映画「TAR(ター)」を観て(安心してくださいネタバレしてません)


イオンシネマ大宮で観てきました「TAR」。
この予告だけを観るとまるでホラー映画のようなので、ちょっとビクビクしなが挑みました(笑)

観終わった瞬間は「????」でした。

そして「観終わってからがこの映画の本当の始まり」のようにずっと「ター」のことについて考えてしまうのでした。

とても綿密に繊細に作られた映画だけど、解釈は自由にできる映画で、そこがとても「映画らしい」と感じました。
こうしてブログに書いてるということは相当自分的にインパクトがあったからでしょう。

ターは天才指揮者ですが、権力を持ち過ぎてしまったがためにセクハラやパワハラが常態化していて、それが暗黙の了解となっている。
これはきっとどこの業界でも似たようなものが大なり小なりあって、しかも、かなり昔から「当たり前」のようにずっとあって、
あまりにも行き過ぎた場合や時代の価値観が大きく変わるとき、その腐敗していた権力システムが崩落する、っていうのが歴史なのかなあと改めて思った次第です。

手塚治虫だって石ノ森章太郎の才能を潰しにかかったエピソードは有名だし、ジブリだって似たような話は探せばいくらでも見つかるでしょうし。
指揮者と演奏者、師匠と弟子、プロデューサーとアーティスト、監督と役者、売れてる人と売れてない人、どうしても権力的なものは生成されてしまうんですよね。

この映画の最大の魅力として解釈が自由にできるところがある。
まず、「ター」は最悪な人間か? と問われるとこれが難しいのである。
確かに高圧的で傲慢な言動が表現されていて観てる最中は「うわあ、きっついヤツ」って感じる。しかしその気高い振る舞いが指揮の姿の美しさと重ね合わされてしまい、なんだか「悪い権力者」に見えないのである。というか私はそう感じてしまったのである。
これはほとんどケイト・ブランシェットの演技の凄さと美しさによるものだろうけど。

しかし、観る人によっては「最悪の権力者」にも映ったかもしれなくて、そうだとしてもすごく納得する作りになっている。

「絵に描いたような悪(あく)どい権力者」が描写されている方が見る方は楽だ。悪者以外に解釈の余地のないキャラクターにしてしまう方が分かり易い。
それに「どれだけ悪どい権力者を描くか」という作り手側のクリエイティビティを想像するのも楽しかったりする。悪を悪らしく作るってかなりワクワクすることを私は知っている。
しかし「ター」は完璧主義者で天才で雄弁で美しいが、神経質で繊細で気が小さく弱々しいところもある。

ターはオーケストラを私物化し自分が気に入った子を依怙贔屓する。
確かにそういう嫌な上司やジブリプロデューサーはいる。
それって、その人が悪いと思うし、確かにそうなんだけど、
映画を観てから二日経つと、ひょっとしてパワハラやセクハラの問題って加害者の人間性というよりは、構造の問題なのではないだろうか?と思えてくるのだ。

権力と権威を作り上げてしまう構造が芸(術)には常に付き纏っている。

アーティストが作ろうとする作品は常に権力や権威からの解放を目指すのに反して、芸術産業の構造は権力と権威で維持されていて、内部にいる人は薄々気が付いていてもそれがこのシステムを成り立たせているので何も言うことができないか、またはあまりにも当たり前に(権威と権力が)あるのでそれに気が付かなくなっているか、
というよりも、そもそも権威がないとアートは成立しないという自己矛盾を抱えているのである。


「アート」から権力と権威の構造を抜き取ったら何が残るのか? そしてそれを抜き取ったところで芸術家は生きていけるのか? 難しいと思う。
本当に権威や権力から逃れたかったら、それをアートらしい場所(ギャラリーであるとか美術館であるとかアートオークションであるとか)で発表しないし、それを「アート」だとも言わないのだから。

これらの問題に対してアーティストはそれぞれに答えを出し、折り合いをつけたり、自己欺瞞にそっと蓋を閉めたり、(または自らの権威主義性に無自覚のままに)、やっていると思う。

