思ってる」って言うんですよ。
ぬえ? 妖怪の?」って聞き返しました。
そしたら、「はい」と。
そしたらバーってイメージが降りてきて、「あ、描ける。むしろ描きたい!」となったんです。

山:「鵺」と言えば芳年の浮世絵をすぐ思い出すな、僕は。


武さんのは国芳か。




武:そうそう。鵺についても結構調べたんよ。妖怪の中では最も古い妖怪の部類だよね。鵺はまたトラツグミという鳥でもある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B5%BA

祭りで鵺がでてくるのもあるんよね。いろいろ調べた挙句に最も分り易いのが国芳でした。
山:こういう形で描く絵、つまり先人が題材にしてきた絵を描くのも楽しいんよね。手本があって、そこを引用したり自分の解釈なり感覚で描く絵。本歌取。
武:「鵺」ってさ、キメラじゃん。

ギリシャ神話のキマイラ
”ライオンの頭と山羊の胴体、毒蛇の尻尾を持つ。それぞれの頭を持つとする説もある。強靭な肉体を持ち、口からは火炎を吐く。”
同じじゃん!

つまり洋の東西を問わず根源的なんだよね「異種混同のイメージ」って。
想像の原初性が「鵺」にはある。そこを描きたいと鵺の姿を調べたり考えたりしたんだけど、結局一番最初に画像検索に出てきた国芳のトレースになった。
俺は国芳に負けたのだ、、いや、そういうことじゃないんだけど。楽しかったな。
山:国芳に勝ったら事件やなw
武:分からんぞ!

山:僕も昔、絵馬描かせてもらってたんで、ずいぶん北斎にはお世話になりました。
武:そういうの面白いよね。俺の絵も先人の表現の遺伝子としてミーム的に繋がってるんだ、みたいな。
山:会田誠さんも言ってるじゃないですか。「困った時の伝統頼み」w でも画家なり作家はそういうの普通ちゃうんかな。
武:俺は初めてだと思う。「自分から湧いて出るもの」だけで描こうとしてきたから。
山:じゃあ表現方法の選択肢が増えたってことで。
武:そうなんだよね。その方が楽しい。「アンチ文脈主義」を意地張って頑張ってきちゃった。。

山:表紙の話しばっかりで本題にまだ入ってない。
武:あとちょっとだけ表紙の話をさせてくれ!
山:まだあんのかい!

武:で、俺と原島さんとデザイナーさんと3人で打ち合わせたんですよ。新宿のしょんべん横丁の「鳥園」で。
山:飲み屋も昔から変わらんのかw
武:うん。で、視覚的に「線が埋まって黒くなっている感じ」で描いて行くことになったんです。
一ヶ月くらいかけて描きました。当時の気持ちの「状態」を呼び覚ましながら。新宿を象徴する具象は出てこないけど「無形の状態」が詰まってるんです。稲葉さんとは新宿西口地下道で出会ったけど、本という「場」で再会できたわけです。
まあ、表紙についてはそんな感じです。
あとはみなさんぜひ買って読んで下さい!
山:終わるんかい!
武:俺的にはもう言いたいことは言えた。
山:内容のこと一切触れてないやないか!何が書評やねん!
武:表評w
山:アホなこと言ってないで、なんとかして下さい!


●野宿者襲撃問題について


武:そうですね。個人的には読むの大変だったわ。3日くらいかかった。。。
山:とても読みやすい文章だったので、読むのはすぐに読めましたが、内容なりなんなりを深く考えていくと難しいよな。
武:そうなんすよ。俺たち現場に居たからね。一行読む度になんか「ぐわ〜っ」ていろいろ当時の精神状態みたいなのが押し寄せて来て読み進めるのに苦労しましたわ。まず、冒頭で野宿者襲撃問題でしょ。ヘヴィ。

山:二部構成で、第一部が主に襲撃の問題、第二部が新宿のこと、ってなってるんかな。
武:そうですね。新宿で描いていた時には野宿者が通行人に襲撃される現場って目撃してないんですよね。その代わり、野宿してる人同士で暴力沙汰になってる場面には出くわしたけど。
山:けっこうあったな。酔っぱらってる人も多かったし。
武:新宿西口地下道の通称「段ボール村」は一般人からの暴力はそんなにはなかったように思う。コミュニティが成立してたからなのかな。

