『さかなのこ』に感動したよ!(ネタバレあり)

ChatGPTに記事の内容を絵にしてもらいました

映画『さかなのこ』を鑑賞しました。
主演の能年玲奈さんの存在感にはいつも心を奪われます。
アニメ『この世界の片隅に』の声優も素晴らしかったし、本当に魅力的な俳優さんです。


「邦画スイッチ」

邦画を鑑賞する際、「邦画スイッチ」という概念を導入すると良いでしょう。
例えて言うと、「翔んで埼玉」を観る時に誰もが入れているスイッチです。
誰もがこのバカバカしい「お話し」を分かっていて、「あえて楽しむ」という共犯マナーです。
「ごっこ遊び」と言っても良いでしょう。

これって実は芸術を楽しむための「心構え」です。
伝統的で文化的な視点で例えるなら、
「人形浄瑠璃」を楽しむ際に必要な「見立て」の感覚と同じです。

黒子のおじさん見えちゃってるし、人形の表情は変わらないけれど、それらを分かった上でその中に秘められた芸術を感じ取る「遊び」です。
黒子のおじさんを見ないことにして楽しむのではなくて、見えてることを含めて楽しむのです。こういう「お約束」があるのです。

世界に入る為に「ステップ」を必要とするので、作法の敷居がハイコンテクストになり過ぎると、面倒臭くて敬遠されてしまう現実があるのですが、
実はここにこそ「文化」が宿ります。

「ハリウッド映画」とはその段取りを意識することなく、感覚的に世界に連れて行ってくれる作品群です。
その為には人間の快楽に則った演出が必要で、そこに莫大な製作費が投じられるのです。

良し悪しは別として、ハリウッド的な見せ方を「受動的作品」、段取りを必要とする表現を「能動的作品」と大きく分類することができるでしょう。

例えば、「本を読む」ことが現代でも文化的行為である根拠は、「読む」という能動性を伴うからです。だから面倒臭い。
動画を観る方が快楽性が高く楽なのですが、読書よりも受動的な鑑賞となります。
で、人類は「読む」という「能動性」を洋式化して「文化」のエッセンスを溜めてきたです。

ここには快楽とは本能的で野蛮であるという偏見があります。
なので自分が文化的だと自負している人は、ハリウッドやディズニー映画のように快楽を享受できちゃうコンテンツを、低く見ちゃう「落とし穴」に気を付けるのです。

では、ハリウッド的受動的作品は快楽に則るのだからプリミティブなのか?というと一概にそうとは言えなくて、
例えば、子供の頃の遊びを思い出すと、全てが「見立て」で成立しています。

「鬼ごっこ」は、鬼に触られただけで鬼になる「お約束」が成立しています。鬼になった子の姿は何も変わりません。
この「見立て」は「地面に棒を4箇所に立てて紐で繋いで囲いを作ると聖域になる」という神道に源流があると私は推測しています。

これを「ハリウッド的仕立て」にするならば、触られると鬼に変身する物凄い仕掛けのある高価なスーツを全員が着用するとか、または全員がヘッドセットを被ってARで触られてるとその子の体がモーションキャプチャされた鬼CGと合体してリアルタイムCG鬼になる、とかになるのでしょう。

「おママごと」もそうですが、泥団子は本当のお菓子とほとんど似てません。しかし、泥団子を美味しく喜んで食べたフリをします。
これを「ハリウッド仕立て」にするならば、上記と同様に超絶リアルなキッチン用具とお菓子のおもちゃとかになってくるのだと思います。

こういった「ごっこ遊び」はプリミティブですよね。
世界を「見立て」や「お約束」で「共有」し、想像力で補う能動性を、
「ハリウッド仕立て」は実際に凄いものを出して想像力補完を減らして快楽を刺激します。
故に「受動的作品」と言えるのです。
技術の進歩や人間の欲求は「ハリウッド仕立て」方向に常にベクトルが向いていますので、心配性な年寄りは「文化の劣化」を嘆くワケなんです。
でもこれ、案外と大丈夫なんだと思いますよ。


話は逸れてしまいましたが、
『さかなのこ』もこの「邦画スイッチ」を入れて鑑賞するととても楽しめます。
さかなくん「ミー坊」を女性の能年玲奈が演じる違和感を、さかなくん本人が登場することによって、虚構を成立させていて「見立て」にスッと入って行けるのです。
私はここで「邦画スイッチ」が入りました。
これによって世界への没入を深めてくれています。


独特の間と映画らしい空気感

邦画には、ハリウッド映画やアニメにはない「独特の間」が存在します。
これは予算をかけられないから「間」で観せる現実的必要性から生まれた表現かも知れませんが、ここを楽しむかどうかもポイントになるかと思います。

