【羽化の作法 114】現在編 「オプティミストはなぜ成功するのか」をまとめてみた

物語絵
『怪盗 アリス・エイリアンとロザモンド大聖堂』
ガブリエルガブリエラ作 2020年


こんにちは。
今回のデジクリは、最近読んだ本の中から「メモしよう」と思った『オプティミストはなぜ成功するのか/マーティン・セリグマン』を紹介します。


どうせレビュー書くなら、
「時間は存在しない/カルロ・ロヴェッリ」とかの方が頭良さそうなのですが、
自分にとって意外でもあったり、
また、ここのところ、「真面目で才能があって良い人だと評判の有名人」がたて続けに自死される痛ましいニュースが飛び込んできたりと、絶望に引っ張られそうになることもあるのですが、そんな気持ちを助けてくれる思考法なので、シェアしたいと思った次第です。

まあ、20年前は「ポジティブシンキング? くっだらねえ!」って言ってた私なんですけどね(笑)

この本の答えはシンプルです。

「楽観主義になりなさい」です。

そして楽観主義になるにはどうしたらよいかというと、悪いこと(良いこと)が起こった時に発する「言葉」(他者に対しても自己対話でも)を変える、ということなんです。この言葉を「説明スタイル」と、この本では名付けています。

この「説明スタイル」が「楽観的」なのか「悲観的」なのかを判定することによって、「楽観主義者(オプティミスト)」か「悲観主義者(ペシミスト)」なのかが分かります。

「説明スタイル」には三つのパラメータがあって、それは

・「永続性」
・「普遍性」
・「個人度」

です。

これらの要素を「楽観的説明スタイル」に変える。
やることはこれだけです!
では具体的に説明して行きましょう。


●永続性


〈悪いことが起こった時〉


“悪いことを〝いつも〟とか〝決して〟という言葉で考えて、いつまでも続くと思っている人は永続的、悲観的な説明スタイルの人だ。
〝ときどき〟とか、〝最近〟という言葉で考えて、状況を限定し、悪いことは一過性の状態であると思っている人は楽観的説明スタイルの人だ。(本文より)”


まず、悪いことがあなたに起こったとしましょう。
その時になんと言うか(思うか)想像してみてください。
そこに永続性があるかないかで、楽観的か悲観的かが分かります。永続的だと悲観的で、一時的だと楽観的なのです。
ここで例文も見てみましょう。例文は全て本文より引用しています。


例1)
「私はもう立ち直れない」→ 永続的なので悲観的
「私は疲れている」→ 一時的なので楽観的

例2)
「ダイエットは決してうまくいかない」→ 永続的なので悲観的
「ダイエットは外食するとうまくいかない」→ 一時的なので楽観的

例3)
「君はいつもがみがみ言う」→ 永続的なので悲観的
「君は私が部屋を片付けないとがみがみ言う」→ 一時的なので楽観的

例4)
「上司は嫌なやつだ」→ 永続的なので悲観的
「上司は虫の居所が悪い」→ 一時的なので楽観的

例5)
「君は口をきいてくれない」→ 永続的なので悲観的
「君は最近口をきいてくれない」→ 一時的なので楽観的



どうですか?
悪いことが起こった時、「そんなの当たり前」と永続的に捉えることによって、悪い事へのショックを減らそうとしてきたので、かなりビックリしました。
自分は楽観主義者だと思い込んでいたけど、それだと悲観的説明スタイルなんです。


〈良いことが起こった時〉


“楽観的な人々は良い出来事を特性、能力、〝いつも〟、というような永続的な理由で説明する。ペシミストは状況、努力、ときどき、のような一時的な理由を挙げる。(本文より)”


次に、逆に良いことが起こった時を想像してみましょう。今度は説明スタイルが一時的だと悲観的で、永続的だと楽観的になってひっくり返ります。


例1)
「今日はついている」→ 一時的なので悲観的
「私はいつもついている」→ 永続的なので楽観的

例2)
「私は努力する」→ 一時的なので悲観的
「私は才能がある」→ 永続的なので楽観的

例3)
「競争相手は疲れたんだ」→ 一時的なので悲観的
「競争相手は能力がない」→ 永続的なので楽観的


どうです?
ええーっ!?って思いませんでしたか?
良いことが起きたら、より一層有り難いと感じるように「たまたま」だと思ってきませんでしたか?