私たちが「ギャラリー13月世大使館」を作ったのも、そういったものから自由になるための自分なりの答えと実践でもあるだが、維持・運営を続けていくのはそんなに簡単ではない。

でもいつかは、アホみたいにナイーブにイノセントに天真爛漫に絵だけを描き続けていたいのである。
(まあでも制作は天真爛漫に気の向くままにできていたりはする。問題はそこから先や周辺のことである)


パワハラやセクハラが発生する構造と、芸(術・能)の発生が不可分であったことから、それを我慢するしかないという流れが変わっていくのだ。
アンビバレンツに耐えて慣れて親しんでタフに生き抜いてこそ「芸」に生きる道なのだ、という考え方もあるかもしれないが、ある時その価値体系は崩れていくだろう。


ここ最近の日本の芸能界のニュースもそういったパワーバランスの節目を感じる。
芸能界だけでなく大衆レベルでだって、つい一昔前は宴会で先輩が注いだ酒は飲み干さないとならなかった「俺の注いだ酒が飲めねえのか!」って。そうやってシステムは回っていたのである。

もうちょっと大きな話で言えば先日の「G7広島サミット」でなんとなく感じたことがあって。
サミット参加国を「先進国」と呼ぶが、ちょっと前までは本当に欧米の代表国は世界をリードする先進国のイメージがあったが、なんかもう今年のは世界のどこかのローカルのような印象で、それが気にかかっていたのだ。
G7の他に、中国、インド、ロシア、中東、東南アジア、それからアフリカ大陸、そして南米、めっちゃあるやん。しかもG7より、中国とインド足した方が今はすごくね? みたいなのがありありと感じたのだ。

このことと「ター」への感動は無関係ではない気がしていて、つまり、(西欧の)オーケストラ音楽は音楽芸術の最高峰であるとされてきた、ここ200年くらい。しかし、そういう権威がどんどん無くなってきて、今ではもうオーケストラは音楽の一種であって「偉い」とか「正統な」とかじゃなくなっている、と。
これは当然、芸術全般にも言えて、「芸術」という概念と権威は明らかに西洋発祥であり、それが今でも続いているような気がするけど、パワーバランスは明らかに変化している。芸術関係の雑誌が軒並み縮小してるのは、その変遷が上手に汲み取れてないからであろう。

この何か大きな時代の変遷が映画のラストを象徴しているように私は感じたのだ。


そして、いろいろ含めて私にとっては「希望の映画」に感じたのだった。
優しさを感じた。

そう。怖いけど優しい映画なのだ。

また、繊細な音作りも素晴らしいので、ぜひ映画館で観て聴くことをオススメします。


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それから、ターとは関係ないようにも思えるけど、なんか関係あるようにも思える動画を紹介します。

中田敦彦のYouTube大学 - NAKATA UNIVERSITY
【松本人志氏への提言】審査員という権力

私、本当にダウンタウン好きでした。ビジュアルバムも観たし「大日本人」も好きでした。
そして今、中田敦彦さんのこの動画を観て、大いに納得するところもあります。
また、事実は知らないけれど、まっちゃんも断りきれないところがあるんじゃないのかなあとも思います。
タモリ、さんま、たけしの巨匠は確かに審査員みたいな場所には行ってないですけど、だからこそまっちゃんしかいないっていうのもあるんじゃないのかなあ、と。


案の定、この動画が大炎上してるので色んな人が炎上馬に乗っかってPVを上げようと頑張ってますが、その中で私の好みの動画も紹介します。

ヘライザーさんの悪い癖【戸来ミュージアム】
オリラジ中田敦彦 が 松本人志 に 提言 ! 宣戦布告!お笑い M-1審査員 辞めろ【吉本興業 ダウンタウン 最新情報】

ここでへライザーさんの原稿では「中田敦彦がエンタの団体作ればいいじゃん」という正論を提案していて「なるほど確かに」、と思ったけど、
中田あっちゃんはまっちゃんに
「松本さん映画すべってたじゃないですか」と言って、
「うるさいわ!この顔デカ!」ってまっちゃんにつっこんで欲しかっただけ、というのは案外真実かも、と思いました。


最後までお読みいただき有り難うございました!

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