ゴジラ-1.0(ネタバレしてます)



●今年一番感動した出来事


映画が終わった瞬間、私は今年一番感動していました。

ひとりで観に行ったので、泣くのを我慢してしまうこともなかったのでボロボロ泣きましたし、
そして、まるで子どものようにゴジラに怖がりました。

ホクホクした気持ちで映画館を後にした私ですが、
家に戻ってしばらくすると私の批評家脳がムクムクと立ち上がり、

「なんかこの映画、評価していいんかな?」という疑問が湧いて来てしまうのでした。

思い返して考えてみると、「ん? ちょっと待てよ?」と思うシーンや展開が結構あって、そういうところで引っかかってしまうと、この映画に入っていけなくなっちゃうのではないかなあと思ったのです。

太平洋戦争を扱うだけあってシリアスになってしまうので、
「いや、それはないだろ〜」となってしまう可能性があったのです。

例えば、主人公の特攻隊員の敷島浩一や大戸島の守備隊基地の兵士たち肉付きや肌質の良さ、服の綺麗さ、髪型、、、
まず、ここで「ないわ〜」って挫折しそうになるし、実際になった人もいたかも知れません。
戦場ですら現代を映し出す「ホワイト」状態になっているのです。

しかし、ここでそんなことを気にして冷めてしまう間もなく、グイグイ引っ張って行くので、映画世界に巻き込まれて行くのでした。


批評家気取りの自分に向かって私はこう言うのでした。
「ちょっと、思い出して、
子どもの頃、ウルトラマンの顔がアップになった時、仮面の表面が割とザツだったり、怪獣の動きが完全に肉襦袢の着ぐるみだって分かるところを観て冷めましたか?」、と。
むしろ、その後のツルツルすぎるウルトラマンや、人体の骨格とは違う動きをちゃんとさせたCGの怪獣、ピアノ線の見えない戦闘機、、、といった、映像クオリティの上がったコンテンツを観て、ちょっと寂しさを感じましたよね?


世界初の映画は駅のプラットホームに蒸気機関車がやってくる映像だったそうで、
観客は迫り来る蒸気機関車を見て客席から逃げ出した、という逸話を聞いたことがありますが、
Wikipediaを見てみるとやはりそのことが書いてありました

映画というものはそもそもそういうものなのだ。視覚で驚く装置なのですよ。

戦後焼け野原の状態はああじゃないよね、とか、
2人の関係とか女性の変容とか不自然過ぎるよね、とか、
なんで状況を説明するセリフにしちゃうかなあ、とか、
なんで怒鳴る大袈裟な演技にしちゃうのかなあ、とか、
爆風が来たら一緒に倒れ込むだろう? とか、
いやそれ脱出装置仕込んであるオチ分かってもうたやん、とか、

いくら命を大切にするというメッセージが込められているとは言え、実際にあった第二次世界大戦をセカイ系で処理しちゃっていいんか? とか、

でも、それらは結構どうでも良いことで、

セカイ系メロドラマとしてついうっかり感動できちゃえばいいんですよ。

そして、
ゴジラが怖く感じたかどうかが映画の骨。

ゴジラ怖かったです。最高!

これでいいんだなあって思った次第なんです。

なんとなくだけど特にアート系や文化度高い(と自認してる)系の人はこの『ゴジラ-1.0』を手放しで評価するのは躊躇しそうだと思いました。

映画を観てる瞬間のワクワクドキドキ体験が映画の本質なんだから難しいこと考えなくていいんだよ! と、自分に言い聞かせるのでした。

これを「ピカソより普通にラッセンが好き!」問題と私は呼んでいます。


●ピカソより普通にラッセンが好き問題


“文化度が高い(と自認する)人”は、「ラッセンの方が(本当は)好き」と言いづらいのです。
私もこの病に罹患してました。だいぶ治ったのですが、後遺症が残っているのです。


「ラッセンが好き」となぜ言いづらいのかというと、ひとことで言うと「アート」として(あんまり)認められてないからです。
言い換えると、「アートとしての文脈が与えられていない」、からです。

絵ヅラがチャラいとか、デッサン力が本当はないとか、いわゆる「画家の腕」の問題ではないです。
また、よく言われている「金儲け主義だったからダメ」とかの問題でもないと私は考えています。

確かに売り方が強引で多くの買った人たちから顰蹙を買ったのは事実らしいです。
そしてそれを根拠としてアートではない的な見解がなされていますが、それは「アート」とは別問題です。
本質的には「アートの文脈」で語られてないこと、作家本人もアートの文脈について語って来なかったこと、だろうと私は考えています。

じゃあ、
ラッセンは「アートの文脈を獲得できない」のでしょうか?