「私はたまたま運が良かったんだ、ありがたいありがたい」と。そう思うことは「謙虚さ」であり「道徳的」でもあるとさえ思ってきましたので、これも結構ビックリしました。

「私はずっと運が良い! そして当然これからもずっと運が良い!」なんて思ったとしたら、ホント馬鹿っぽいし図々しいヤツだって思ってしまいます。

どうもこれはけっこう根深い問題だと感じます。


●普遍性


〈悪いことが起こった時〉


“自分の失敗に対して普遍的な説明をつける人は、ある一つの分野で挫折すると、すべてをあきらめてしまう。特定の説明をする人は、人生のその分野では無力になるかもしれないが、ほかの分野ではしっかりと歩み続ける。(本文より)”


今度は自分の出来事に対して「普遍性」をどう扱っているかって話です。
悪いことが起こった時、それが普遍的説明スタイルだと悲観的で、特定されていると楽観的な説明スタイルとなります。例文を見てみましょう。


例1)
「先生は皆不公平だ」→ 普遍的なので悲観的
「セリグマン教授は不公平だ」→ 特定されているので楽観的

例2)
「不愉快だ」→ 普遍的なので悲観的
「彼は不愉快なやつだ」→ 特定されているので楽観的

例3)
「本は役に立たない」→ 普遍的なので悲観的
「この本は役に立たない」→ 特定されているので楽観的


どうですか?
これ、思い当たりますよね。イタタタ。
普遍性における悲観的説明スタイルとは「過度の一般化」と言い換えても良いでしょうね。

悪いことに対して「雑な思考」をするとこうなりますよね。でもこれは、気を付けることによって簡単に直せそうです。
それに悪いことが起こった場合、特定できれば改善できるので、合理性があって納得感もあります。


〈良いことが起こった時〉


“オプティミストは悪い出来事には特定の原因があると考え、一方で良い出来事は自分のやることすべてに有利な影響を与えると信じる。ペシミストは悪い出来事には普遍的な原因があり、良い出来事は特定の原因で起きると考える。(本文より)”


さて次は、良いことが起こった時の説明スタイルの普遍性を想像しましょう。前と同じように逆になるのです。良いことが起こった時、説明スタイルが特定されていると悲観的で、普遍的だと楽観的になります。


例1)
「私は数学がよくできる」→ 特定されているので悲観的
「私はよくできる」→ 普遍的なので楽観的

例2)
「私の仲買人は石油株を知っている」→ 特定されているので悲観的
「私の仲買人はウォール街を知っている」→ 普遍的なので楽観的

例3)
「私は彼女に受けが良かった」→ 特定されているので悲観的
「私は受けが良かった」→ 普遍的なので楽観的


どうでしょう?
分からなくはないけど、なんとなく馬鹿っぽい感じしません?(笑)

良いことが起きたら「それは普遍的なんだ!」とざっくりまるっとアバウトに捉える方が良いというのは意外でした。例えば、人を褒める時って良いところを具体的にピックアップした方が良かったりしそうな気がしません? 「今日のその帽子軽やかで良いね」とか。

だけど、よく考えてみるとその人の存在を丸ごと肯定した方が、もっと良い感じはします。小松政夫の「あんたはエライっ!」と雑に褒めるギャグこそ、「楽観主義」なのかも知れませんね。


