30年来の衝撃『バックビート』③最終回「誤拍裏打ち」は「擬洋風建築」となるか?



バックビートで演奏できるかどうかはこれができるかどうかだそうです。

ちなみに私は速い方が上手くできません。
バックビートで演奏するのはこのままでは難しいようですわ。。。
まずは手拍子と足踏みでバックビートを体感して遊ぼうと思っております。

なので「バックビートができなくてもバックビートについて語っても良いんだよ」という
「絵が下手でも絵について語って良いんだよ」みたいな、
バッと見「自由で物分りの良い優しい人」に見える「ぬるいスタンス」を取ることにいたします。

「ゆる言語学ラジオ」のように素人のフリをしたガチだったらカッコいいのですが、「ニワカ」感丸出しでやってまいります。


「グルーヴ」って何?


「グルーヴ」とは「溝」と言う意味です。なんで「溝」なのかサッパリ分かりませんでした。

バンドをやってた頃、飲みながらそんな話しになることは当然何度もありました。

その時の大まかな内容は
・「リズムの裏」を感じること(細かいリズムまで感じとれること)
・ジャストより少し(後ろに)あえてずらしていること
・そもそもリズム感が(黒人とは)遺伝子的に違う

ここら辺に収束します。
とんでもなく複雑なことを黒人は出来るんだ!って思ってました。


『松村敬史 日本バックビート振興会 会長』チャンネルを聴きながら手拍子を打ったり足踏みしたりして、「バックビート」を体感する中で分かってきたこともあります。

松村さんによると、「グルーヴ」とはシンプルに「ノリ」のことのようです。「ノリ」とはシンプルに「リズム」のことです。

もともと西洋音楽は頭重心のリズムです。クラシック音楽がそうですよね。もちろんアメリカの音楽ももともとは頭重心だったそうです。
そこに、2,4拍目にリズムの重心を置く(バックビート)黒人音楽が登場し、それを「グルーヴ」と呼んだ、とのことです。
なので「グルーヴ」という言葉は黒人たちの「バックビート」音楽を出自としています。

『Earth, Wind & Fire - Let's Groove』

私にとって「グルーヴ」と言えば、この曲アース・ウィンド・アンド・ファイヤーの『レッツ・グルーヴ』ですが、当然リズムの重心は2,4拍目の「バックビート」になっています。
しかしこの曲、「リズムの重心」が2,4拍目にあるなんて全く分かりませんでした。

私たちが「グルーヴ」という言葉を喋る時、リズムの重心がどこにあるかという認識は全く無く、「ノレる曲」というニュアンスだけがあります。
「このバンド、いいグルーヴ出してるねえ」なんて言ったりしてたのですが、凄く曖昧なものだったのです。


リズムの重心が頭にあってもグルーヴ(ノリ)は生まれます。

『Awa Odori in 1950's 阿波踊り1950年代』


この昔の阿波踊り、いいでしょ? ノレるでしょ?
要するにちゃんとリズムの重心がしっかりしていると生まれるのが「グルーヴ」なんですよ。


ところで、
私の大好きだったバンド「ゆらゆら帝国」の曲で『夜行性の生き物3匹』があります。


阿波踊りがピッタリとハマってます。
「ロックという洋物」と「日本土着の阿波踊り」の意外なマリアージュ、スノッブなセンスとしての表現にも感じますが、
そもそも日本のロックがバックビートではないまま受け継がれて来たことによる批評的なMVかも知れません。

天才・坂本慎太郎がどこまで分かっていて意図的なのかは知る由もありませんが。



「誤拍裏打ち」は文化か?


(まず、「誤拍裏打ち」ってなんだ? と思った方は
前回『②ロックもジャズ輸入されていなかった!』か、
または初回『①それはプロだから?』から読み直してみてください)


前回、バックビートの感覚を保ちながら日本人の曲を聴いてみるとバックビートの曲は皆無だと書きました。
歌謡曲、J-POPはもちろんですが、ロック、ニューミュージック、シティポップ、ラップ、ジャズ、ブルースに至るまで、ほぼ「誤拍裏打ち」です。壊滅的です。


これは一体どういうことでしょう?

