AI画像生成はカメラになるか?

AI画像生成が流行っている。

私もMidjourney、DreamStudio、Gakyo、Craiyon、などを試してみた。
更に、DALL-Eには課金して試してみた。

結論としては

「これを使ってプロになるのはやはりプロ」

である。

音楽に例えてみると、シンセサイザーが出てきて、自動演奏・シーケンサーが出てきて、楽器が弾けなくても作曲ができるし、プロにだってなれる時代になって久しい。
しかし、「プロになれる人はやはりプロになれるだけのほんの一握りのすごい人たちだけである」ということには変わりない。

ただ、大金持ち、親がミュージシャン、英才教育を受けた、以外の人も音楽家になれるという民主化は確実に起こった。

それと同じことが絵の世界に起こるのは確かで、
親がお金持ちでかつ理解がないと美大芸大なんかに行かせてもらえないだろうが、
美大に行かなくても、高いお金を払ってデッサンを勉強しなくても視覚芸術でプロになれる民主化は起こる。
というかすでに起こってるんだとは思うけど、まだ絵を描くのが上手な人だけだった。
絵が描けるというハードルこそが「最強の篩(ふるい)」となっていた。


AI画像生成が今後どんな革命を起こすかはまだ未知数だけど
まず思い付いたのは「ワープロの登場で小説の内容に革命は起きたか?」だった。

キーボードで文字打ちするのが当たり前となっている現在であるが、
その前は、当前であるがペンや鉛筆で原稿を書いていた。

ワープロが出てきた時に、
「手で書かない文章は駄文だ」、「ワープロが文学を劣化させる」みたいな言説が「頭が良い」と言われている人たちからかなり噴出していたことは50代の人なら誰でも記憶があるはずだ。

結果はどうだ?
手書きじゃない現在の文学はワープロが登場する前より劣化したか?


AI画像生成は「呪文」と呼ばれているプロンプトで生成される。
絵を描く腕よりも、「良い呪文を操れる人」の方が面白い絵を生み出せる。

「描くという行為」のショートカットに対しては真摯な画家ほど怯えるであろう。
「描く」という身体性にこそ「絵心が宿る」と信じているからだ。

もちろん私もその信仰は持っている。
なぜなら「描くことは祈り」だからだ。


しかし、
ワープロ登場の「キーボードでテキスト」黎明期に「直筆の手書き文章にこそ魂が宿る」と息巻いていたインテリたちの言説はどこに行った?
ということをしっかり認識しておくことだと思う。


そこで、文章の場合は手書き文字が本になるわけではなく印刷物やKindleという複製物となるから絵とは比較はできない。と思うかも知れない。

しかし、私たちはほぼほぼ絵をモニタで観る。印刷物で観る。

その絵が好きか嫌いかはまずデータで判断している。
世界の名画なんて、ほとんど現物を見たことすら無い。

手描きの絵を鑑賞することと、ネットや本で絵を観ることは本当は違うことだけど、ここがきっとこれからの何かであろう。



Midjourneyで生成した絵が賞を獲ったことがニュースになってたけど、別に何も不思議ではない。
これ、アーティストだったら憤慨なんてしないと思うんだ。

もし怒ってる絵師がいたとしたら、「怖がってる」だけのことなので、そっとしておくのがいい。


AI画像生成で予想される絵画コンテンツ革命は、
「絵が描けることによって失われてしまった何かを描いた絵」だと思う。
テクノやヒップホップには「楽器が弾けないからこそ」の作品があるように。
なので、絵の上手い先生ほどこれからの絵画コンテンツ革命は見えにくくなってしまうだろう。
画歴と腕に誇りを持っちゃっている人は気を付けた方がいい。


そして、考察を進めたいのはアートについてである。

カメラの普及によってアートはものすごい変貌を遂げた。
印象主義、抽象画、キュビズム、フォービズムetc。。。
これらは絵画コンテンツ革命である。

そこから更に、マルセル・デュシャンの登場でアートのフレームそのものを問うのがアートとなり、
絵画の内容である「コンテンツ」を切磋琢磨する次元から離脱する。


以降アートは基本的にフレームの問題となった。

今ではそのフレーム自体を取り払うところまで来ていて、
コンテンツでもない、フレームでもない、そうなるとアートはもはや「空(くう)」である。

現代アートが分からなく感じるのは、アートがやっていることのエッセンスが「コンテンツ」ではなくて「フレーム」にあることが捉えにくいからだ。
というか、ほとんど全ての人はいまだに「コンテンツ」の内容や質を喧喧諤諤しているだけで、これは案外と画家もそうなってしまっている人が多いのである。
もちろんコンテンツの内容とクオリティこそ重要で、そこに尽きるのだけど。。

やっぱりここが難しいのだ。

そう考えると、コンピュータが「強いAI」「汎用AI」になれない理由である「フレーム問題」とオーバーラップしてくる。


AI画像生成で失業する人が増えるとか、どうのこうのに関しては興味がない。
産業革命と同じでラッダイト運動が起こって破れるだけである。
画家、イラストレータ、漫画家、アニメータなどのクリエイターは結構な割合で不要になる。
それが分かってるんだからあとは自分がどうするかだけである。
「男には負けると分かっていても戦わなければならない時がある」と滅びに殉じるのも一興。
早々と鞍替えするのも有り。
工夫を凝らして生き残りを図るのも有り。
なんか分からないからボーッとしてるのも立派な選択肢だ。
抗わずに時の流れに身を任せるのが正解だったりもする。
自分の選択を意識さえしておけば案外大丈夫なものだ。



コンテンツがどのように進化するのか?
これにはちょっと興味がある。
絵画、イラスト、漫画、アニメ、映画、映像、3D、彫刻、建築、音楽、文学、詩、戯曲の全てにAIが関わり、百花繚乱となると思うとワクワクする。

ただこれ、ネガティブな予想になるけど、「資本」と「コンテンツの面白さ」が正比例する可能性が高い。
ここは今後、どのような状態でテクノロジーが発達するかにも関わってくるし、どちらかというと「資本主義」がどうバージョンアップするか問題だし、政治とかとも絡んでくるだろうし、個人の力でなんとかなるかは分からない。
民主化・フリー化・オープン化に進もうとしているベクトルも当然あるので、人類が幸福に向かうことを信じて楽観的になることにしよう。


そしてこれが本命であるが、
アートがどうなるか?

これこそが本当の楽しみなのである。


予想はまるでつかない。


ただ、AI画像生成の発展・進化・普及によってアートが更新されることは確かだろう。
つまり、AI画像生成はカメラとなるのである。


どんなアートが、どんなフレームが、またはフレームに替わるどんな概念が登場するのか?
それらが思い付いたらまたメモすることにする。


アートがバージョンアップしたその先は、
アートが当たり前となり消滅する
という可能性もひょっとしたら、ある。


最後までお読みいただき有り難うございました。


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