山:ひょっとすると見てないだけでたくさんあったのかもしれないけど、僕も見たことはない。自分たちも嫌がらせ的なものは一切受けなかったな。
強いて言えば、なぜかとあるおっちゃんが僕らの塗料を夜中にぶちまけて、朝来てびっくりして掃除してたら建設局の人間が来て「逮捕するぞ!」と凄まれたことぐらいか。
武:建設局からはよく嫌味を言われたよな。頭にきて都庁まで尾行して行ったよ。第三建設局の〇〇だよね。
山:あの当時は僕もなんにもわかってなかったんで、歯向かおうとしたら武さんが助けてくれたんですよね。いやー、まったくあの頃は頼もしかったのになあ。
武:なんだろ。俺の俠気はどこに行った? 
山:新宿当時とは別人という認識になっております。

武:そうかw
で、野宿者襲撃はその後、246表現者会議で目の当たりにするんです。2008年かな。
(246表現者会議はこちらを参照→ http://kaigi246.exblog.jp/i3/


渋谷駅の高架下歩道(数十メートルに渡って段ボールハウスが並んでいる)の脇に集まって段ボール敷いてみんなで座りこんで会議をしていたんです。
ストリート・インスタレーションでもあり、ある種のスクワットでもあった。

ある夜の会議中、小川てつヲくんが急に立ち上がってロケット(渋谷では段ボールハウスのことを「ロケット」と呼ぶ)の方に走って行ったので、見てみるとサラリーマンの集団がロケットを蹴っ飛ばしてるんです。
ロケットの中には当然人が居る。ロケットが蹴られてコの字にゆがんでる瞬間は今でも脳裏に焼き付いているよ。
俺は靴を脱いで段ボール上に座ってたんだけど、飛び出していったてつヲくんをあとを靴下のまま追って行った。

山:渋谷のはあの当時の新宿の村とは大きさが全然違ったわな。攻撃しやすいのか。

武:ロケットを蹴っ飛ばしてるサラリーマンはどう見ても二十歳程度の若造だった。
ヘラヘラ笑いながら「こいつら税金払ってねぇ」とか言って蹴ってるのだ。
「なに蹴ってんだよ!」と、246表現者会議参加者の何人かが怒りながら止めに行った。
すると若造サラリーマンは「税金払ってないヤツの味方かよ〜」みたいなこと言ってくるのだ。
俺はカッとなってそいつを蹴っ飛ばそうとしたけど、裸足じゃん! こりゃダメだ! と蹴るのを止めた。
喧嘩になると裸足は不利だ、と内心ヒヤリとしながら詰め寄ったんだ。

山:靴の問題かい。
武:靴履いてたら蹴ったよ。
一触即発の睨み合いになると、上司らしきおっさんサラリーマンが謝ってきた。あんまり誠意ある態度じゃなかったので、それだけでは引き下がれない感じだったんだ。

すると蹴られたロケットのおじいちゃんが段ボールから顔を出して「もういいよ(許すから)」みたいなことを言ってきたのだ。「大丈夫だから」みたいな。それでその場はなんとか収まった。

山:そうか。ひとまずは良かったんやな。

武:それからしばらくして知った。その蹴られてたおじいちゃんは死んでしまった、と。
死因は分からない。けど、あの時に蹴られたことが何らか関係してたらあのサラリーマンは殺人者だ。
しかし、そいつは自分が蹴った野宿者が死んだことを生涯知ることはないだろう。
俺もそいつに会うことは生涯ないだろう。会っても顔はもう思い出せないし。

山:ふむ。。亡くならなかったとしても、普通に傷害事件ですけどね。その場に法律に詳しい人がいれば、すぐに警察呼ぶんじゃないのかな。

武:俺、警察嫌いだったからな。。。というか、246表現者会議がイリーガル的だったから警察って発想はなかったんです。
山:そうか。でも傷害罪は傷害罪やからねえ。
武:うん。。なんつか、それがストリートから降りるきっかけだったかも。。。