●個人度


〈悪いことが起こった時〉


“悪いことが起こったとき、私たちは自分を責める(内向的)か、ほかの人や状況を責める(外向的)。
失敗したときに自分を責める人は結果的に自分を低く評価することになる。
自分は価値も才能もなく、誰にも愛されない人間だと思う。
外的な要因を責める人は悪いことが起こっても自尊心を失わない。
一般的にこのような人々は、自分を責める人々よりも自分のことが好きである。
低い自己評価は普通悪いことが起きたときに内向的説明をすることによって起きる。(本文より)”


最後の要素「個人度」についてです。
悪いことが起こった時、あなたは自分を責めますか? いやあ、普通自分を責めちゃいますよねえ。
道徳的かどうかはさて置いて、楽観主義か悲観主義かをジャッジするならそれは悲観主義的なのです。


例1)
「私はばかだ」→ 内向的なので低い自尊心
「お前はばかだ」→ 外向的なので高い自尊心

例2)
「私にはポーカーの才能がない」→ 内向的なので低い自尊心
「私はポーカーでついていない」→ 外向的なので高い自尊心

例3)
「私は安定性に欠ける人間だ」→ 内向的なので低い自尊心
「私は貧乏な境遇で育った」→ 外向的なので高い自尊心


これ、言葉の選び方によっては「人としてどうよ?」って思ってしまいそうなところあります。

ただ、自分の状況が思うように行かず「生きづらさ」に苦しんでいる時、その原因が社会や政治の構造の問題であることを聞いて、パーッと自尊心が回復することは誰でも思い当たったことだと思います。

パンクのように社会や政治に対して中指を突き立てるのは、「自尊心を守る楽観的」な行為だと言えそうです。

自己責任で自助を強いる政府のベクトルは、国民を悲観主義に向かわせてしまう。それは政府の狙いなのかは分かりませんが、今、「生きづらい」と苦しんでいるのなら、それは自分のせいだと思わないことです。

しかし「なんでも人のせいにする」のは、とても嫌われる言動です。ここが難しいところですよね。

「良い人」「優しい人」は往々にして悪いことが起こったら自分のせいにします。「責任感が強い」という良い言葉もあります。

しかし、そういった優しくて良い人が自殺してしまうことは、この本の内容とピッタリ合致できてしまいます。また、「なんでも他人のせいにできちゃう元気はつらつな人」って思い当たりませんか?  そういうこともこの本の内容と合致します。

これはなんだか理不尽に感じるのですが、どうも人間はそうできてるのです。コロナ禍の現代、この「悪い出来事への内向性(外向性)」って重要課題だと思います。


〈良いことが起こった時〉


さて次に、良いことが起こった時です。これも今までのパターンと同じで逆になります。良いことが起きた時に外向的に説明するのは悲観的で、内向的に説明するのが楽観的となります。


例1)
「偶然幸運にめぐまれた」→ 外向的なので悲観的
「私は幸運を逃さない」→ 内向的なので楽観的

例2)
「チームメートの技がさえていた……」→ 外向的なので悲観的
「私の技がさえていた……」→ 内向的なので楽観的


どうです? 
これもやっぱり納得行かないモノを感じますよね。

良いことが起きたら「何もかも皆様のおかげです」と言った(思った)方が良いと、少なくともその方が美しいと私は信じ切っていました。これは謙虚さを美徳とする我々(日本)の道徳観とは正反対ですよね。

おそらくこの極東の群島の人々は悲観主義によって社会秩序を保ってきたんだと思います。悲観的な風土、そしてそれを美しいとする文化が継承されてきたんだと思います。

ただ、私は知っています。例えば、特にスポーツで昔からずっと感じてたこと。
オリンピックなんかで世界と競う時、日本人もとっても素晴らしい選手なのに、最後のところで負けてしまう印象ってすごく強くありませんでしたか?
その時によく聞くことに「外国人はスポーツを楽しんで強くなるが、日本人は苦しんで強くなる」と。
この悲観主義的風土文化がグローバルの舞台ではネガティブな結果を生んでしまうってことを。

勝ちゃあ良いのか? とか、そもそもオリンピックって必要? とか、グローバルってどうよ? とか、いろいろ含めて考えてしまうところはあるので難しいのですが、ここは「楽観主義」を軸に考えることにします。

しかし、この楽観主義を軸に考えることだけでも現代の問題って少し浮き彫りになってきますよね。
少なくとも自分が悲観主義者であったと思い知ったわけです。
いやあ、伸びしろ満載です!