『さかなのこ』では、この間が特に印象的で、映画らしい空気感を創出していました。
例えば、クレヨン梱包のビニールを破るシーンなんかは妙に長いんです。破り方が下手くそでそれを長々と撮っているのですが、そこにミー坊のうまく行かない気持ちがうまく表現されていて、その後に酔っ払ってクダを巻くシーンの説得力を上げています。
あれ、ビニール袋のシーンをサクッと流してしまうと酔っ払っているシーンがつまらなくなっちゃうんですよ。
ちょっと「取って付けたような酔っ払い方」で、それがミー坊のやるせない気持ちの現れにフィットしているのですが、それはクレヨンの包装を破るのがみょーに長いカットが効いているからなんです。
演出も良いし、のんさんの演技もとてもいいんです。

この味わいは二倍速視聴だと楽しめません。

演技はのんだけでなく、モモコ役の夏帆、母のミチコ役の井川遥も素敵なんです。

男性はみんな純粋でバカで優しいという単純化が施されています。
「ヤンキー」という記号を極限までチープ化にさせた演出は、長年の日本のドラマや漫画や映画でのヤンキーの取り扱われ方と現代のネットミーム的な文脈を踏まえると、絶妙にうまいバランスになっている感じがします。
思いっきり「カリカチュアライズ」されているのに、細かいところで演技性をゼロにさせている「素」みたいなところがあって、
そこを男性陣がちゃんと面白くこなしていて、すごく「来るべきホワイト社会」を感じるし、それが爽やかで今っぽいんです。

そして邦画全般に観られる「チープな演出を面白がる作法」って、タモリ倶楽部の「空耳アワー」がかなり貢献してるんじゃあないかなあと推測します。
番組が終わってしまったので、「空耳アワー」は文化の作法を作ったんだ、とここに刻みたい思いです(笑)。


映画としての色気

『さかなのこ』は直接的な恋愛要素がありません。さかなくんを女性が演じていてみんな「さかなくん女じゃん」って分かった上で見ているので、ここに性を持ち込むと非常にややこしくなるからでしょう。
というか、この性がこんがらがる「見立て」によって独特の「色気」が映画に漂っています。
ミー坊と同級生男子ヒヨのシーンに男同士の友情とは違う、素の男女間エロスがBL的何かと混ざって醸し出されてしまい、それが翻って映画の魅力になってしまっているのです。

数少ない恋愛シーンとしては、ミー坊とヒヨとヒヨの彼女の3人のシーンがあるのですが、ミー坊が男でもあり女でもあるので観ている側の脳がちょっとバグって面白いのです。
それから、モモコが小さい娘を連れて一瞬3人暮らしになる展開もあって、男の一人暮らしのアパートに女性が転がり込んでるはずなんだけど、ミー坊が男性なのか女性なのか分からないので奇妙な感じになる。
これ、狙ってますよね?

また、床屋さんの前に座る男性がいてそこの前を通るシーンが繰り返し登場しますが、これ、『髪結いの亭主』へのオマージュだと思うのです。とてもエロティックな映画で、『さかなのこ』でもエロティックな感じがサラッと演出されています。

てことはこの映画の独特の間ってフランス映画オマージュってのもあるのかも知れないですねえ。
ラブシーンも恋愛もないけれども、ミョーな「色気」もこの映画の魅力です。


まとめ

『さかなのこ』は、能年玲奈さんの素晴らしい演技だけでなく、邦画ならではの美学や演出に溢れた作品です。
この映画、絵画で例えるとめっちゃ細密画なんです。
ハリウッド映画に比べると、低予算っぽさが見えてしまうのですが、それにしても沢山の要素が散りばめられていて、誰もがその繊細で素敵な演出・演技に一つは気が付くでしょう。

「普通ってなに?」というメッセージと爽やかな後味がとても「現代らしい」なあとも思いました。
皆さんも、是非この映画を鑑賞し、あなた自身の「邦画スイッチ」を見つけてみてください。


※今回のレビューについて
床屋さんの前のおじさんシーンについて、岡田斗司夫さんが当然「あれはフランス映画『髪結いの亭主』なんですよ」って言うものだと思って観てみたら言及してなかったので、「うわ、これ『髪結いの亭主』だって言わなきゃ!」という意味不明な使命感がムクムクと湧き上がってしまい、そんな謎モチベーションでこのブログのエントリーを書こうと思った次第なんです。

そしてこのブログ記事を試しにChatGPTに講評させて、さらに記事を修正出力してもらいました。
「小見出し」とか情報量の無い賛辞の言葉とかを書いてくるので、それらをリミックスしてみました。
生成AIが出力したフレーズを利用して曲を作る、みたいな。
楽しんでいただけたら幸いです。


最後まで読んでいただいて有り難うございました!

▶︎ 映画『さかなのこ』公式サイト

それから言い忘れてましたが、エンディング曲がめっちゃ良いです!!!
↓↓↓
靴、グランズだよね?
かわいいー

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