「グルーヴ」(リズムの重心)とは何かが分からないまま、
(ロック・ジャズ・ブルース・ファンクなどのアメリカのポピュラー音楽全般の「バックビート」を認識できないまま)
「誤拍裏打ち」となってしまって今に至っていると私は仮定しています。

つまり、日本人ミュージシャンは分かっていてあえて日本文化として頭重心の音楽を表現しているのではなく、
分からないまま、「誤拍裏打ち」という状態になってしまっていて、かつそれにすら気が付かず、
半世紀以上洋楽風のJ-POP・ロック・ジャズ・ブルース等々を生み出し続けてきたんじゃないか、
というのが私の推論です。



以前からちょくちょく聴いている好きなチャンネルに「みのミュージック」があります。

特に『オーディオブック「戦いの音楽史」【前編】』


『オーディオブック「戦いの音楽史」【後編】』


そして、
『邦楽通史解説』


これらは圧巻です。
みのさんは音楽を「アート」として捉えていると思います。
ここでいう「アート」とは何かというと「文脈」です。

アーティストとはアートの文脈の延長線上に自分の作品を置こうとしてる人たちです。
巨人(文脈)の肩や頭の上に乗ろうと挑戦してるのがアーティストです。
巨人に登るには巨人(文脈)を知る必要があります。

「みのミュージック」はポピュラー音楽を批評してますが、そこから先を自分の音楽で表現しようとしてる感じがして、その方法はアーティストそのものです。
バンドをやっている人たちって好み剥き出しで、文脈や批評性をむしろ嫌っている印象(というか偏見)があったので斬新に感じました。


その「みのミュージック」で通称「激辛バックビートおじさん」について言及してる回があります。
メジャー曲好き→ニワカ、マイナー曲好き→ファン…?【賛否両論47】

一部文字起こしをします。

R&Bとかやるんだったら全然そういう感覚でいいと思うんですよ。
向こうの土俵で頑張る、アフリカン・アメリカンのリズムの取り方になるべく近づきたいというノリでやるんだったらこのアプローチで全然合ってると思います。
ただですねそれを日本人全体に主語を広げて「日本人のリズムはおかしい」みたいな、
音楽教育の話とかまでしてますから、
そういうこと言い出すとちょっとちょっとおかしいと僕は思いますね。
日本人のリズムを完全に海外のR&B的なものと取っ替えてしまおうってなると、それって日本の文化的なストロングポイントを自ら捨ててしまうっていう行為なんで、すごくもったいないと思う。

確かにみのさんのおっしゃる通り頭重心の音楽は日本の文化だと思います。


ただ、それはそう単純ではないと思ってます。


そもそもロックを始め日本のポピュラー音楽全般が洋楽の模倣から始まっています。
みのさんはR&Bに限定して言及してますが、ロックもジャズもファンクもヒップポップもアメリカのポピュラー音楽はほぼほぼバックビートです。

それなのにバックビートを無視していていいのでしょうか?

ロックのビートはバックビートを表現するためにあるし、
いや、ベースもギターもボーカルも、バックビートを土台として曲になっている。
それらを頭重心で演奏しちゃったからノリがヘンテコだったわけなんですよ。


これ、ロックバンドやったことある人なら感じたことあるはずなんですよ!


で、日本人がロックをやるとダサくなる原因が「日本語」によるものだと先輩たちはそう解釈したんでしょう。

なので、
・「本当にロックやるなら英語じゃないと」派が出たのですが、
・日本語と英語のチャンポンを発明(キャロルの君はファンキーモンキーベイベ〜とか)、
・日本語らしからぬ歌い方を発明(サザンオールスターズの巻き舌とか忌野清志郎のハスキーボイスとか)、
など、様々な工夫をしながら日本語ロックをカッコ良くしようと進化してきたのです。
本当にそれは素晴らしいと心底思っております。


でね、私これ、
いわゆる「グルーヴ」と呼ばれていた「ノリの良い曲」とは「バックビート」だったという、
シンプルな答えを明確に分かっていた人がいなかったんじゃないかって思っています。


でも、今となっては邦ロックは頭重心「誤拍裏打ち」のまま進化をし続けているし、
(頭重心「誤拍裏打ち」の)シティポップに至っては世界中でリバイバルヒットしてしまった。
こうなったら、「誤拍裏打ち」は開国後の「擬洋風建築」のように一つの日本文化になるんじゃないか?
と思ったりもします。



がしかし!!!
ここで最大の問題がやってきます。
ラップです。ヒップホップです。

今、日本だけでなく世界中の音楽がラップの影響を受けていますが、これらの音楽はもちろんガッツリ「バックビート」です。
ラップのカッコ良さ、ヒップホップダンスのカッコ良さの根底にはバックビートありきなんですよ。

あなたも感じたことあるでしょ?
日本人がラップして「アハン、イエィ」とか言ってダブダブの服着て踊ってもなんかダサい感じの、あれ、

バックビートになってないからなんですよ。

これ以上バックビートを無視してられない状況が来ていると思うのです。

それに、バックビートのヒップホップダンスを頭重心で踊ったら、身体の重心が逆になるので、身体を壊したりしないだろうか?