●希望と絶望


“不幸な出来事に一時的で特定の原因を見つけるのは希望のなせる業だ。原因が一時的であると考えることによって、無力状態を時間的に制限できるし、特定の原因によるものと思えば、無力さをその状況のときだけに限定できる。反対に、永続的な原因だとみなせばずっと将来にまで無力状態は続き、普遍的な原因だと思えば何をやってもだめだということになる。不運な出来事に永続的で普遍的な原因を見つけるのは絶望のもとだ。(本文より)”


さて最後に、これを「希望」と「絶望」という言葉に置き換えて例文を見てみましょう。


例1)
「私はばかだ」→ 希望がない
「私は二日酔いだ」→ 大いに希望がある

例2)
「男は暴君だ」→ 希望がない
「夫は虫の居所が悪かった」→ 大いに希望がある

例3)
「このしこりがガンである確率は五割だ」→ 希望がない
「このしこりがなんでもない確率は五割だ」→ 大いに希望がある


悪いことが起きても「説明スタイル」が楽観的であれば、大いに希望があるということです。別に過去をほじくり返さなくても良いんです。

これを読んで、自分は楽観主義者だと確認できたら、それは喜ばしいことだし、悲観主義者だと分かったら、これから良くなっていくしかないわけだからそれも喜ばしい。
私には伸びしろがたっぷりあるので楽しみです!

以上、『オプティミストはなぜ成功するのか』まとめでした。最後までお読みいただき有り難うございました。

【武 盾一郎(たけ じゅんいちろう)/断酒264日目】

《ギャラリー13月世大使館》
『10月31日(土)13〜18時 開廊します!』
https://13moon-gallery.shopinfo.jp/posts/10441272


10月御予約開廊日は10/31(一般開廊日)に先駆け新作物語絵を御高覧いただけます。ご予約承っておりますので、ツイッターDMにてお気軽にご連絡ください!

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日刊デジタルクリエイターズ「羽化の作法[114]現在編 「オプティミストはなぜ成功するのか」をまとめてみた」より


【羽化の作法 113】現在編 わたしも「意識」について考えた


GrowHairさん(ケバヤシさん)がデジクリから去っていかれました。

Otakuワールドへようこそ![335]受験生並みの猛勉強の夏
http://bn.dgcr.com/archives/20200828110100.html

理由は、意識の謎の解明に必要な数学の研究ためのようです。

《しかし、正解を聞いたときに驚くことができるためには、理解できないことには話になりません。なので、私としては、上がってきた仮説は、すべてきっちりと理解しておきたい、と思っています。

思うだけで、これ、実際にやろうとなると、非常にたいへんです。例えば、ジュリオ・トノーニ氏は「統合情報理論(Integrated Information Theory; IIT)」を提唱しています。また、カール・フリストン氏は「自由エネルギー原理(Free Energy Principle; FEP)」を提唱しています。どちらも基礎にあるのは情報理論です。》

《あと、意識の仮説として、圏論を基礎に置いたものが出てきています。土谷尚嗣氏(モナシュ大学准教授)と西郷甲矢人氏(長浜バイオ大学)による共著論文が2019年に発表されています。

圏論とは、抽象化された矢印の数学とも言うべき理論です。対象から対象への矢印が射であり、対象と射とで圏が構成され、圏から圏への矢印が関手であり、関手から関手への矢印が自然変換であり、そこまで行くと、米田の補題が言えます。つまり、矢印のなす構造が階層化されていて、まあ、難解な理論です。》
(ケバヤシさんのデジクリ記事より)