山:また話しずれたがな!
武:戻りましょう!
襲撃問題がヘヴィなのは、襲撃する側もまた酷い抑圧を受けていることが多い。逃げ場の無い人間同士が傷つけ合ってしまう現実に暗澹たる気持ちになる。
山:まさにそう言う問題を提起しているのかな。稲葉さんの本は。突っ込んだもっと難しい話しは、そこまではしてないのかもしれないけど。
武:教育現場に行ったりして地道に活動してるよね。
山:現場にいる人なんやろうから、そこにある大変な、ひどいこと山ほどわかってるでしょう。

武:教育って難しいよね。「差別をなくそう」って言ってもダメなんだよね。本当はさ、「差別しない人間は存在しない」んだよ、脳構造的に。この事実を認めてから、「差別を自分で認識する」ことができればいいんだよ。これが限界なんだと思うんだ。
山:ふむ。差別はなくならない、ってこと?
武:人の心からはね。きっとそういうメカニズムなんだよ。で、「社会」ってのはその差別心を剥き出しにしてはいけない場所なんです。
山:なぜ?
武:「なぜ?」って問われると、うーん、難しいなあ。 
山:差別が無くならないってこと自体は、人の心から考えるとわかる気はするけど、「社会」から考えると余計に難しくなるような。

武:「社会」とは様々な状態の個人全員がスムーズに動けたり留まったりできる構造とルールを目指すプラットフォームである。(takepedia)
山:タケペディアてなんやねんw でも、スムーズってのもそれはそれでむずいぞ。スムーズ問題って、時間じゃないすか。人によって違う時間軸の問題解決できるのか?という話しになってくる。
武:全ての個々人が各々の時間軸で生きて行ける構造とルールを目指すのも「社会」だよ。「差別心を剥き出しにして社会というプラットフォーム上にぶちまける」のはそのスムーズを妨害する動きにしかならない。
山:では個人の心に在る差別心はどうなる?
武:うーん、、まあでも究極的には自分でどうにかするしかないんだろうな、これ。


●本書のキーワードをあげてみる


山:よし、本に戻ろう。
読ませて頂いて、キーワードを幾つかピックアップした。

武:お!やっと書評っぽくなってきました!さすがヤマネ!
山:なんやねん、ただの感想です。
で、響いたのは、

P146 “「自立」という名の「孤立」

P155  “人間関係の貧困

これはちょっとわかった!って意味で
P171 “自分の前に「お鉢が回ってきた」ような感覚になったのを覚えている。

ってな感じです。

本の後半がやっぱりグッと来ました。知ってるので。

武:ふむふむ。「まっちゃん」とか登場しますしね。
山:知ってる人ですからね。
武:それにしても、”「自立」という名の「孤立」”、”人間関係の貧困”、ってリアルだよな。

山:写真家の小暮茂夫さんが『新宿ダンボールハウス研究会』の本に載せてた言葉がやはり印象深い。
「人間、自立なんかできるわけないじゃない」と。

武:「ひとりじゃ人間生きていけない」という土台がまずあってその上で、「自分の力で生きようとすることが可能」なのに、いきなり「自立しろ」ってなっちゃうんだよなあ。
山:なぜそういうことになってしまったのか?

武:ひとつ、「資本主義の構造が人間を疎外するように出来ている」ってことになるんだろうけど、きっとそれだけじゃないよね。

山:『鵺〜』読んで、『無縁・公界・楽』(網野善彦)をまた読み直してるんだが、面白い。
武:なるほど。網野文脈に稲葉さんの活動もあるのかな。ちなみに246表現者会議が目指したものがその「無縁・公界・楽」なんよ。
山:そう考えることも出来なくはないのかな、と。やっぱり「無縁」って面白い。稲葉さんたちが「無縁」を目指してるわけではないんやろうけど。
武:俺がドキッとしたのは、