ところで、
最近の日本の音楽がやかましいと感じるのは歳をとったのもありますが、
頭重心でありながらも2,4拍もスネアで強打していて、結果全拍強打でグルーヴ感が無い、というビートになってるのもあると思ってます。
2,4拍目で沈み込んでスウィングしないんです。

だから、「新しい学校のリーダーズ」のようなチャカチャカしたダンスになるんじゃないのかなあって感じてます。
もちろん、「新しい学校のリーダーズ」は好きなんですよ。
けどこれはバックビートが無いまま「誤拍裏打ち」となり、全拍強打のグルーブ感の無い日本のポピュラー音楽土壌が生み出したダンスのようにも感じます。






で、フツーにアメリカのヒップホップ的なダンスを観てみると、楽なんです。なめらかでシャープなんです。
例えば、厳密にはこれをヒップホップとは呼ばないかもだけど、、
Chaka Khan - Like Sugar


ブルブルブルって震えたり、カクカクカクって踊ったりしてるけど、なめらかでしょ?
これは体幹筋力とかの問題もあるかもですが、バックビートでスウィングしてるからじゃないのでしょうか?



でですね、さっきのゆらゆら帝国『夜行性の生き物3匹』のMVの阿波踊りを観てください。
なめらかでシャープでしょ?


このように重心をしっかりとってる踊りは頭重心であろうとバックビートであろうと、なめらかでシャープになるんじゃないでしょうか?
(ただこの楽曲は誤拍裏打ちだと思います。踊り自体は頭に重心のある音頭のノリで踊っていると思われます)




頭重心の誤拍裏打ち=日本の伝統のリズムの誤解



みのさんが頭重心を「日本のストロングポイント」と言っていたけど、これ、もうちょっと複雑だなって思っているんです。


つまり、前述の『Awa Odori in 1950's 阿波踊り1950年代』のように、しっかりと頭重心のリズムだと、グルーヴ感ってバリバリ生まれて、踊りもなめらかでシャープになります。


で、日本の戦後音楽はロック、ジャズ、ブルース、ファンクなどのポピュラー音楽を譜面からしたらちゃんとコピーしてるのでしょうけど、重心のバックビートを置き去りにして頭重心のままにコピーした。
するとどういうことが起こるのかというと、
重心が1,3泊目にあり、2,4拍目にもスネアで強打することによって、スウィングするようなグルーブ感は消えてしまい、全拍強打になる。
結果、その場でぴょんぴょん跳ねる「タテノリ」というのがインディーズ・ロックから登場する。
また、ダンスナンバー的J-POPは、2,4拍目で沈み込んでスウィングしないので、
自然には腰が動かず、上半身だけが動くパラパラダンスのような動きが発生し、そのまま進化し続けている。

これらの進化は日本の伝統的な頭重心とは違うんですよ。

これを認識しておく必要があるなあって思った次第なのです。
日本古来の文化ではないんですが、日本特有のものですよ。明らかに。
でも、これを日本古来の頭重心と同じだと勘違いしない方が良いと思っているのです。


日本古来の頭重心の伝統グルーヴも、
黒人音楽を源流とした2,4拍重心の洋楽グルーヴも、
日本人は「誤拍裏打ち」によって両方とも破壊しちゃって進化している、

意図的ではなく、つまり革命的ではなく、
偶然というか、バックビートが分からないというところから生じた独特進化を辿ったガラパゴス・オリジナリティだと思うんです。

非常に奇妙なんですよ。
だからバックビートおじさんは激辛になってしまったんだと思うのです。


でもこれ、アートとして捉えるなら「新しい学校のリーダーズ」こそ最先端の日本オリジナルで、偶有性に満ちているからこそ面白いワケなんです。





結論:みのさんがバックビートもやって宇宙革命を起こす


結論なのですが、これから先、日本人がロック的な、またはジャジーな、またはソウルフルな洋楽にルーツがあるような曲を発表するならば、
バックビートを取り入れるか、
それができなかったら、バックビートではないことをきちんと認識しながら、意図的にやっていく時代になると思う。