ケバヤシさんは意識の謎を探求する同志なのですが、遥か遠くに行ってしまわれた感があります。


しみじみ

「行ってしまわれた……」(『風の谷のナウシカ』より)

姫様(ケバヤシさん)はセーラー服とアゴ髭をはためかせて、メーヴェに乗って腐海(意識の謎を解き明かす数学)の中へ飛んで行きました。私はミト爺のように、風の谷(ギャラリー13月世大使館)を護りながら帰ってくるのを待っております。


ナウシカ 参照



お供できないのは悔しいですが、意識という主観が科学的に解き明かされて行くのはワクワクします。

起源の謎は3つあるといわれています。「宇宙」と「生命」と「意識」です。なぜ解き明かされないのかというと、客観的に観測・観察できないからです。

その壁をどうやって乗り越えるのか?
私には無理だけど人類ならできる!(他人任せかっ!)
けど、こうやって関心を持つことだって貢献にはなるはず。私のできることをやります。

ケバヤシさんは物理的に執筆時間がなくなってしまったとのことですが、実は私もここ最近忙しくなってきて、デジクリ執筆を月一回にしてもらおうか、いっそのこと辞めてしまおうかと悩んだりもしました。「お金にならないんだから辞めたら?」という助言も貰いました。

デジクリは私にとっては「ぼんやり思ってることをテキストにして明文化する脳トレの良い機会」で、例えるならばヨガや習字のお教室に通っている感じの大切な文化行為なのです。ケバヤシさんくらい忙しくなってきたら、また改めて考えようかなあと思います。

「日刊デジタルクリエイターズ」はメルマガの古株ですが、いわゆる「ウィズコロナの新しい生活様式」にマッチしそうです。将来、ウィズコロナは続き、ベーシックインカムになり、独身がマジョリティになる高齢化社会では、デジクリのような非営利でまったりした、ゆるい繋がりの思考の交換サービスって必要になってくるんじゃないでしょうかね。


●意識の3つの系


〈空(くう)と線譜〉


話を「意識」についてに戻します。まず今現在、意識について考えてることをまとめてみようと思います。

結局のところ「この世の全て」って「意識」だったりします。意識を通してでしか、この世界を認識できないってことです。これって当たり前なのですが、すごく難解だと思うんですよ。

意識の謎を思う時、どこかの深淵に潜っていくような、上下も重力もないクラクラするような、神秘的な不思議感を覚えます。謎を思考する時のそのクオリアが快感なのですよ。知的好奇心とは最も健康的なドラッグなのです(深追いし過ぎると健康を害しますが)。

私たちが認知し得る全ては「意識」にあります。私たちはそのほとんどが「無意識」の働きで生存しているにもかかわらず。

私たちは世界を認識しているのではなくて、認識の仕方が世界を作っています。「世界」も、「存在について」も、私の外側にひとつの真理としてあるのではなく、私たち人類の身体に備わっている「認識の仕組み」によって作られているってことです。

認識の仕方は生物種によって異なります。同じ種同士なら認識の仕方が一緒なので、共有される世界観はありますが、「これこそが正解!」という真理の姿が外側にあるわけではないのです。世界の本当の姿は(姿があるかどうかも)分からないのです。

それをお釈迦様は「空(くう)」と呼んだのでしょう。私はそれを「音楽」と呼んで【線譜】を描いています。これが今の私のできることです。意識の謎との対峙はそのまんま私の芸術活動に直結しているってことなのです。


〈内臓系と体壁系と霊系〉


時間をかなり遡ってみましょう。私たちは最初はいってみれば「内臓」だったわけです。ほぼほぼ「管(くだ)」だったのです。

そのあと動くために肉体が進化して、それに伴って脳も発達していきました。したがって脳と手足は新参者なわけです。

解剖学者の三木成夫氏は、私たちの身体は大きく「内臓系」と「体壁系」の二つの系があると書いてます。




“こころ(心情)”と“あたま(精神)”は、この心臓と脳に由来したもので、それぞれ人体を二分する“植物的ないとなみ”と“動物的ないとなみ”を象徴するものということになる。『ヒトのからだ/三木成夫』”
三木氏は植物器官である「内臓系」の意識を「心」、動物器官である「体壁系」の意識を「精神」としています。