P165 “私たち支援者は、路上で人とかかわるなかで無意識のうちに「私がかかわったから、この人は良くなった」というストーリーを思い描くことが多い。ところが私はアルコール依存症の仲間たちと出会い、つきあうなかでそのようなストーリーを木っ端微塵にされてきた。回復した人もそうでない人も、私がかかわったこととは無関係に回復したり、スリップ(再飲酒)したりした。彼らがアルコールに対して無力であるのと同様に、私も依存症者に対して無力なのである。”
これは、なんかすごいことを書いてるぞ!と感じた。

山:つまり、他者に対しては絶対的に無力である、ということやもんな。
武:それを認識する稲葉さん。そして続ける稲葉さん。ため息。。
山:でも、逆に無力であるからこそ出来ることもあるんじゃないだろうか。
武:無力を知って続ける。ああ、俺の絵のようなものだ。
山:うーん、そら違うかなw


●不可知と鵺について


武:違うか?w えっと、人間に自由意志は存在しない可能性がある、って言ったことあったっけ?
山:ん?
武:2つ例をあげると、1つは「ベンジャミン・リベットの実験」、そしてもう1つは「受動意識仮説」なんだけどね。


リベットの実験
意識は幻想か?―「私」の謎を解く受動意識仮説


山:ああ、何度か話してるからね。一応知ってる。
武:デジクリでは話したっけ? 
山:詳しく話してないかも知れないけど、何回か出てきたんちゃうかな。

武:稲葉さんの言葉の奥にずっと流れてる感じがするのが、「自分が動いたから事態が好転した、とは別のレベルで事実は動いていることを察知してる」ようなニュアンス。
なにかどこか「計り知れない次元のものを感知してる」というか。
それは住まいの貧困を生む「政治や経済の構造問題」を明らかにしていくことと別次元で存在している。そういう「なにか」を感じるんですよね。
山:先にあげた“自分の前に「お鉢が回ってきた」ような感覚になったのを覚えている。”というのも、自分から動いてそうした、ってことではないよね。

実際僕も初めてあの現場に行った時に、それまで頭で決めてたこと(予備校に行って受験を頑張る)を一切放棄してあそこで描くという選択をしたんだけど、普通に考えたらなんでそんなことするのかよくわからない。自分の意志、というよりも、止むに止まれず、って感じやった。

武:そうね。自分の意志で動いたのか? というとなんだかよく分からないことって多いよ。どうしようもなかった、というか。
山:酔っぱらうともっとわけわかんなくなるがね。
武:まあねw そもそも酒を呑むって自由意志に基づいてるのだろうか……? まあなんだかよく分からなくなってきたw
山:酔っぱらってるんでしょうw
武:ある種の「運命論」なのかもしれないが、ひょっとしたら俺たちって単なる「現象」に過ぎなくて、「何かをしよう!」とか、「目標を達成した!」とか、「挫折した(泣)」とか、「社会を動かした!」とか、「素晴らしい作品が作れた!」とか、それらはただ、後付けでそう「勘違い」してるに過ぎないのかも知れない。結局は宇宙の物理現象に過ぎない、と。
それが
”私がかかわったこととは無関係に回復したり、スリップ(再飲酒)したりした。”という一文からぶわーっと感じられた、というか。

山:確かに支援者という立場やと、支援という目的が達成されなければ意味がない、ってダイレクトに感じてしまいそうだから、最悪の結果を何度も経験すると、どこかで自分という存在や行為を俯瞰して見ないとなんにもできなくなってしまいそうですね。

武:自分が動いたら必ずなにかしらのレスポンスはある。作用反作用の法則。けど、返り値が予想・期待通りになるとは限らない。
どんなに「こう返ってくる」ように仕込んで努力しても、まったく別の絶望的な結果しか戻ってこないことってままあるよね。それってその人の思考では読み取れない別次元の力学がそこに存在してるからでしょう。
なにしろ人類の過去の叡智をすべて集めてみても、たった一人の人生の予測すら不可能なんだから。

山:吉本隆明の「最後の親鸞」に
”ほんとうに観念と生身とをあげて行為するところでは、世界はただ〈不可避〉の一本道しか、わたしたちにあかしはしない。そして、その道を辛うじてたどるのである。”
という親鸞思想の分析があるんだけど、結局意思しようがしまいが、現実にはある決定がある〈契機〉、ってことですよね。その現実をどう考えるのか、どういう態度で向き合うのか、なんだろうな。親鸞は「本願他力」を説く訳ですが。一般的に言われる他力本願ではなくて。
武:「悪人正機」だからねえ、難しいよ。あ、悪人正機って親鸞オリジナルじゃないんだ! まあいいか。