知らないままの天然進化だった邦楽のこれからが楽しみになる。
デッサンを上手に描けないからこそ、多視点を導入して後のキュビズムに繋げたセザンヌように。


で、みのさんがバックビートおじさんのことを一蹴してしまっているのは、私個人的にはちょっと残念で、
ここまで文脈を理解できているみのさんだからこそ、バックビートの歴史を辿ってバックビート史観を構築した方がいいんじゃないのかなって思ってしまいます。

なぜならば、そもそも頭重心だったアメリカのポピュラー音楽が、アフリカからやって来たバックビートを飲み込んで、ジャズ、ブルース、ファンク、ロック、ポップス、ラップ、ヒップホップ、全アメリカのポピュラー音楽の基本構造に塗り替えて、日本にやって来たのですから。


多分、松村敬史さんが日本人で初めてグルーヴを正確に訳せた人だと思うのです。
このお方、アート的に見たら日本音楽史のメルクマールに成り得るんじゃないか?と思うくらいです。
例えるなら、『裸の王様』で「王様は裸だ!」と本当のことをバラしてしまった子どもです。


昭和だったら知らないままで良かったのですが、知ってしまった以上、こんな重要なことを無視するわけには行かないと思います。
それは歴史(文脈)を分かっているみのさんなら本当は分かっていることだと思うのですわ。





最後に、余談ですが
これだけ重要なバックビート問題、なぜか音楽をやっている当事者さんたちからはスルーされてる感じします。

そこで、なぜ現在のロック、ジャズ、ブルースなどをやっている人たちに広まってないかをちょっと邪推します。


なんとなくなくだけどこれって「イデオロギー問題」かなあって思ってます。

ロックやジャズなど音楽をやっている人たちはリベラルな人が多い印象があります。
当然、アーティストもリベラルな人が多い。

ところが、松村敬史さんはどうも反リベラルで、左翼批判をしている動画も見受けられます。
今の所、実演付きでバックビートを解説できている方は彼しか見当たりません。
なのでバックビートを身体で学ぶには松村さんの動画を観るしかないのです。
第一回で紹介した山北弘一さんもバックビートには言及されていますが、実演動画が彼が違和感を感じているのを表現してるにとどまっていて、松村さんのように「頭重心だとこう」「バックビートだとこう」と分かるように実演されているわけではありません

ところが、松村さんは反リベラル発言も動画・SNSで繰り返し発信しているので、リベラルな人たちからすると決して耳障りの良いものではないでしょう。

このイデオロギー対立が見えないところで働いて、リベラルが多いミュージシャンやアーティストには広がらないのかなあって思ってます。


これ、どちらかが歩み寄らないとずっと平行線なんですよね。。。

そして、この最も重要なバックビートの言語化と実演がリベラルからは登場しなかった、という事実は興味深いなあと思ってます。

20世紀まではロックもアートも、反体制でリベラルな左翼イデオロギーと共に進化してきた歴史がざっくりとありました。
しかしリベラルは行き詰まり、21世紀はむしろ右派、ネトウヨ的なところから新しいものや本質的なものが出現し始めているのかも知れません。

(自分は心情左翼だと言ってた)宮崎駿さんが亡くなったら、ひょっとしたらこの国はリベラルからは何も生まれなくなるんじゃないか? と心配になってくる。(もちろん右左で分けるはどうかと思うところもあるのですが)


なのでみのさんがバックビートを習得して、頭重心・バックビート、両方できるようになって、
あえて頭重心の日本語ロック曲を発表するのが一番カッコいいのかなあって勝手に思ってます。

みのさんは『オーディオブック「戦いの音楽史」【後編】』で日本の音楽こそこれから世界をリードすると希望を込めて予言してますが、
それはバックビートを体得したみのさんかも知れません。
(ここまでみのさんのことをあれこれ言うのは失礼極まりないのですが、、、もし万が一みのさん本人がこのブログを読んで気分を害されてしまったならばご一報くださいませ)


長くなってしまった。。。
最後までお読みいただき有り難うございました!!




エンディング曲:
きのこ帝国 - 夜が明けたら


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