「いいえ」と私は答えます。

ラッセンは将来、アートの主流のメルクマールになる可能性すらあると考えています。
その話は後々できたらと思います。


さて、
「ピカソとラッセンの絵のどちらをあなたの部屋に飾りたいですか?」と質問されたら、
しばらく考えてから「ラッセン」と私は答えるでしょう。
理由は美術館ではなくて「自分の部屋」だからです。
ラッセンの絵を寝室に飾るイメージができましたが、ピカソの絵は飾るイメージができませんでした。
そうするとラッセンに軍配が上がります。
いや、本当は「ラッセンからイルカを消した絵」なんですけどね笑

そして更に加えると、寝室で飾りたい絵こそが未来の現代アートの最先端の現場になると私は考えています。
理由は長くなるので先述した通り後々書けたらなあと思ってます。


●感動する映画とすごい映画


話を映画に戻します。

今年は『哀れなるものたち』も観ていて、
絵本のような世界観にワクワクして大興奮だったのですが、
『ゴジラ-1.0』も上記のようにしこたま感動しました。

映画館で観て本気で楽しめた映画が両方ともアカデミー賞を受賞したのでとても嬉しいのです!
あ、『君たちはどう生きるか』も賞取ってましたね!
(私、この映画にはあんまり乗れなかったんです。。。でも、もう一度観たら変わるかも。実は『千と千尋の神隠し』を1回目観た時、イマイチ感ハンパなかったのに2回目観たら「これはすごく面白い!」ってなったので)

いやあ、映画って本当にいいですねえ。

ところで、
映画を観終わった瞬間は『ゴジラ-1.0』の方が感動してましたが、
月日が経って「これは良い映画だよなあ〜(うっとり)」と、記憶に残るのは『ゴジラ-1.0』ではなく、
『哀れなるものたち』になりそうだなあって思ってます。。。


ちなみに、ここ10年の映画のトップワンは『ジョーカー』です。
次いで『この世界の片隅に』。このツートップは手強いです。
第3位は『かぐや姫』です。
数年後に3位が『哀れなるものたち』となるかもって思ってます。


こんだけ感動したって書いてる『ゴジラ-1.0』は入ってないんかい! と、ツッコミを入れてくれたあなた、
有り難うございます。

そうなんです。

その場での感動と「映画としての凄さ」って違うんです。
確かに視覚で驚くのが映画の原点で、ドラマで泣かせてなんぼのものだというのはあります。
ただ、その感動は消費されてしまうんです。良くも悪くも。


私が求める映画としての凄さは、ガッツリ感動してスッキリできる消費性の強い作品よりも、
「いったい人間ってなんなんだろう?」とか、「うーん、、、」と唸って落とし所が分からない感じだとか、引っかかりを残し続ける作品の方が凄みがあると考えておりまして、
まあ、要するに好みの問題なのですが、そうなんです。


『ゴジラ-1.0』だって最後に首筋のアザが動いて謎が残るじゃないか! と、思うかも知れませんが、それは「人間とは何か?」という問いかけではなくて、コンテンツの中のクロスワードパズル(謎解き)で、ゴジラという存在、「ゴジラとは何か?」に対する言及というワケでもないのです。

別な言い方をすると、消費系の作品というのは、「作品を成り立たせているフレーム自体に揺さぶりをかけていない」のです。
だから安心して感動できます。

ところが私の考える「すごい映画」とは、そのフレームを超えて概念に揺さぶりをかけてくる(と私が捉える)作品のことを指します。
なのでリアルタイムで感動させることとはちょっと違う要素が必要になるのです。


でも本当に『ゴジラ-1.0』、感動したことは確かなので素晴らしい映画だということは断言しておきます!


最後に『哀れなるものたち』の映画広告の動画で締めたいと思います。
ゆりやんレトリィバァさんのモノマネ、声も顔も全然違うのに、完全に淀川長治なのです。
彼女は淀川長治のイデアを抽出してるのです笑。天才。
勉強になります。有り難うございます!



最後までお読みいただき、有り難うございました!


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