でね、本気でなにかをした人の方が「虚無」という真理を見る気がするんですよ。
虚無を見て、無力を知って、「ではなぜ己はそれをする?」と問うと、なんだか分からんが、結局「それが好きだから」くらいしか思いつかないんですよね。
或いは、「好きだということにした」とか。

山:でも「好きだから」だけでは稲葉さんのようにはできないんとちゃうか。
だいたい生きてることにしたって、「好きで生きてるんっすよー」ってあんまならんわな。いや、好きで生きててすばらしいことですけど。
武:「使命感」てのもあるだろうね。たださ、使命感ってのもどこか「好き」の後付けなんじゃないのかなあ。

意識上にのぼる「好きという認識」てのもあるけど、生命が生きること自体を自動的に欲望としてしまうような無意識的な「好き」もあるでしょう。
本人の自己理解を超えたところで「それを好み」「それを生きていたりする」のかもしれない。

ひょっとしたら、稲葉さんの本当の<好き>ってのは、例えばひとつは「人と深く触れ合った時のなんとも言えない充足感」とかで、そういう言葉に現れにくい<好きの嗜好>と、社会とのマッチングがたまたま「野宿者支援」だった、とかね。
運動自体が目的だと運動は続けられないってある気がするんだ。アート自体が目的だとアートは続けられない、みたいに。

山:なるほど。
武:だからとても知的で理性的な文章なのに、どこか与り知らない次元の存在のようなものも感じてしまう。まあでも俺みたいに神秘に傾倒してるわけではないが。
新しく「つくろい東京ファンド」という住まいの貧困を生む構造問題に直接アクセスした団体を立ち上げてるからね、稲葉さんの動きもまた計り知れないw


山:巻頭に本のタイトルである「鵺の鳴く夜を正しく恐れるために」のエッセイがありますね。僕はこのタイトルすごくいいなあと思うんだけど、エッセイを読むとタイトルから僕が感じてたことと若干違った。
武:ああ、俺も! 「鵺」とは住まいの貧困を生んでいる「現代日本の政治・経済構造」だ、ということだよね。単純に「権力」と言ってもいいかもしれない。

山:「鵺」という妖怪を現代社会問題に見立てているわけですが、「正しく恐れる」ということの解釈が僕とは違うのかな。稲葉さんはエッセイの中で、「全体像を照らし出すこと」が必要だと言う。僕は鵺は照らし出せないから「鵺」なのであって、「畏れ」を生むもんだと思うんだが。
武:妖怪って不気味だけどさ「俺たちの味方の存在」で例えて欲しかったなw あ、でも「鵺」って悪者で退治する話があるのか。

山:そうか。そういう物語りはあるな。となると稲葉さんは猪早太か。
武:事故で亡くなられた見津毅さんが、源頼政ってことか。

山:僕は「鵺」という言葉と言うか存在を〈不可知〉なものとして感じるからそんな印象持ってしまうけど、本で仰ってることがおかしいってことではないです。
武:そうですね。ただ、装画の『新宿鵺』は山根の言う〈不可知〉な「鵺」に近いと思うよ。
山:〈不可知〉とか言ってたら支援者活動できんやろうからね。あ、でも人間関係の貧困は鵺にも出番があるのかもしらん。人はサルにもタヌキにもトラにもヘビにも見えるよ。恐いしわからんし。

武:貧困を生んでいる構造って言うけど、その制度は人間で形成されてるわけだから、「鵺」の正体は人々ってことにもなるな。

人はだれもみな巨大な「鵺」の一部であり、また一人の人間も「鵺」のようなものである、と。

山:妖怪は懐が深いな。
武:人間が〈不可知〉なんだよ。



【武 盾一郎(たけ じゅんいちろう)/夜へんに鳥じゃなくて武】

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日刊デジタルクリエイターズ2015年2月27日(金)より)

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