「内臓系」は無意識的で非言語的、「体壁系」は意識的で言語的。前者は「肚」で、後者は「頭」。最近、「腸」と「脳」で対比させたりしますが、それは「内臓系」と「体壁系」のことですよね。

それから、「東洋的」と「西洋的」というのも、「内臓系」と「体壁系」なのかなあと思ったりもします。ただこれはパキッと二つに分離してるのではなく、複雑に混ざり合っています。


それだけではありません!
身体以外にも意識があると思ってます。そもそも宇宙は意識であるとか、すべてのモノには意識が宿っているとか、そういった類の話になっちゃうので漠然としてしまうのですが、このような神秘主義やオカルトっぽいのも捨て切れないのです。

第一、そうじゃなければ人類から「アニミズム」は生まれてませんよね。それを「太古の人類の迷信じみた間違った世界認識」と切り捨てるのは、どうにも抵抗があるんです。これを「霊系の意識」と言っておきましょう。

まとめると、意識には二つの系、「内臓系」と「体壁系」があって混ざり合っている。さらに身体以外にも「霊系」の意識がある。

「主観だから科学で扱うのは難しい」とか、「意識のハードプロブレム」という問題の他に、意識には三つの系が連動して三体問題のように複雑になってるから紐解けない、というのもあるのではないだろうか? などなどと漠然と考えております。合ってるかどうかは、まるで分かりませんが。

現在、科学的には意識は脳にあるとされています。人間の脳身体は神経の電気制御で動きますよね。体壁系は電気製品なわけです。物理学と化学で動きます。これは再現(製造)できるってことです。

もし「意識」が、「クオリア」が、ひいては「私」が、脳由来であるならば、いずれ解明されるってことです。

「だがしかし!」と、私はどこかで思ってしまうのですが、この科学の進歩のベクトルは止められないし、それに純粋にワクワクするのも確かです。


●在野の3人の研究者


私は「本物のインテリは在野」説、というか願望を持っています。すごい人はなんだかヘンピな場所で、群れずに、変わり者として暮らしていたりするんです。というか願望ですが。

イメージとしては手塚治虫の漫画の主人公「ブラック・ジャック」でしょうか。(二次元かいっ!)

現実にもいます。南方熊楠です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%96%B9%E7%86%8A%E6%A5%A0

でも、それって昔の人じゃないか。現在はそんな人いないだろう、と思ってしまいますよね? でも、いるんです。現在私が注目している、三人の在野の研究者を紹介します。



〈AIに意識を発生させるロボマインド・プロジェクト〉


意識の謎を言葉の意味理解に特化してプログラムで作ろう! というのがロボマインド・プロジェクトです。「チューリングテスト」に合格するプログラムを作るプロジェクト、そう捉えてもいいかも知れません。プロジェクトと書いてますが、田方篤志さんという方が一人でやられてるようです。

YOUTUBEチャンネルの動画を楽しく観ていますが、これはどうも哲学の話をしているのかなあ思えてくるのです。現代、なぜ哲学はダメになってしまったのか。それは哲学とは「意識の謎」に言及してるに他ならなかったからです。世界とは? 存在とは? とかって、まるっと意識の謎に集約されるのです。

ロボマインド・プロジェクトは「それ(哲学)って言葉の意味理解のことだから難しい言葉を増やしたり、ダラダラと思考実験とかしてないでプログラム作って実際に動かせばいいじゃん」ってやってるのです。

哲学を批判してるようにも聞こえますが、行き詰まった哲学をプログラムの実践で押し動かそうとしてるようにも感じます。

動画の見どころは、たまに入るダウンタウンの松本人志的なボケです(笑) (脳みそ貫通する話の動画はまっちゃんのコントとして成立しそうで『HITOSI MATUMOTO VISUALBUM』に入っていてもおかしくないと思えました)


もし会話するAIができたなら、ピッピやプップなどの13月世の精霊たちに実装させてあげたいです。





〈おにょTV ー音の図形ー 〉


「オニョロジー」という、音を軸とした体系を研究されているのが小野田智之さんです。
それは、ヴァイオリンのボディをタッピングして、同じ音程で繋がる線の形「フォノグラム 」からヴァイオリンを仕上げる技(わざ)で生まれた体系です。

板の共鳴が消えてしまう境目に「フォノグラム」の渦ができるので、その渦がなくなるようにボディを削っていくと、ヴァイオリンは綺麗な音が響くように仕上がるのだそうです。

この、美しい音色を出すヴァイオリン製作から生まれた「フォノグラム」は、人体にもそのまんま当てはまるというのが、「オニョロジー」の面白さです。

さらに興味深いことに、小野田さんは音を鳴らさなくても「フォノグラム」が見えるそうで、これはある種の超能力です。

私は「音楽を描いている」と【線譜】を描いていますが、音楽が見えてるわけではありません。音が色になる共感覚も意識できません。あくまでも「音楽」のイメージを描いています。それも「なんとなく」を頼りに描いています。根拠が自分で認識できないのです。

「フォノグラム」は音のデッサンに相当する、基礎的な認知だと思うのです。オニョロジーでは人間の認知を大きく二つに分けて、「前頭葉ゲシュタルト」と「後頭葉ゲシュタルト」と呼んでいます。

「前頭葉ゲシュタルト」とは言葉や理屈の思考、そして筋肉を使う運動を指します。この時、その人の「フォノグラム」は渦を巻くのだそうです。

「後頭葉ゲシュタルト」は、言葉や理屈の思考を外した認知と「姿勢制御筋」と呼ぶ筋肉ではない場所を使うゆっくりした動きを指し、その時「フォノグラム」の渦はなくなっていきます。

この身体フォノグラムの渦巻を取り去ることを目的とした、「もじもじ体操」の教室がオンラインで開設されています。

小野田さんのいう「前頭葉ゲシュタルト」は、三木成夫氏のいう「体壁系」とかなり共通してることが分かります。なので「後頭葉ゲシュタルト」と呼んでいる認知は「内臓系」に相当する可能性が高いでしょう。(実際動画を聞くとちょっと違うんですけどね)

三木成夫氏は著書の全編にわたって、「体壁系」より「内臓系」に重きを置いています。小野田さんも「前頭葉ゲシュタルト」より「後頭葉ゲシュタルト」を重要視しています。そこもそっくりです。

「内臓系」は植物器官です。植物は天体の動きとシンクロしています。動物も月の満ち欠けや季節に連動して動きますが、それは植物器官である「内臓系」の働きによるのです。

このように私たちの「内臓系」は宇宙と繋がっていますが、「体壁系」は天体の運行から離脱して自由に動く機能です。それを有するのが動物なのですが、人間はやたら脳が発達したことによって、ことさら「体壁系」が強く働き、天体の運行と疎遠になってしまったのでしょうね。

なので宇宙と繋がりを取り戻すには、「体壁系」の働きを鎮めるのが方法のひとつです。思考も筋肉も極力使わないようにする。それが「瞑想」なのかも知れません。

この「内臓系」重視の考え方は、そのまんま「後頭葉ゲシュタルト」重視の〈オニョロジー〉にも当てはめることができます。

また、小野田さんは「前頭葉ゲシュタルト」の動きを、「電磁波出ちゃってる」と言ったりしています。脳や筋肉の神経系は電気信号なのでその通りなのですが、重要なのは「電磁波」よりも「音」なのです。それは三木氏の著書では、まったく触れられていません。

電磁波も音も波です。私たちはほぼほぼ電磁波で世界を認識しています。オニョロジーは、同じ波でも音の波(振動)で世界を捉え直す世界体系のようにも思えます。

また、オニョロジーは仏教のように、自分で体感しないと意味がありません。そこが最大の魅力と難しさです。

「フォノグラム」を見れるようになったらいいなあとずっと思っていて、7月に「もじもじ体操」の講習を受けてみました。また機会をみてレッスンを受けたいと思ってます。

ところで小野田さんは「KENT」という音の数学理論を発表しています。
http://tomoyukionoda.com/2018/07/02/post-5012/

これは冒頭のケバヤシさんのデジクリを引用した「圏論を基礎においた意識の仮説」と関係がありそうな気もするのですが、どうなんでしょうかね。。




〈見えない世界の科学研究会〉


言葉の意味理解にフォーカスした〈ロボマインドプロジェクト〉は、「体壁系意識」で、「内臓系意識」と共通項の多いのが〈オニョロジー〉。最後のトリはやはり「霊系意識」となります。

「胎内記憶」とか「気」とか、怪しい感じがうんとしてしまう現象がありますが、それらは〈PF(パラサイト・フェルミオン)理論〉で説明可能というのが、理論物理学者の種市孝さんです。

「死後存続を科学的に立証できれば安心する人が増えるはず」という種市さん。亡くされたお母さまにお礼を言いたかった気持ちから生まれた理論のようです。

見えない世界を科学する「PF理論ドットコム」へようこそ



まず、宇宙を五次元と考えてみましょう。そうすると私たちは「四次元時空のブレーン(膜)」に貼り付いてることになります。

星も空気もみんな、時空四次元のブレーンに貼り付いて逃れられません。そしてこのブレーンの外側に五次元があるのです。五次元は見えません。なぜなら、光も四次元時空の膜に貼り付いているからです。

このモデルはリサ・ランドールの宇宙論でも登場するので、取り立てて変わったところはありません。

理論物理学者 リサ・ランドール博士 来日インタビュー.flv


この時空四次元のブレーンの外側、五次元方向にポテンシャルの凹みが存在してることが「場の理論」から導き出されます。川が高いところから低いところに流れるように、ポテンシャルの低いところに、五次元の物質は集まります。

そうすると、時空四次元のブレーンにあるフェルミオンにパラサイトする五次元方向のポテンシャルの凹みに集まったフェルミオンが存在できる、と。これが意識の正体ではなかろうか、と。

詳しくはこちらの動画を見てください。

浅草倫理法人会 経営者モーニングセミナー『最新物理学説で読み解く「生まれ変わり」の実在性』~種市孝さん~


そこで思い出すのはベルグソンの「純粋記憶」について、小林秀雄が言ったことを紹介してる茂木健一郎さんの動画です。

ベルグソンの純粋記憶について

外套とハンガーに喩えて、外套が記憶だとすると脳はハンガーである、と。ハンガーがなくなっても外套は残るだろう、と。つまり、脳がなくなっても記憶は残るだろう、と言っています。

これはPF理論で説明がつきます。

五次元(余剰次元)に何かある。これはすごくありえそうです。

映画『インターステラー』では、ブラックホールに入ると過去に戻ります。理論物理学では、重力は時空四次元のブレーンから飛び出すことをベースにしたストーリーです。

地球の中心は行けないし見れない。だけどどうなってるか説明できていて、私たちは教科書でマントルとか習うわけです。そのようにして、五次元方向にある物質が検証できたらいいなあと思うのです。

ケバヤシさんが猛進なさっている、アカデミズムでの意識の謎の探求、注目して行きたいと思っています。そして私も惹かれている意識の謎の探求、ゆっくりじっくり進めていきたいと思っています。



【武 盾一郎(たけ じゅんいちろう)/断酒243日目】

《ギャラリー13月世大使館》

9月のご予約は満席となりました。年内も予約が埋まりつつあります。ご予約開廊日スケジュールはこちらです。
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